表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

219年~9月、荊州は関羽に帰す

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

219年、春正月、夏侯淵が死ぬ

春,正月,曹仁屠宛,斬侯音,復屯樊。

219年春正月、曹仁は宛城をほふった。侯音を斬り、樊城にもどった。

侯音、一瞬でした。伊藤晋太郎先生によれば、関羽は、樊城の北にも呼応する勢力がいることを見て、北伐を決行した。
宛城を曹仁がほふったことから、曹仁の管轄内だったことが分かる。関羽は、曹操ではなく、曹仁の支配を覆すために、出陣した。これが伊藤先生のご見解。


初,夏侯淵戰雖數勝,魏王操常戒之曰:「為將當有怯弱時,不可但恃勇也。將當 以勇為本,行之以智計;但知任勇,一匹夫敵耳。」及淵與劉備相拒逾年,備自陽平南 渡沔水,緣山稍前,營於定軍山。淵引兵爭之。法正曰:「可擊矣。」備使討虜將軍黃 忠乘高鼓噪攻之,淵軍大敗,斬淵及益州刺史趙顒。

はじめ夏侯淵は、どれだけ勝っても、曹操に戒められた。
「お前は将軍だから、突撃ばかりしてはいけない」
夏侯淵と劉備は、向き合ったまま、年をこえた。劉備は陽平関から、南へ沔水を渡った。劉備は、定軍山に営んだ。夏侯淵は、兵を引いて、劉備と定軍山を争った。法正が「夏侯淵を撃てます」と云った。劉備は、討虜將軍の黄忠に、夏侯淵を斬らせた。黄忠は、益州刺史の趙顒も斬った。

曹操が任じた、益州刺史? 興味があるなあ。


張郃引兵還陽平。是時新失元帥, 軍中擾擾,不知所為。督軍杜襲與淵司馬太原郭淮收斂散卒,號令諸軍曰:「張將軍國 家名將,劉備所憚。今日事急,非張將軍不能安也。」遂權宜推郃為軍主。郃出,勒兵 按陳,諸將皆受郃節度,眾心乃定。

張郃は、陽平関にひいた。夏侯淵が死んだので、混乱した。督軍の杜襲と、夏侯淵の司馬をつとめる太原の郭淮は、兵をおさめた。張郃を、新しいトップとした。兵たちは、張郃にしたがった。

明日,備欲渡漢水來攻;諸將以眾寡不敵,欲依水 為陳以拒之。郭淮曰:「此示弱而不足挫敵,非算也。不如遠水為陳,引而致之,半濟 而後擊之,備可破也。」既陳,備疑,不渡。淮遂堅守,示無還心。以狀聞於魏王操, 操善之,遣使假郃節,復以淮為司馬。

あくる日。劉備は漢水をわたり、張郃を攻めた。郭淮は「漢水から離れて、陣をしこう。劉備軍が、なかば漢水を渡ったら、攻めよう」と提案した。劉備は、漢水を渡ってこなかった。
曹操は、夏侯淵の死後の采配を聞いて、ほめた。張郃に節を仮し、ふたたび郭淮を、張郃の司馬とした。

219年3月、曹操と劉備が漢中でにらみあう

二月,壬子晦,日有食之。
三月,魏王操自長安出斜谷,軍遮要以臨漢中。劉備曰:「曹公雖來,無能為也, 我必有漢川矣。」乃斂眾拒險,終不交鋒。
操運米北山下,黃忠引兵欲取之,過期不還。 翊軍將軍趙雲將數十騎出營視之,值操揚兵大出,雲猝與相遇,遂前突其陳,且鬥且卻。 魏兵散而復合,追至營下,雲入營,更大開門,偃旗息鼓。魏兵疑雲有伏,引去;雲雷 鼓震天,惟以勁弩於後射魏兵。魏兵驚駭,自相蹂踐,墮漢水中死者甚多。備明旦自來, 至雲營,視昨戰處,曰:「子龍一身都為膽也!」操與備相守積月,魏軍士多亡。

