| |
『晋書』列60「良吏」
|
7)呉郡を中興した太守
|
鄧攸伝の続きです。
至新鄭,投李矩。三年,將去,而矩不聽。荀組以為陳郡、汝南太守,湣帝征為尚書左丞、長水校尉,皆不果就。後密舍矩去,投荀組於許昌,矩深恨焉,久之,乃送家屬還攸。攸與刁協、周顗素厚,遂至江東。元帝以攸為太子中庶子。時吳郡闕守,人多欲之,帝以授攸。
新鄭に着くと、李矩を頼って鄧攸は身を投じた。建興三(315)年、李矩のところを去ろうとしたが、李矩は許さなかった。 荀組は鄧攸を、陳郡太守、汝南太守に任じた。湣帝は異民族を征伐し、鄧攸を尚書左丞、長水校尉に任じた。だが鄧攸は、どの位にも就かなかった。
後に鄧攸はひそかに李矩の幕者を去り、許昌で荀組のもとに身を投じた。李矩は、鄧攸を深く恨んだ。かなり経ってから、李矩は鄧攸に家族を返還した。 鄧攸と刁協、周顗は、平素から交流が厚かったから、ついに江東に渡った。元帝(司馬睿)は、鄧攸を太子中庶子にした。
ときに呉郡に太守がいなかったから、人は大いに太守の着任を望んだ。元帝は、鄧攸を呉郡太守にした。
攸載米之郡,俸祿無所受,唯飲吳水而已。時郡中大饑,攸表振貸,未報,乃輒開倉救之。台遣散騎常侍桓彝、虞斐慰勞饑人,觀聽善不,乃劾攸以擅出穀。俄而有詔原之。攸在郡刑政清明,百姓歡悅,為中興良守。後稱疾去職。郡常有送迎錢數百萬,攸去郡,不受一錢。百姓數千人留牽攸船,不得進,攸乃小停,夜中發去。吳人歌之曰:「紞如打五鼓,雞鳴天欲曙。鄧侯挽不留,謝令推不去。」百姓詣台乞留一歲,不聽。拜侍中。歲余,轉吏部尚書。蔬食弊衣,周急振乏。性謙和,善與人交,賓無貴賤,待之若一,而頗敬媚權貴。
鄧攸は米(自分用の食料)を積載して、呉郡に行った。鄧攸は俸祿を受け取らず、ただ呉郡の水を飲んだだけだった。 呉郡で大飢饉があったとき、鄧攸は上表して、公庫を開いて民に食料を貸し与えるように願い出た。まだ許可が届く前に倉を開いて民を救った。台(役所)は、散騎常侍の桓彝と虞斐を遣わして、饑人を慰勞させた。
〈訳注〉虞斐って誰だろう。。
桓彝と虞斐は、鄧攸が勝手に倉を開けて、穀物を出したことを弾劾した。にわかに詔があり、鄧攸は許された。
鄧攸が呉郡にいるときは、刑政は清明だったから、百姓は歡悅した。鄧攸は、呉郡を中興した良守である。
〈訳注〉列伝を単独で立てても分量が堪えるのに、わざわざ「良吏」に鄧攸が入っているのは、東晋の新しいお膝元の呉郡を復興したからのようです。鄧攸が入ってないと、「良吏」がスカスカになる。
のちに病と称して、職を去った。呉郡の人民は、みな數百萬の銭を送別で差し出した。だが呉郡を去るとき、一銭も受け取らなかった。
〈訳注〉『後漢書』にもあるパタンですが、この餞別を受け取るような太守なら、そもそも餞別が差し出されない。矛盾した習慣だよなあ。
百姓は數千人が鄧攸の船を引きとめたから、進めなかった。鄧攸は、ひとまず出立をやめて、夜中に出発した。 呉人が歌ったことには、
「紞は五鼓を打つが如し,雞は鳴きて天は曙を欲す。鄧侯は挽きて留まらず、謝して推して去らしめず」と。 百姓は役所に、もう1年だけ鄧攸を呉郡に留めてくれと願ったが、許されなかった。
