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『晋書』列60「良吏」 5)潘璋と丁儀丁廙の血縁か?
潘京
潘京,字世長,武陵漢壽人也。弱冠,郡辟主簿,太守趙廞甚器之,嘗問曰:「貴郡何以名武陵?」京曰:「鄙郡本名義陵,在辰陽縣界,與夷相接,數為所攻,光武時移東出,遂得全完,共議易號。《傳》曰止戈為武,《詩》稱高平曰陵,於是名焉。」為州所辟,因謁見問策,探得「不孝」字,刺史戲京曰:「辟士為不孝邪?」京舉版答曰:「今為忠臣,不得複為孝子。」其機辯皆此類。後太廟立,州郡皆遣使賀,京白太守曰:「夫太廟立,移神主,應問訊,不應賀。」遂遣京作文,使詣京師,以為永式。

潘京は、あざなを世長といい、武陵は漢壽の人である。
〈訳注〉武陵蛮の征圧に功績があったのは、呉の潘璋でした。血縁があるのかなあ?
弱冠で郡の主簿になり、武陵太守の趙廞は器量をとても評価した。かつて趙廞は、潘京に聞いたことがある。
「あなたの郡は、なぜ武陵と名なのかね?
潘京は答えた。
「私の郡は、本名は義陵といいます。辰陽県の境界で、南夷と居住地を接していて、しばしば攻められます。光武帝が洛陽に都を定めたとき、やっと全土を漢民族のものにできたので、地名を変えることが協議されました。『傳』には、止戈(停戦)は武を為す、と書いてあります。『詩』は高平を指して、陵と呼んでいます。だから武陵という名になりました」
〈訳注〉鵜呑みにしてはいけない。この地名の由来がウソっぱちだから、潘京の機転がすごいことを示すエピソードなのだ(笑)
荊州に辟召されて、謁見して政治の方策を問われた。潘京が提出した文書に「不孝」の字があったから、刺史がそれを見つけて、戯れて潘京に聞いた。
「辟召された人士(あなた)は不孝なのか?」
潘京は、文書を挙げて答えた。
「いま忠臣となれば、同時に孝子となることはできません」
潘京の機転の利いた弁舌は、こんな感じであった。
〈訳注〉どこかの古典に、忠心と孝子が両立できないという葛藤があった気がする。書名は忘れました。
のちに太廟が立ち、州郡はみな祝賀の使者を送ってきた。潘京は太守に言った。
「太廟を建立して、神様を移しました。(神の意思を知りたいという)問訊には応じても、祝賀には応じないものです」
潘京に祝賀を辞退する文書を書かせて、洛陽に持って行かせた。以後長く、この対応方式を続けた。

京仍舉秀才,到洛。尚書令樂廣,京州人也,共談累日,深歎其才,謂京曰:「君天才過人,恨不學耳。若學,必為一代談宗。」京感其言,遂勤學不倦。時武陵太守戴昌亦善談論,與京共談,京假借之,昌以為不如己,笑而遣之,令過其子若思,京方極其言論。昌竊聽之,乃嘆服曰:「才不可假。」遂父子俱屈焉。曆巴丘、邵陵、泉陵三令。京明於政術,路不拾遺。遷桂林太守,不就,歸家,年五十卒。


潘京は秀才に推挙されて、洛陽に到った。尚書令の樂廣は、京州の人である。潘京と樂廣は、共に談じて日を重ねた。樂廣は、深く潘京の才能に関心した。樂廣は、潘京に言った。
君の天性の才能は、人を上回るものだ。しかし君は学ばないから、私はそれを恨むよ。もし君が学べば、必ず一代の談宗となるだろう」
潘京はこの言葉に感動し、学に勤めて倦まなかった。
〈訳注〉西晋版の呂蒙です。こういう話はあるんだなあ。
ときの武陵太守だった戴昌は、談論が上手かった。潘京は戴昌と話していた。戴昌の言い回しを、潘京がパクッて喋ったから、戴昌は「潘京は私より劣る、才能のない人間だ」と判断した。そこで戴昌は笑って、わが子に潘京の相手をさせた。潘京は戴昌の子に向かって、言論を極めて喋った。戴昌はひそかに潘京の言葉を聞き、すっかり感心して言った。「才能はパクッて取り繕うことが出来ないものだ」と。ついに戴昌の父子は、潘京が優れていることを認めた。
巴丘令、邵陵令、泉陵令の3職を歴任した。潘京は政術に明るく、路に落ちているものを拾う人はいなかった。
〈訳注〉「路不拾遺」は、治安がいいことの定型句だ。
桂林太守に任じられたが、着任しなかった。在野で死んだとき、50歳だった。
次は範晷伝です。でも範晷と、その子の範廣と範稚は、列伝が短いし面白い話もないので省略。範稚の子である範汪(東晋の人物)が列伝を持っているので、その補足だったのか。
丁紹
丁紹,字叔倫,譙國人也。少開朗公正,早曆清官,為廣平太守,政平訟理,道化大行。于時河北騷擾,靡有完邑,而廣平一郡四境乂安,是以皆悅其法而從其令。及臨漳被圍,南陽王模窘急,紹率郡兵赴之,模賴以獲全。模感紹恩,生為立碑。遷徐州刺史,士庶戀慕,攀附如歸。未之官,複轉荊州刺史。從車千乘,南渡河至許。

