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『晋書』列60「良吏」 3)益州土着の杜軫と竇允
杜軫
杜軫,字超宗,蜀郡成都人也。父雄,綿竹令。軫師事譙周,博涉經書。州辟不就,為郡功曹史。時鄧艾至成都,軫白太守曰:「今大軍來征,必除舊佈新,明府宜避之,此全福之道也。」太守乃出。艾果遣其參軍牽弘自之郡,弘問軫前守所在,軫正色對曰:「前守達去就之機,輒自出官舍以俟君子。」弘器之,命複為功曹,軫固辭。察孝廉,除建寧令,導以德政,風化大行,夷夏悅服。

杜軫は、あざなを超宗といい、蜀郡は成都の人である。父の杜雄は、綿竹の県令だった。
杜軫は譙周に師事して、經書について博学だった。州が辟召したが就職せず、郡の功曹史となった。鄧艾が成都に到ったとき、杜軫は成都太守に言った。
「いま大軍が征圧に来ています。必ず旧(蜀漢)を除いて、新(曹魏)による政治が佈かれるでしょう。明府(あなた)は逃避されるべきです。これこそ全くの福之道でございます」
〈訳注〉「佈」は広めることで、「敷く」に通じる。「布」と同じ。
太守は聞き入れて、成都から出た。果たして鄧艾が成都を占拠すると、參軍の牽弘を派遣してきた。牽弘は杜軫に、前任の太守の居所を聞いた。杜軫は気色を正して答えた。
「前任の太守は、(成都陥落という)去り際を迎えると、すぐに自発的に官舍を出て、君子(占領軍=あなたたち)を待っておられました」
牽弘は、杜軫の答えから器の大きな人物だと見込んだ。
〈訳注〉杜軫の列伝が立ったのは、ひとえのこの台詞のおかげだ。
牽弘は杜軫に、オレの功曹になれと命じた。杜軫は固辞した。
孝廉に挙げられて、建寧の県令になった。德政によって人民を導き、教化は大いに行なわれ、夷夏(異民族と漢民族)は悅んで服した。

秩滿將歸,群蠻追送,賂遺甚多,軫一無所受,去如初至。又除池陽令,為雍州十一郡最。百姓生為立祠,得罪者無怨言。累遷尚書郎。軫博聞廣涉,奏議駁論多見施用。時涪人李驤亦為尚書郎,與軫齊名,每有論議,朝廷莫能逾之,號蜀有二郎。軫後拜犍為太守,甚有聲譽。當遷,會病卒,年五十一。子毗。

任期が満了して杜軫が帰還しようとすると、群蠻は追って見送り、贈り物はとても多かった。だが杜軫は一切を受け取らず、初めて来たときと同じ身軽さで去った。
次は池陽の県令となった。雍州十一郡の中で、最も良政をやった。百姓は、杜軫が生きているが祠を建てた。罪を得た人も、怨言を吐くことはなかった。
累ねて尚書郎に遷った。杜軫は博聞廣涉で、奏議駁論(サジェッション)は多くが採用された。
涪の人である李驤が同時期に尚書郎となり、杜軫と同じくらい名声があった。いつも2人が論議すると、朝廷には付いていける人がいないから、「蜀に二郎あり」と号された。杜軫はのちに犍為太守を拝したが、とても声誉があった。また転任しようとしたとき、病気になって死んだ。享年は51だった。子は杜毗という。

毗字長基。州舉秀才,成都王穎辟大將軍掾,遷尚書郎,參太傅軍事。及洛陽覆沒,毗南渡江,王敦表為益州刺史,將與宜都太守柳純共固白帝。杜弢遣軍要毗,遂遇害。
毗弟秀,字彥穎,為羅尚主簿。州沒,為氏賊李驤所得,欲用為司馬。秀不受,見害。毗次子歆,舉秀才。
軫弟烈,明政事,察孝廉,曆平康、安陽令,所居有異績,遷衡陽太守。聞軫亡,因自表兄子幼弱,求去官,詔轉犍為太守,蜀土榮之。後遷湘東太守,為成都王穎郎中令,病卒。
烈弟良,舉秀才,除新都令、涪陵太守,不就,補州大中正,卒。

