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『晋書』列60「良吏」 4)老いてミスを重ねた王宏
王宏
王宏,字正宗,高平人,魏侍中粲之從孫也。魏時辟公府,累遷尚書郎,曆給事中。泰始初,為汲郡太守,撫百姓如家,耕桑樹藝,屋宇阡陌,莫不躬自教示,曲盡事宜,在郡有殊績。司隸校尉石鑒上其政術,武帝下詔稱之曰:「朕惟人食之急,而懼天時水旱之運,夙夜警戒,念在於農。雖詔書屢下,敕厲殷勤,猶恐百姓廢惰以損生植之功。而刺史、二千石、百里長吏未能盡勤,至使地有遺利而人有餘力,每思聞監司糾舉能不,將行其賞罰,以明沮勸。今司隸校尉石鑒上汲郡太守王宏勤恤百姓,導化有方,督勸開荒五千餘頃,而熟田常課頃畝不減。比年普饑,人食不足,而宏郡界獨無匱乏,可謂能矣。其賜宏穀千斛,佈告天下,咸使聞知。」

王宏は、あざなを正宗といい、高平の人だ。魏で侍中だった王粲の從孫である。
魏の時代に公府に辟召され、かさねて尚書郎に遷り、給事中を歴任した。泰始初、汲郡太守となった、百姓を家族のように大切にした。産業の振興に力を知れて、王宏は郡の統治で殊績を上げた。
司隸校尉の石鑒は、王宏の政術について上書した。武帝は詔を下して、王宏を称えた。
「食料の増産は大切なことだ。王宏のやり方を広めよ」
〈訳注〉武帝の言ったことはつまらないので、思いっきり省いた(笑)訳せないような難文ではない。

俄遷衛尉、河南尹、大司農,無複能名,更為苛碎。坐桎梏罪人,以泥墨塗面,置深坑中,餓不與食,又擅縱五歲刑以下二十一人,為有司所劾。帝以宏累有政績,聽以贖罪論。太康中,代劉毅為司隸校尉,於是檢察士庶,使車服異制,庶人不得衣紫絳及綺繡錦繢。帝常遣左右微行,觀察風俗,宏緣此複遣吏科檢婦人衵服,至褰發于路。論者以為暮年謬妄,由是獲譏於世,複坐免官。後起為尚書。太康五年卒,追贈太常。

王宏はにわかに衛尉に遷り、河南尹、大司農となった。
王宏は中央では名声を獲得することができず、苛碎をやった。罪人を逮捕すると、泥墨を顔面に塗り、深い穴の中に放置し、餓えても食料を与えなかった。独断で禁固5年以下にした罪人は21人もいたから、王宏は有司に弾劾された。だが 武帝は、王宏がかさねて政績があるから、王宏の罪を許した。
太康中、劉毅に代わって司隸校尉となり、士庶を検察した。車服について古来の制度と違うルールを作り、庶人は紫絳の衣や綺繡錦繢を着られないことにした。武帝は、いつも側近に命じて、こっそり風俗を観察させていた。王宏は婦人の衣服を検閲し、(派手ならば)路上で没収をしていた。王宏は年老いて、判断を誤っていると評価された。世間のそしりを受けて、また免官となった。
のちに復帰して尚書となった。太康五(284)年に死んだ。太常を追贈された。
〈訳注〉前半生と後半生で、評価がまるで違う人物です。万民が共栄すべきだという強い価値観があり、違反者を許せなかったのでしょう。「短所とは、長所が強く出すぎること」と、ぼくは前職で言われた(笑)
曹攄
曹攄,字顏遠,譙國譙人也。祖肇,魏衛將軍。攄少有孝行,好學善屬文,太尉王衍見而器之,調補臨淄令。縣有寡婦,養姑甚謹。姑以其年少,勸令改適,婦守節不移。姑湣之,密自殺。親党告婦殺姑,官為考鞫,寡婦不勝苦楚,乃自誣。獄當決,適值攄到。攄知其有冤,更加辯究,具得情實,時稱其明。獄有死囚,歲夕,攄行獄,湣之,曰:「卿等不幸致此非所,如何?新歲人情所重,豈不欲暫見家邪?」眾囚皆涕泣曰:「若得暫歸,死無恨也。」攄悉開獄出之,克日令還。掾吏固爭,鹹謂不可。攄曰:「此雖小人,義不見負,自為諸君任之。」至日,相率而還,並無違者,一縣嘆服,號曰聖君。入為尚書郎,轉洛陽令,仁惠明斷,百姓懷之。時天大雨雪,宮門夜失行馬,群官檢察,莫知所在。攄使收門士,眾官鹹謂不然。攄曰:「宮掖禁嚴,非外人所敢盜,必是門士以燎寒耳。」詰之,果服。以病去官。複為洛陽令。