鄧攸は侍中を拝した。1年あまりして、吏部尚書に転じた。 食物も衣服も粗末だから、周囲は気にかけて鄧攸に恵んだ。性は謙和で、善く人と交わり、賓客は貴賤の区別なく一様に接待した。だが鄧攸は、權貴な人に熱心に敬媚した。
〈訳注〉どっちやねん、と聞きたい。役人だから、權貴は大事だが。
永昌中,代周顗為護軍將軍。太甯二年,王敦反,明帝密謀起兵,乃遷攸為會稽太守。初,王敦伐都之後,中外兵數每月言之於敦。攸已出在家,不復知護軍事,有惡攸者,誣攸尚白敦兵數。帝聞而未之信,轉攸為太常。時帝南郊,攸病不能從。車駕過攸問疾,攸力病出拜。有司奏攸不堪行郊而拜道左,坐免。攸每有進退,無喜慍之色。久之,遷尚書右僕射。咸和元年卒,贈光祿大夫,加金章紫綬,祠以少年。
永昌中、鄧攸は周顗に代わって護軍將軍となった。
太甯二年、王敦が叛乱した。明帝はひそかに謀って起兵し、鄧攸を會稽太守に遷した。 はじめ王敦が建業を攻めた後、中外の兵数が月ごとに王敦に洩れていた。鄧攸は官舎を出て自宅にいて、軍事を統括していなかった(兵数の情報を得られない)。だが鄧攸を憎む人は、
「鄧攸は王敦に兵数をリークしているのです」
と誣告した。明帝は誣告を聞いても信じず、鄧攸を太常にした。
明帝が南郊したとき、鄧攸は病気で従行できなかった。 明帝の車駕が訪れて、鄧攸の病気の具合を問うた。鄧攸は病を押して、出拜した。有司は上奏して、
「鄧攸は病気で、行郊に堪えられません。だから道の脇で、陛下を拝させてやって下さい」
と願い出た。鄧攸は、有司とともに官を免ぜられた。
鄧攸は官位に就いたり解かれたりするとき、喜慍之色(喜んだ表情やムッとした表情)を出さなかった。長くしてから、尚書右僕射に遷った。咸和元年に死んで、光祿大夫を追贈され、金章紫綬を加えれた。祠以少年。
〈訳注〉祠の話は、他の列伝でも出てくる。調べねば。葬るランクを表していることは分かるんだけど。
攸棄子之後,妻子不復孕。過江,納妾,甚寵之,訊其家屬,說是北人遭亂,憶父母姓名,乃攸之甥。攸素有德行,聞之感恨,遂不復畜妾,卒以無嗣。時人義而哀之,為之語曰:「天道無知,使鄧伯道無兒。」弟子綏服攸喪三年。
鄧攸が子を棄てた後、妻は二度と妊娠しなかった。
東晋に移住してから、妾を設けてとても寵愛した。妾に一族について聞くと北方の出身者で、乱に遭ったという。妾は父母の姓名を覚えており、それは鄧攸の甥であった。鄧攸はいつもは德行があったが、これを聞いて感恨し、二度と妾を設けることはなく、無嗣のまま死んだ。ときの人は、義心から跡継ぎの居ないことを哀しみ、語った。 「天道は無知だ。鄧伯道に子を授けなかった」と。
弟の子(甥)は、鄧攸のために3年の喪に服した。
〈訳注〉喪に服したのは、実子と二者択一で助けられた、弟の子だろう。それにしては、ここに鄧綏という名がないが。
あとは吳隱之が残っていますが、名前の字面からして、いかにも東晋の人物です。そういうわけで、列伝「良吏」はこれでおしまいです。090415
| |
|
|
このコンテンツの目次
>『晋書』列60「良吏」
1)スター性のない魯芝
2)清らかなる胡質と胡威
3)益州土着の杜軫と竇允
4)老いてミスを重ねた王宏
5)潘璋と丁儀丁廙の血縁?
6)実子を縛って逃げた鄧攸
7)呉郡を中興した太守
|
|