杜毗はあざなを長基という。州に秀才に挙げられた。成都王の司馬穎は、杜毗を辟召して大將軍掾とした。尚書郎に遷り、參太傅軍事となった。洛陽が覆沒すると、杜毗は南へ渡江した(東晋に仕えた)。
王敦は上表して、杜毗を益州刺史にした。宜都太守の柳純とともに、杜毗は(成漢から)白帝を守備した。杜弢が軍を遣わして杜毗に加勢したとき、殺害されてしまった。
杜毗の弟は、杜秀といい、あざなは彥穎である。羅尚の主簿となった。益州が陥落すると、杜秀は氏賊の李驤に捕らえられた。李驤は杜秀を司馬にしたいと言ったが、杜秀は承諾しなかったので、殺害された。杜毗の次子は杜歆といい、秀才に挙げられた。
杜軫の弟は杜烈といった。政事に明るいから、孝廉に挙げられた。平康令、安陽令を歴任し、特異な治績を上げたから衡陽太守に遷った。杜軫が死んだと聞くと、「兄の子は幼弱だから、官を辞めて面倒を見たい」と上表した。詔があり、杜烈は(兄の子がいる)犍為郡の太守に転任した。蜀土は杜烈のおかげで栄えた。
のちに湘東太守に遷り、成都王の司馬頴の郎中令となったが、病没した。
杜烈の弟は、杜良という。秀才に挙げられ、新都令、涪陵太守に任命されたが、就官しなかった。州大中正に補任されたが、死んだ。
〈訳注〉華々しさはないが、益州への土着が面白い。蜀漢の滅亡に遇い、西晋に吸収され、成漢に翻弄され、東晋で益州方面を守った一族でした。

竇允
竇允,字雅,始平人也。出自寒門,清尚自修。少仕縣,稍遷郡主簿。察孝廉,除浩亹長。勤於為政,勸課田蠶,平均調役,百姓賴之。遷謁者。泰始中,詔曰:「當官者能潔身修己,然後在公之節乃全。身善有章,雖賤必賞,此興化立教之務也。謁者竇允前為浩亹長,以修勤清白見稱河右。是輩當擢用,使立行者有所勸。主者詳複參訪,有以旌表之。」拜臨水令。克己厲俗,改修政事,士庶悅服,鹹歌詠之。遷钜鹿太守,甚有政績。卒於官。

竇允は、あざなを雅といい、始平の人である。
寒門の出身だが、清尚で自ら修めた。若いとき県に仕官し、郡主簿に遷った。孝廉に挙げられ、浩亹県長になった。為政に勤め、課田制の徴税や労役を平等に課したから、百姓は竇允を頼りにした。謁者に遷った。泰始年間に、詔が出た。
「まさに官吏は、身を潔くし己を修めるべきで、それを踏まえて公務の節度が全うされる。善事を明らかにして、賤民でも必ず賞すること。これは教化を広めるための務めである。謁者の竇允は、前任の浩亹長のとき、修勤清白な政治ぶりで河右で称えられた。彼のような人物を抜擢すべきだ。竇允を模範とせよ」
竇允は臨水令を拝した。克己厲俗、政事を改修したから、士庶は悅服して、竇允の良政を歌に詠んだ。钜鹿太守に遷ったが、ここでも立派な政績があった。在官のまま死んだ。
〈訳注〉詔で褒められたから、ここに載ったようだ。どんなキャラクターなのか見えてこないから、面白くない列伝でした。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列60「良吏」
1)スター性のない魯芝
2)清らかなる胡質と胡威
3)益州土着の杜軫と竇允
4)老いてミスを重ねた王宏
5)潘璋と丁儀丁廙の血縁?
6)実子を縛って逃げた鄧攸
7)呉郡を中興した太守