102年、陰皇后から、鄧皇后に代わる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
102年春、西海郡をおき、羌族にそなえる
春,安定降羌燒何種反,郡兵擊滅之。時西海及大、小榆谷左右無復羌寇,隃麋相 曹鳳上言:「自建武以來,西羌犯法者,常從燒當種起,所以然者,以其居大、小榆谷, 土地肥美,有西海魚鹽之利,阻大河以為固。又,近塞內諸種,易以為非,難以攻伐, 故能強大,常雄諸種,恃其權勇,招誘羌、胡。今者衰困,黨援壞沮,亡逃棲竄,遠依 發羌。臣愚以為宜及此時建復西海郡縣,規固二榆,廣設屯田,隔塞羌、胡交關之路, 遏絕狂狡窺欲之源。又殖谷富邊,省委輸之役,國家可以無西方之憂。」
102年春、安定にいる降羌の燒何種が反した。
郡兵は、燒何種を滅した。ときに、もともと燒何種がいた、西海や大小の榆谷を、羌族が寇した。隃麋(扶風)相の曹鳳にが、上書した。「榆谷は土地が肥え、西海は漁業&製塩ができる。羌族は、ここを狙う。西海郡を設置し、ここを管理せよ」と。
三月,戊辰,臨辟雍饗射,赦天下。
和帝は曹鳳に従い、西海郡の役所を補修した。金城の西部都尉を、西海郡にうつし、守らせた。曹鳳を、金城の西部都尉として、龍耆におく。屯田をひろげ、黄河をおさめ、34部の人口が根づく。曹鳳は、永初中に諸羌が叛したから、クビとなる。
102年3月戊辰、雍饗射に臨辟し、天下を赦した。
102年夏、陰皇后が和帝を呪い、陰氏を一掃
陰皇後多妒忌,寵遇浸衰,數懷恚恨。後外祖母鄧硃,出入宮掖,有言後與硃共挾 巫蠱道者;帝使中常侍張慎與尚書陳褒案之,劾以大逆無道,硃二子奉、毅,後弟輔皆 考死獄中。六月,辛卯,後坐廢,遷於桐宮,以憂死。父特進綱自殺,後弟軼、敞及硃 家屬徙日南比景。
102年夏4月、荊州の兵1万余人が、巫蠻の許聖を大破した。許聖についた人を、すべて江夏にうつす。
陰皇后は、嫉妬ぶかいから、和帝に寵遇されず。陰皇后は和帝に、恚恨をいだく。皇后の外祖母・鄧硃は、宮掖に出入りした。陰皇后は、外祖母ともに、和帝を蠱道した。中常侍の張慎と、尚書の陳褒は、外祖母とその2子を獄死させた。陰皇后の弟・陰輔を獄死させた。
6月辛卯、陰皇后は廃され、桐宮で憂死した。皇后の父・特進の陰綱は、自殺した。皇后の弟・陰軼と陰敞および、鄧硃の家屬を、日南の比景にうつす。
102年秋、班超が西域から帰国して、死ぬ
班超久在絕域,年老思土,上書乞歸曰:「臣不敢望到酒泉郡,但願生入玉門關。 謹遣子勇隨安息獻物入塞,及臣生在,令勇目見中土。」朝廷久之未報,超妹曹大家上 書曰:「蠻夷之性,悖逆侮老;而超旦暮入地,久不見代,恐開奸宄之源,生逆亂之心。 而卿大夫鹹懷一切,莫肯遠慮,如有卒暴,超之氣力不能從心,便為上損國家累世之功, 下棄忠臣竭力之用,誠可痛也!故超萬裡歸誠,自陳苦急,延頸逾望,三年於今,未蒙 省錄。妾竊聞古者十五受兵,六十還之,亦有休息,不任職也。故妾敢觸死為超求哀, □超餘年,一得生還,復見闕庭,使國家無勞遠之慮,西域無倉卒之憂,超得長蒙文王 葬骨之恩,子方哀老之惠。」帝感其言,乃征超還。
102年秋7月壬子、常山殤王の劉側が薨じた。子がない。兄・防子(常山)侯の劉章を、常山王とした。
三州で大水あり。
班超は、ながく西域にいる。年老いて、故郷が恋しい。班超は、帰りたいと願った。「酒泉郡に入りたいとまで、言わない。せめて玉門關に入りたい」と。朝廷は、ながく班超に返答せず。班超の妹・曹大家は、上書した。「班超の帰国を、ゆるしてください」と。和帝は、帰国を許した。
