160年、五侯の横暴と、辺境の再乱
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
160年正月、李燮は、李氏の生き残り
初,固既策罷,知不免禍,乃遣三子基、 茲、燮皆歸鄉里,時燮年十三,姊文姬為同郡趙伯英妻,見二兄歸,具知事本,默然獨 悲曰:「李氏滅矣!自太公已來,積德累仁,何以遇此!」密與二兄謀,豫藏匿燮,托 言還京師,人鹹信之。有頃,難作,州郡收基、茲,皆死獄中。文姬乃告父門生王成曰: 「君執義先公,有古人之節;今委君以六尺之孤,李氏存滅,其在君矣!」成乃將燮乘 江東下,入徐州界,變姓名為酒家傭,而成賣卜於市,各為異人,陰相往來。
160年春正月丙申、天下を赦した。桓帝は、李固の後嗣を探させた。
李固には、3人の子がいた。李基、李茲、李燮だ。李固は、梁冀に免官された。
李固は、3人の子が禍いを受けるから、帰郷させた。末子の李燮は、13歳だ。姉の李文姫は、同郡の趙伯英の妻だ。李燮の姉は、悲しんだ。「祖父の李郃が徳と仁をつんだのに、李氏は滅びてしまう」と。李燮の姉は、2人の兄とはかり、李燮をかくした。
のちに梁冀は、李燮の兄を2人とも獄死させた。李燮の姉は、李固の門生・王成に頼んだ。「六尺(15歳以下)の孤児(李燮)を、あなたに委ねる。李氏の存滅は、あなた次第だ」と。王成は長江をくだり、徐州で酒屋をした。
10余年たった。梁冀が誅された。李燮は帰郷し、父や兄の喪に服した。李燮の姉は、喜んだ。のちに、李燮をかくまった王成が死んだ。李燮は、四節(四時)の祭を欠かさなかった。
160年正月、五侯と侯覧が、権勢をふるう
160年正月丙午、新豐侯の單超が死んだ。異例の葬具&葬式をした。宦官の五侯は、4人になった。天下の人は、言った。「左悺の権力は、天を回せる。具瑗は、驕って独座する。徐コウは、誰も近づけない。唐衡は、害毒を天下に降らす」と。4人とも屋敷を築いて、華美を競った。僕從は、牛車に乗って列をなす。宦官の兄弟や姻戚は、州郡を治める。宦官の縁者は、盗賊と同じだ。民は苦しみ、盗賊が増えた。
ぼくは、『資治通鑑』159年の筋書きを、振り返る。梁冀は王朝を腐敗させた。梁冀が死に、黄瓊が改革。だが再び桓帝が、王朝を腐敗させた。159年だけで、二転三転する。司馬光が強調した黄瓊の列伝に興味あり。後日読みます。ただぼくは、梁冀から桓帝に、きわめて円滑に「腐敗したリーダー」が移行しただけだと思う。
左心官兄勝為河東太守,皮氏長京兆岐恥之,即日棄官西歸。唐衡兄玹為京兆尹, 素與岐有隙,收岐家屬宗親,陷以重法,盡殺之。岐逃難四方,靡所不歷,自匿姓名,賣餅北海市中;安丘孫嵩見而異之,載與俱歸,藏於復壁中。及諸唐死,遇赦,乃敢出。
中常侍の侯覧と、小黄門の段珪は、済北国の境界に、田業をもつ。侯覧と段珪の僕従は、済北国から、劫掠をした。済北相の滕延は、すべて捕え、数十人を殺し、死体をさらした。侯覧と段珪は、桓帝に言いつけた。桓帝は、滕延を廷尉にわたし、済北相を免じた。
左悺の兄は、左勝だ。左勝は、河東太守となる。皮氏長する京兆の趙岐は、左勝の下位になるのを恥じた。趙岐は、県長の官位を棄てて、西に帰した。
ぼくは思う。県長は、太守の部下という意識が、どれくらい強かったのかなあ。この趙岐は後漢末に、公孫瓚と袁紹を停戦させる人か?
唐衡の兄は、唐玹だ。唐玹は、京兆尹となる。趙岐の家属&宗親を、すべて殺した。趙岐は名をかくして、北海でもちを売った。安丘の孫嵩が、趙岐を壁中にかくまった。唐衡が死んでから、趙岐は出ることができた。
160年夏、段熲が西羌を追いすぎる
160年閏月、西羌の余衆は、燒何とともに張掖を寇した。段熲は、下馬して西羌と戦う。段熲は追撃した。段熲は、肉を割いて、雪を食べた。40余日で、積石山にきた。長城を出て、2千余里だ。段熲は、燒何の大帥を斬った。のこりを降して、段熲はもどった。
160年夏5月甲戌、漢中山が崩れた。6月辛丑、司徒の祝恬が薨じた。
160年秋冬、辺境の賊が活発になる
長沙蠻反,屯益陽,零陵蠻寇長沙。 九真餘賊屯據日南,眾轉強盛;詔復拜桂陽太守夏方為交趾刺史。方威惠素著,冬, 十一月,日南賊二萬餘人相率詣方降。
勒姐、零吾種羌圍允街;段熲擊破之。
泰山賊叔孫無忌攻殺都尉侯章;遣中郎將宗資討破之。詔征皇甫規,拜泰山太守。 規到官,廣設方略,寇虜悉平。
160年秋7月、司空の盛允を司徒とした。太常の虞放を、司空とした。
長沙の蠻が反して、益陽に屯した。零陵の蠻が、長沙を寇した。九真の余賊が、日南に拠って、強盛となる。桂陽太守の夏方を、ふたたび交趾刺史とした。夏方の威惠は、ふだんから著明だ。160年冬11月、日南の賊・2万余人は、夏方にくだった。
勒姐と、零吾種の羌族が、允街をかこむ。段熲が、破った。
泰山賊の叔孫無忌は、都尉の侯章を殺した。中郎將の宗資は、叔孫無忌を破った。桓帝は、皇甫規を泰山太守とした。皇甫規が着任すると、叔孫無忌らは平らかになった。101204
後漢の地方政治に、日本の、均質な地方行政を投影してはいけない。だれが長官になるかによって、正反対になることもある。治められる側からしたら、皇帝は同一人物でも、太守によって、まるで別の国に住むかのようになるだろう。