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『晋書』列60「良吏」
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6)実子を縛って逃げた鄧攸
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喬智明
喬智明,字元達,鮮卑前部人也。少喪二親,哀毀過禮,長而以德行著稱。成都王穎辟為輔國將軍。穎之敗趙王倫也,表智明為殄寇將軍、隆慮、共二縣令。二縣愛之,號為「神君」。部人張兌為父報仇,母老單身,有妻無子,智明湣之,停其獄。歲余,令兌將妻入獄,兼陰縱之。人有勸兌逃者,兌曰:「有君如此,吾何忍累之!縱吾得免,作何面目視息世間!」於獄產一男。會赦,得免。其仁感如是。
喬智明は、あざなを元達といい、鮮卑前部の人である。
幼いときに両親の喪に服した。死を悼んで哀毀する容子は、『礼』の規定を上回った。
大人になると、德行によって有名になり称えられた。
成都王の司馬頴が召して、輔國將軍とした。司馬頴が趙王の司馬倫を破ると、上表して喬智明を殄寇將軍とした。喬智明は、隆慮(人名)とともに2県で県令をやった。2県の臣民は、喬智明と隆慮を愛し、「神君」と呼んだ。
鮮卑前部の人である張兌が、父の報仇をやった。張兌の母は老いた未亡人で、張兌の妻は子がいなかった。喬智明は張兌の家族を哀れみ、投獄を見合わせた。1年余りして、張兌は妻を入獄させようとするとき、こっそり交わった。張兌に逃亡を勧める人がいた。張兌は言った。 「君主の喬智明は、仁のある人だ。なぜ何回も刑の延期を望むものか!もし私が罪を許されても、何の面目があって世間で生きられるか!」 張兌の妻は、獄中で男子を出産した。
張兌の妻は特赦によって、釈放された。喬智明の仁感は、このような感じであった。
惠帝之伐鄴也,穎以智明為折沖將軍、參丞相前鋒軍事。智明勸穎奉迎乘輿,穎大怒曰:「卿名曉事,投身事孤。主上為群小所逼,將加非罪於孤,卿奈何欲使孤束手就刑邪!共事之義,正若此乎?」智明乃止。尋屬永嘉之亂,仕于劉曜。
惠帝が鄴の司馬頴を討伐するために、親征した。司馬頴は、喬智明を折沖將軍にして、丞相前鋒軍事に参じさせた。喬智明は司馬頴に「恵帝の乘輿を奉迎されますように(降伏しなさい)」と勧めた。司馬頴は大いに怒って言った。
「あなたは名声が知れ渡っている人で、身を投げ出して私に仕えている。主上(恵帝)は群小(下らん奴ら)に迫られて、架空の罪状でオレを討とうとしている。あなたはオレに、手を縛られて刑に服せと言うのか!一緒に恵帝を迎え撃とうというオレの依頼は、正しいだろ?」
喬智明はこれを聞き、辞職した。永嘉ノ亂のとき、劉曜に仕官した。
〈訳注〉異民族を味方にして有利に戦おうというのは、西晋末に共通の傾向です。喬智明は鮮卑だから、匈奴の劉曜に仕えたのは、同族が理由じゃないね。
鄧攸
鄧攸,字伯道,平陽襄陵人也。祖殷,亮直強正。鐘會伐蜀,奇其才,自黽池令召為主簿。賈充伐吳,請殷為長史。後授皇太子《詩》,為淮南太守。夢行水邊,見一女子,猛獸自後斷其盤囊。占者以為水邊有女,汝字也,斷盤囊者,新獸頭代故獸頭也,不作汝陰,當汝南也。果遷汝陰太守。後為中庶子。
鄧攸は、あざなを伯道といい、平陽郡は襄陵県の人だ。
祖父の鄧殷は、亮直で強正な人だった。鍾会が蜀を伐ったとき、鄧殷の才能を奇抜だと評価し、黽池令から引き抜いた。鍾会は鄧殷を主簿にした。呉を伐つとき賈充は、鄧殷に長史になってもらった。
〈訳注〉三国統一に縁のある人のようで。
のちに鄧殷は、皇太子(司馬衷)から『詩』を授かった。鄧殷は、淮南太守となった。
鄧殷は夢を見た。水辺で1人の女子と会った。猛獸が後ろから、その盤囊を切り落とした。
〈訳注〉「盤囊」ってどこだろう?アタマ?