曹攄は、あざなを顏遠といい、譙國譙県の人だ。 祖父の曹肇は、魏で衛將軍だった。
曹攄は若いときから孝行で、学を好んで作文が上手かった。太尉の王衍に器量を見込まれて、臨淄県令となった。
臨淄県に寡婦がいて、とてもつつましく姑を養っていた。姑は、寡婦がまだ若いから、自由に生きるように勧めた。だが寡婦は、姑の面倒を見続けると言った。姑は寡婦の人生を哀れみ、ひそかに自殺した。
親類は、寡婦が姑を殺したのだと言った。官吏が自白を強要したから、寡婦は耐えられずに罪を認めた。判決が下ろうとするとき、曹攄が到着した。曹攄は冤罪を見抜き、真相を明らかにした。当時の人は、曹攄の明察を称えた。
獄に死刑囚がいた。曹攄は年末に牢獄に行って、死刑囚を哀れんだ。
「君らはこんな牢獄にいたくないだろう?人は年が改まるとき、懐かしい気持ちが募るものだ。みな家族に会いたいだろう」
囚人たちは、みな涕泣して言った。
「もし帰宅できたなら、死んでも恨みはありません」
曹攄は牢獄を開いて、囚人をみな出してやり、戻ってくる日を約束をさせた。掾吏は強く反対したが、曹攄は譲らなかった。
「私のようなつまらぬ人間でも、義には背かれないものだ。諸君に迷惑がかからないように、私が自ら囚人と約束した」
約束の日になると、罪人たちは、ぞろぞろ帰ってきた。違約した人がいなかったから、県中が嘆服して「曹攄は聖君だ」と言った。
洛陽に入って尚書郎となり、転じて洛陽令となった。仁惠で明斷だったから、百姓は曹攄に懐いた。
大雨や大雪のとき、宮門は夜に馬を失ってしまった。群官が探したが、見つからなかった。曹攄は門士を召集したが、衆官たちは「そんなことより馬を探しに行かねば」と反対した。曹攄は言った。
「宮掖の警護は禁嚴である。外部の人間が、わざわざ盗みに来ない。必ず門士の誰かが盗んだんだ」
詰問していくと、犯人が罪を認めた。
病気になったから、官を去った。また洛陽令に戻った。

及齊王冏輔政,攄與左思俱為記室督。冏嘗從容問攄曰:「天子為賊臣所逼,莫有能奮。吾率四海義兵興複王室,今入輔朝廷,匡振時艱,或有勸吾還國,於卿意如何?」攄曰:「蕩平國賊,匡複帝祚,古今人臣之功未有如大王之盛也。然道罔隆而不殺,物無盛而不衰,非唯人事,抑亦天理。竊預下問,敢不盡情。願大王居高慮危,在盈思沖,精選百官,存公屏欲,舉賢進善,務得其才,然後脂車秣馬,高揖歸籓,則上下同慶,攄等幸甚。」冏不納。尋轉中書侍郎。長沙王乂以為驃騎司馬。乂敗,免官。因丁母憂。惠帝末,起為襄城太守。

齊王の司馬冏が輔政すると、曹攄は左思とともに記室督となった。司馬冏はかつて、從容として曹攄に問うた。
「天子は賊臣に逼塞させられてしまい、権力を奮うことができない。オレは四海の義兵を率いて、恵帝を復位させた。いま朝廷で執政しているが、時代は艱難に突入している。オレに任国(斉)に帰るよう勧める人がいるが、あなたはどう思うか?」
曹攄は答えた。
「あなたは、國賊(司馬越)を倒して、恵帝を復位させました。古今の人臣でもトップの功績です。然道罔隆而不殺,物無盛而不衰,非唯人事,抑亦天理。竊預下問,敢不盡情。願大王居高慮危,在盈思沖,精選百官,存公屏欲,舉賢進善,務得其才,然後脂車秣馬,高揖歸籓,則上下同慶,攄等幸甚。」
司馬冏は、曹攄の意見を採用しなかった。
中書侍郎に転任した。長沙王の司馬乂は、曹攄を驃騎司馬とした。司馬乂が敗れると、免官された。母の看病のために退いた。惠帝末(306年)に、襄城太守となった。

永嘉二年,高密王簡鎮襄陽,以攄為征南司馬。其年流人王逌等聚眾屯冠軍,寇掠城邑。簡遣參軍崔曠討之,令攄督護曠。曠,奸凶人也,譎攄前戰,期為後繼,既而不至。攄獨與逌戰於酈縣,軍敗死之。故吏及百姓並奔喪會葬,號哭即路,如赴父母焉。

永嘉二(308)年、高密王の司馬簡が襄陽に出鎮して、曹攄を征南司馬とした。その年、流人の王逌らが、軍勢を率いて駐屯し、襄陽の城邑を寇掠した。司馬簡は、參軍の崔曠を遣わして攻めさせ、曹攄に崔曠を督護させた。崔曠は、奸凶人だった。崔曠は曹攄に先鋒を任せ、自分は後に続くとウソをついた。崔曠は軍を進めなかったから、曹攄は孤立した。酈縣にて王逌と戦い、敗れて死んだ。
故吏や百姓は、曹爽の喪に服して葬り、號哭した。父母が死んだときのように、曹攄の葬儀に駆けつけた。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列60「良吏」
1)スター性のない魯芝
2)清らかなる胡質と胡威
3)益州土着の杜軫と竇允
4)老いてミスを重ねた王宏
5)潘璋と丁儀丁廙の血縁?
6)実子を縛って逃げた鄧攸
7)呉郡を中興した太守