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195年:孫策自立、公孫瓚の死

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

195年春夏秋:李傕と郭汜が開戦し、長安を出る

興平2年(195年)春正月癸丑、天下に大赦した。
曹操は呂布を、定陶でやぶった。
詔して、袁紹を右将軍にした。
董卓が死んだとき、三輔には数十万戸あった。李傕たちが争い、人口が減った。馬騰と韓遂が、長安を攻めた。韓遂は、樊稠と交馬語した。李傕と樊稠が、対立した。

長安周辺のことは、かなり省略します。
「魏志」の董卓伝を、ほぼ丸写しのようです。


2月、李傕と郭汜の妻があらそい、糞汁を飲ませる。
3月、李傕が献帝をうばう。太尉の楊彪が、李傕を叱った。朱儁が、李傕たちの争いのコマに使われ、憤死。
夏4月甲午、琅邪の伏氏を皇后とした。皇后の父・侍中の伏完を、執金吾にした。

袁術の部下には、琅邪の人が多い。伏氏は袁術とつながっていて、、
とは、妄想が過ぎるでしょうか。笑

閏月、謁者僕射の皇甫レキが、李傕と郭汜を仲裁。

呂布の部将・セツ蘭と李封が、山陽郡の鉅野に。曹操はセツ蘭を斬り、乗氏へ。荀彧は曹操に「陶謙が死んだ徐州より、呂布を先に倒しなさい」と進言。

「魏志」の荀彧伝にありました。

呂布は曹操にやぶれ、劉備に逃げた。張邈は呂布に従う。張超は、雍丘をたもった。劉備は呂布と親しく酒を飲んだ。
李傕と郭汜は連戦し、死者が数万。

6月、楊奉が李傕を殺そうとした。庚午、鎮東将軍の張済が、陜からきて、李傕と郭汜を和解させた。

董卓伝を読めばよさそう。ザクッと省略。

8月甲辰、献帝の車駕は、新豊に。丙子、郭汜はまた献帝をうばい、ビに連れ戻そうとした。侍中のチュウショウは察知した。楊定、董承、楊奉は、郭汜をブロックした。郭汜は南山に入った。
曹操は雍丘を囲んだ。張邈は袁術に、救いを求めた。袁術につく前に、張邈は殺された。

195年冬:献帝が、洛陽あたりに到着

冬10月、曹操が兗州牧になった。

曹操は、金尚を追いかえした。曹操は袁術を負かし、兗州を実支配した。献帝の周囲は大混乱だから、べつの刺史を送るエネルギーはなかろう。

壬寅、献帝は華陰へ。チュウショウの部将・段ワイは、楊定と仲が悪い。段ワイが、そむこうとした。太尉の楊彪、司徒の趙温、侍中の劉ガイ、尚書の梁紹は、段ワイを責めた。

12月、白波の李楽と韓暹、南匈奴の右賢王らが、数千騎で李傕を討った。董承らは献帝を取り戻し、東へ。乙亥、献帝は、安邑へ。

ひどく省いたが、「魏志」董卓伝と、『後漢書』献帝紀だ。

河東太守の王邑は、献帝に物資を供給した。
乙卯、張楊は、野王から献帝に詣でた。張楊は、献帝を洛陽にもどそうとした。みな反対した。このとき長安は40余日も空白で、強者たちは長安から四散した。2、3年、関中には人が戻らなかった。

沮授は、袁紹に「献帝をむかえて、諸侯に号令せよ」と云った。潁川の郭図と淳于瓊は、反対した。袁紹は、沮授を用いず。

袁紹伝にある。このタイミングで入れるのが、ニクい。


195年、月を分類できない記事

はじめ丹楊の朱治は、孫堅の校尉になった。

ここから下、195年12月じゃないよね。司馬光が月を無視してる?

朱治は、袁術の政治が成立しないのを見て、孫策に従った。呉景が、樊能と張英らを攻めているが、勝てない。孫策は袁術に云った。
「3万をください。樊能たちを私が討ちます」
袁術はこれを憎んだが、劉繇が曲阿に、王朗が会稽にいる。孫策を折衝校尉にして、千余人と、馬数十匹を与えた。孫策は歴陽で、5、6千を合わせた。
ときに周瑜の従父・周尚は、丹楊太守となった。周瑜は孫策を迎え、資糧をたすけた。横江と当利で、孫策は勝った。孫策がきたと聞けば、万民は魂魄をとばした。孫策の兵は、略奪をしない。

孫策の独立を、『資治通鑑』はここに置く。

孫策は、劉繇を牛渚でせめた。兵糧と戦具をうばった。
ときに彭城相の薛禮と、下邳相をつとめる丹楊の笮融は、劉繇を盟主にした。薛禮は、秣陵城にいる。笮融は、県南にいる。孫策は、どちらも破った。劉繇の別将を、梅陵で破った。湖ジュクと江乗をくだす。劉繇を曲阿に討った。同郡の太史慈は、東莱からきて劉繇を助けた。

東莱で孔融を助けていたんだっけ? 陶謙-劉備系?