102年8月、班超は洛陽にもどり、射聲校尉となる。9月、波長は死んだ。
班超が帰国したから、戊己校尉の任尚は、代わって都護となる。任尚は、班超に言った。「班超は、国外に30余年いた。私(任尚)のような小人では、班超を継げない」と。班超は言った。「任尚の性質は、嚴急だ。水が清ければ、大魚がいない。任尚の性質をありのままに発揮すると、西域の経営は失敗する。異民族の小さい過ちは、見のがせ」と。のちに任尚は、班超の言ったとおり、失敗した。
102年秋10月、人格ある鄧皇后がたつ
かつて太傅の鄧禹は、人に言った。「私は100万の軍をひきいた。だが1人たりとも、みだりに殺さず。かならず後世に、鄧氏が興るだろう」と。鄧禹の子・護羌校尉の鄧訓は、鄧綏という娘がいる。鄧綏は、性質が孝友で、書傳をこのむ。家人は鄧綏を、「諸生」とよぶ。叔父の鄧陔はいう。「千人を活かせば、子孫は封じられるという。兄の鄧訓は、謁者となり、石臼河を治水して(088年)、数千人を活かした。鄧氏の家に、福がくるだろう」と。
鄧綏は、和帝の貴人となった。恭肅で小心なので、和帝に深く嘉みされた。かつて鄧綏は、病気となる。鄧綏の母や兄弟は、医薬をせっせと運ぶ。鄧綏は、医薬をことわる。「宮室に、鄧氏の家族が出入りすれば、和帝が鄧氏を特別あつかいしたと、ウワサがたつ。宮室に出入りするな」と。
和帝は、鄧綏をたたえた。「宮室に一族が出入りすれば、みな栄華をよろこぶ。だが鄧綏は、かえって憂いた」と。
宴会のとき、みな着飾るが、鄧綏だけは質素だ。衣服の色が、陰皇后と同じなら、すぐに鄧綏は着替えた。もし同色の衣服で並んでしまえば、陰皇后と並んで立たない。鄧綏は、身体をまげた。和帝が理由を聞いた。しぶしぶ鄧綏は答えた。「陰皇后は身長がひくい。私は背が高いから、見栄えしていけない」と。鄧綏は、自分の過失とした。和帝は、鄧綏に歎じた。「鄧綏の修德の勞は、こんなにもか」と。
のちに陰皇后の寵愛がおとろえた。和帝から呼ばれても、鄧綏はことわる。鄧綏は、和帝の皇子がしばしば死ぬので、皇統がせばまるのを憂いた。鄧綏は、才気ある女性を、和帝にすすめた。
陰皇后は、鄧綏をねたむ。かつて和帝が寝こんだとき、陰皇后は言った。「鄧氏を滅ぼしてやろう」と。鄧綏は流涕して言う。「陰皇后には、真心が通じなかった。私は死のう。上は、和帝の恩に報いたい。中は、鄧氏から禍いをのぞきたい。下は、陰氏がヒトブタの譏を受けないようにしたい」と。
鄧綏は服毒しそうだが、止められた。翌日、和帝が回復した。陰皇后を廃して、鄧綏を皇后とした。鄧綏は、かたくことわる。
102年冬10月辛卯、鄧綏を皇后とした。郡國の貢獻は、すべて禁じた。ただ、紙墨だけ受けとる。鄧綏は、一族を高官に就けたくない。ゆえに兄の鄧隲が、虎賁中郎將になっただけだ。10月丁酉、司空の巢堪をやめた。
102年冬、司空の徐防が、学風を論じる
是歲,初封大長秋鄭眾為巢刀鄉侯。
102年11月癸卯、大司農する沛國の徐防を、司空とした。徐防は上疏した。「後漢は、14家の博士を立てた。試験を実施した。
だが今日の博士たちはは、ろくに学ばず、張り合ってばかりだ。古典に基づいて研究するのは、儒学が先進する。古典や前例を踏まえない発言は、やめさせよ」と。和帝は、徐防を認めた。
この102年、はじめて大長秋の鄭眾を、巢刀鄉(南陽)侯とした。101227