占い師はコメントした。「水辺に女がいるのは『汝』の漢字を表す。盤囊を斷ずるとは、新しい獸頭が古い獸頭に代わることを意味する。汝陰ではなく、汝南を意味する」と。
果たして夢のお告げのとおりに、鄧殷は汝陰太守になった。のちに中庶子になった。
〈訳注〉猛獣のところがよく分かりません。「南」から「陰」に移るだろうという暗示なんだが。
攸七歲喪父,尋喪母及祖母,居喪九年,以孝致稱。清和平簡,貞正寡欲。少孤,與弟同居。初,祖父殷有賜官,敕攸受之。後太守勸攸去王官,欲舉為孝廉,攸曰:「先人所賜,不可改也。」嘗詣鎮軍賈混,混以人訟事示攸,使決之。攸不視,曰:「孔子稱聽訟吾猶人也,必也使無訟乎!」混奇之,以女妻焉。舉灼然二品,為吳王文學,曆太子洗馬、東海王越參軍。越欽其為人,轉為世子文學、吏部郎。越弟騰為東中郎將,請攸為長史。出為河東太守。
鄧攸が7歳のとき、父を亡くした。母と祖母の分と合わせて、足掛け9年も喪に服していたから、孝ぶりを称えられた。清和で平簡、貞正で寡欲や人柄だった。
幼くして両親を亡くしたから、弟と同居した。はじめ祖父の鄧殷が官職を賜っていたから、鄧攸も官職に任命された。のちに太守は、鄧攸に王官(中庶子)を去るように勧めた。太守は鄧攸を、孝廉に挙げたいと思っていた。
鄧攸は断った。
「先人(祖父)が賜ったものを、改めるべきではありません」と。
かつて鄧攸は、鎮軍の賈混に会った。賈混は訴訟の案件を鄧攸に見せて、決裁をさせようとした。鄧攸は案件を見ずに言った。
「孔子は訴訟を裁くのが上手かったと言いますが、私は人並みにしかできません。それより、必ずや訴訟をなくさせて、裁く行為そのものを不要にしてみせましょう!」
賈混はこの返答を奇特だと認め、娘を鄧攸の妻にした。鄧攸は二品だと査定され、呉王の文學になった。
〈訳注〉呉王とは、司馬晏(司馬炎の子)だろうね。
鄧攸は、太子洗馬、東海王越參軍を歴任した。司馬越は鄧攸の人となりを評価して、世子文學と吏部郎に転じさせた。
司馬越の弟の司馬騰は、東中郎將になった。司馬騰は鄧攸に頼んで、長史に迎えた。鄧攸は司馬騰に随って出鎮圧し、河東太守になった。
永嘉末,沒于石勒。然勒宿忌諸官長二千石,聞攸在營,馳召,將殺之。攸至門,門幹乃攸為郎時幹,識攸,攸求紙筆作辭。幹候勒和悅,致之。勒重其辭,乃勿殺。勒長史張賓先與攸比舍,重攸名操,因稱攸於勒。勒召至幕下,與語,悅之,以為參軍,給車馬。勒每東西,置攸車營中。勒夜禁火,犯之者死。攸與胡鄰轂,胡夜失火燒車。吏按問,胡乃誣攸。攸度不可與爭,遂對以弟婦散發溫酒為辭。勒赦之。既而胡人深感,自縛詣勒以明攸,而陰遺攸馬驢,諸胡莫不歎息宗敬之。石勒過泗水,攸乃斫壞車,以牛馬負妻子而逃。又遇賊,掠其牛馬,步走,擔其兒及其弟子綏。度不能兩全,乃謂其妻曰:「吾弟早亡,唯有一息,理不可絕,止應自棄我兒耳。幸而得存,我後當有子。」妻泣而從之,乃棄之。其子朝棄而暮及。明日,攸系之於樹而去。
永嘉末(313年)、河東郡は石勒に陥落させられた。石勒は以前から諸官長二千石(地方官)を恨んでいた。だから幕営に鄧攸がいると聞くと、石勒は馬で馳せてきて、鄧攸を殺そうとした。
鄧攸は城門に到った。門番は、鄧攸が郎に取り立ててやった人物だから、鄧攸の顔を知っていた。鄧攸は紙筆を求めて、辞句を書いた。門番は石勒に拝謁して、助命を願い出て、鄧攸の書いたものを渡した。石勒は辞句を気に入って、鄧攸を殺さなかった。 石勒の長史の張賓は、まず鄧攸に比舍を与えた。張賓は、鄧攸の名操を重んじて、石勒の前で鄧攸を称えた。
石勒は鄧攸を幕下に召しだして、言葉を交わして楽しんだ。石勒は鄧攸を參軍にして、車馬を支給した。石勒が東西に出兵するときはいつも、鄧攸を車營中に置いて、留守を任せた。
石勒は夜に火を使うことを禁じていて、違反したら死刑だった。鄧攸は胡人とともに宿営していたが、胡人が夜に失火して、車を焼いてしまった。役人が取調べをしたら、胡人が鄧攸を誣告した。鄧攸は反論をして争うこともなく、弟婦に逃げるように言い渡し、酒を温めて別れの言辞を作った。
石勒は、胡人と鄧攸を赦した。胡人はこれに深く感じ入り、自らの有罪と鄧攸の無罪を明らかにした。胡人はひそかに鄧攸のために馬驢を遺して、お詫びに差し出した。諸胡たちはこの出来事に嘆息して、鄧攸を宗敬しない人はいなかった。
石勒が泗水を過ぎて(洛陽方面へ)攻めあがると、鄧攸は輸送車を壊して、牛馬を使って妻子とともに逃亡した。途中で賊に襲われて、牛馬を盗まれたから、徒歩で逃げた。鄧攸の子と弟の子の鄧綏がいて、2人の子供を連れて逃げ切るのは無理だった。鄧攸は妻に言った。
「私の弟は、早くに亡くなった。ただ1人の息子を遺しただけだ。道理から言えば、弟の血筋を絶やしてはいけない。だから私は自分の子を棄てよう。幸いにも生き残ることが出来たら、私は後にまた子を作れる」
妻は泣いて鄧攸に従い、子を棄てた。子は、朝に棄てられたが、暮には追いついてきた。翌日、鄧攸は子を樹に縛り付けて去った。
〈訳注〉なんて話だろう。。『三国演義』にこんなシーンがあれば、日本版では確実に変更されるでしょう(笑)赤子を地面に投げるような騒ぎじゃない。しかもこの後に、残酷な結末があります。
鄧攸伝は、まだ続きます。キャラ立ちした人物を、列伝「良吏」でやっと見つけることが出来ました。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列60「良吏」
1)スター性のない魯芝
2)清らかなる胡質と胡威
3)益州土着の杜軫と竇允
4)老いてミスを重ねた王宏
5)潘璋と丁儀丁廙の血縁?
6)実子を縛って逃げた鄧攸
7)呉郡を中興した太守
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