劉繇は「許子將に笑われるから」という理由で、太史慈を大将に用いない。孫策は、神亭で太史慈と一騎うちをした。

この逸話を、司馬光さんは拾ったらしい。笑

劉繇は、丹徒に逃げた。孫策は曲阿に入った。劉繇や笮融らの部曲を説得し、降伏したら、前歴は不問とした。旬日の間、2万余人が、孫策に集まった。袁術は表して、孫策をテンコウ将軍とした。

孫策は、袁術のために劉繇を討ったから、昇進したのだ。独立など、していない。確認しておきたい。


呂範は孫策に云った。
「孫策さまは盛んです。しかし軍律は整わない。私には、現場系の仕事をお任せください」
孫策は、しぶしぶ認めた。

会話の中身は、呂範伝を参照。

孫策は、張紘を正議校尉に、彭城の張昭を長史にした。どちらかに留守を任せた。広陵の秦松、陳端らも、孫策に従った。孫策は、張昭が北方と手紙をやりとりしても、とがめない。

張昭伝にある話ですね。

袁術は、従弟の袁胤を、丹楊太守にした。周瑜と周尚は寿春にかえった。
劉繇は、丹徒から会稽ににげた。許劭は云う。
「会稽は富貴です。孫策が狙うでしょう。海沿いで、逃げにくい。豫章がいい。北は曹操の豫州とつながり、西は荊州とつうじる」
劉繇は、許劭に従った。

はじめ陶謙は、笮融を下邳相にした。広陵、下邳、彭城の糧運を任せた。笮融は、3郡の輸送を好きにやった。笮融は仏教をやった。曹操が徐州を討つと、笮融は男女万口をつれて、広陵に逃げた。広陵太守の趙昱は、賓客として、笮融をむかえた。
これより先、彭城相の薛禮は、陶謙にせめられ、秣陵にいた。笮融は広陵の豊かさに目がくらみ、趙昱を殺した。広陵郡でぬすみ、長江をわたった。笮融は、薛禮をたより、薛禮を殺した。
劉繇は、豫章太守の朱晧に、袁術が任じた諸葛玄を討たせた。諸葛玄は、西城をたもった。劉繇は長江を西にさかのぼり、彭澤にいる。劉繇は笮融に、朱晧を助けさせた。許劭が、劉繇に云った。
「笮融は、名義をかえりみない。朱晧は、誠実に人を信じる。朱晧に、笮融を警戒せよと云いなさい。笮融は、豫章を乗っ取るぞ」
劉繇は、笮融を攻撃した。笮融は山に入り、民に殺された。詔し、さきの太傅掾の華歆を、豫章太守にした。
丹楊都尉の朱治は、呉郡太守の許貢を追いはらった。許貢は、山賊の厳白虎を頼った。

◆張超と臧洪の最期
張超は雍丘で、曹操に包囲されている。張超は「臧洪だけが、私を救ってくれる」と云った。

張超は広陵太守だったとき、臧洪を功曹にしてあげたらしい。

みなが、張超に云った。
「袁紹と曹操は、仲がいい。臧洪は、袁紹に東郡太守にしてもらった。臧洪は、袁紹-曹操と対立するのをイヤがり、張超さまを助けないでしょう」
袁紹は臧洪を、曹操は張超を滅ぼした。

「魏志」の臧洪伝を参照。おもしろそう!読みたい。いま省略。


◆公孫瓚の最期
公孫瓚は、すでに劉虞を殺し、幽州をもつ。万民に怨まれた。劉虞の従事をつとめた、漁陽の鮮于輔らは、州兵をあつめて劉虞のカタキをとりたい。燕国の閻柔は、ふだんから恩信がある。烏丸司馬となった。閻柔は、胡族と漢族を数万あつめた。公孫瓚がおいた漁陽太守の雛丹と、ロ北で戦った。雛丹らを斬った。

公孫瓚が、胡族を敵に回したツケが回ってきた。

鮮于輔は、劉虞の子の劉和をむかえ、袁紹の10万と合わさった。公孫瓚を攻めた。

『後漢書』公孫瓚伝を参照。くわしくて面白い。『三国志』の公孫瓚伝だけ読み、それで満足していた。ダメだ。

南単于の於夫羅が死に、呼廚泉が平陽でたつ。100520

於夫羅は、袁術と結んだ人。袁術と匈奴は、これでキレたか。