丁紹は、あざなを叔倫といい、譙國の人である。
〈訳注〉曹操の初めの正妻は丁氏で、在地の有力豪族だったから、曹操に強硬な態度で離婚を申し渡した。曹植を支持してコケた丁儀・丁廙も、譙國の人だった。「列伝を立ててやるから、賄賂をよこせ」と言われた一族らしいが、『晋書』に列伝が載ったじゃないか!
幼いときから開朗公正で、早くから清官を歴任した。廣平太守となり、政は公平で、訟は道理に叶い、教化が大いに行なわれた。
(八王ノ乱によって)河北が騷擾したとき、河北の全ての邑が混乱をした。だが廣平郡だけは郡境が平安だったから、領民はみな丁紹の法と令に従った。
臨漳郡が包囲されたとき、南陽王の司馬模がピンチになった。丁紹は郡兵を率いて救援に赴いた。司馬模は丁紹の援軍を頼った。丁紹は、敵を全て捕獲することができた。司馬模は丁紹の恩に感じて、丁紹を称える碑を立てた。
丁紹は徐州刺史に遷った。士庶は丁紹を戀慕し、帰郷するような勢いで、丁紹の配下に入った。任期満了する前に、また荊州刺史に転じた。從車は千乘、南へ渡河して、許(地名)に到った。

時南陽王模為都督,留紹,啟轉為冀州刺史。到鎮,率州兵討破汲桑有功,加甯北將軍、假節、監冀州諸軍事。時境內羯賊為患,紹捕而誅之,號為嚴肅,河北人畏而愛之。紹自以為才足為物雄,當官蒞政,每事克舉,視天下之事若運於掌握,遂慨然有董正四海之志矣。是時王浚盛于幽州,苟晞盛於青州,然紹視二人蔑如也。永嘉三年,暴疾而卒,臨終歎曰:「此乃天亡冀州,豈吾命哉!」懷帝策贈車騎將軍。

ときに南陽王の司馬模は都督となった。荊州に丁紹を留めて、司馬模は冀州刺史に転じた。出鎮先の冀州に到着すると、州兵を率いて汲桑(人名)を討った。この功績により司馬模は、甯北將軍、假節、監冀州諸軍事を加えられた。
ときに国内は、羯族が患いをなした。丁紹は羯族を捕らえて誅した。宣言して嚴肅な対処をしたから、河北の人は丁紹を畏れて慕った。
〈訳注〉いつ丁紹は司馬模に随って、荊州から冀州に遷ったんだろうか。「時ニ」という接続詞に、ごまかされた感があります。
丁紹の才能は、傑物・英雄となるに充分であった。
官職にいては、政治をうまくやった。戦さは常勝であり、丁紹が天下之事を見る様子は、まるで自分でハンドリングをしているようであった。丁紹は慨然としていて、四海之志を持っていた。
このころ王浚は幽州で盛力があり、苟晞は青州で盛力があった。
〈訳注〉幽州と青州は、丁紹がいる冀州と隣接する。攻め込まれるリスクがあるのです。
丁紹は、王浚と荀晞の2人に、軽蔑しているような視線を送った。
永嘉三(309)年、暴疾にて丁紹は死んだ。臨終のときに、歎じて言った。「天が冀州を亡ぼすに及ぶ。どうしてこれが天命であろう」と。
懷帝は、丁紹に車騎將軍を追贈した。
〈訳注〉冀州に汲桑、幽州に王浚、青州に荀晞。この割拠に対してNOといい、司馬模を助けて冀州を王朝に取り戻させたのが、丁紹でした。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列60「良吏」
1)スター性のない魯芝
2)清らかなる胡質と胡威
3)益州土着の杜軫と竇允
4)老いてミスを重ねた王宏
5)潘璋と丁儀丁廙の血縁?
6)実子を縛って逃げた鄧攸
7)呉郡を中興した太守