219年2月壬子、日食した。
219年3月、曹操は長安から、斜谷にでた。曹操は、漢中にきた。劉備は「曹操がきても、私たちを倒せない。かならず漢中は、私たちが保てる」と云った。曹操は、地形が険しいので、劉備を攻めなかった。
曹操が、北山のもとで、米を運んだ。黄忠が米を襲いにゆき、還らない。翊軍将軍の趙雲が、曹操を攻めた。劉備は「趙雲は、全身がキモだ」と感心した。

趙雲さんの、軍記小説めいた活躍は、こまかく訳さず。

曹操と劉備は、月をまたいで、にらんだ。曹操軍で、多くの兵がにげた。

219年夏、

夏, 五月,操悉引出漢中諸軍還長安,劉備遂有漢中。操恐劉備北取武都氐以逼關中,問雍 州刺史張既,既曰:「可勸使北出就谷以避賊,前至者厚其寵賞,則先者知利,後必慕 之。」操從之,使既之武都,徙氐五萬餘落出居扶風、天水界。

219年夏5月、曹操は漢中の兵を、すべて長安に還した。ついに劉備は、漢中をたもった。曹操は、劉備が北伐して、武都郡や氐をとり、劉備が関中に迫るのを恐れた。
曹操は、雍州刺史の張既に、劉備の対策を聞いた。張既は答えた。
「武都や氐のあたりで、さきに曹操さまに従った人に、厚く金品を与えなさい。先に従ってくる人は、利益に目ざといからです。そうすれば、次々と曹操さまに従う人が出るでしょう」
武都や氐にある5万余人は、扶風や天水の境界にうつった。

曹操は、また人口の空白地帯をつくった。合肥のあたりとおなじ。これじゃあ、天下統一は、遅れるばかりだ。


武威顏俊、張掖和鸞、酒泉黃華、西平□演等,各據其郡,自號將軍,更相攻擊。 俊遣使送母及子詣魏王操為質以求助。操問張既,既曰:「俊等外假國威,內生傲悖, 計定勢足,後即反耳。今方事定蜀,且宜兩存而斗之,猶卞莊子之刺虎,坐收其敝也。」 王曰:「善!」歲餘,鸞遂殺俊,武威王祕又殺鸞。

武威の顔俊、張掖の和鸞、酒泉の黃華、西平の麹演らは、出身の郡により、みずから将軍を号した。おたがい、攻めあった。顔俊は、母と子を曹操におくり、曹操に助けをもとめた。曹操は、張既に対応を聞いた。張既は答えた。
「顔俊らは、助ける甲斐がありません。すぐに叛き、劉備につきます。顔俊らは、野心にあふれているので、互いに食い合うでしょう。放置すればよろしい」
曹操は、張既を採用した。1年余、顔俊たちは、殺しあった。

劉備遣宜都太守扶風孟達從秭歸北攻房陵,殺房陵太守蒯祺。又遣養子副軍中郎將 劉封自漢中乘沔水下,統達軍,與達會攻上庸,上庸太守申耽舉郡降。備加耽征北將軍, 領上庸太守,以耽弟儀為建信將軍、西城太守。

劉備は、宜都太守をつとめる扶風の孟達に、秭歸から房陵へ、北伐させた。孟達は、房陵太守の蒯祺を殺した。劉備は、副軍中郎将の劉封を、漢水から沔水へえ下らせ、孟達の軍を統べさせた。

房陵太守を殺すとは。劉備、勝ってるじゃん。

劉封と孟達は、上庸を攻めた。上庸太守の申耽は、劉封に降った。劉備は申耽に、征北将軍をくわえ、上庸太守をつづけさせた。申耽の弟・申儀を、建信將軍、西城太守とした。

関羽の死、諸葛亮の1回目の北伐まで、からむメンバーが揃いました。申儀と申耽は、司馬懿が孟達を斬るのを助ける。諸葛亮を妨害する。


219年7月、劉備が漢中王を名のり、関羽が北伐

秋,七月,劉備自稱漢中王,設壇場於沔陽,陳兵列眾,群臣陪位,讀奏訖,乃拜 受璽綬,御王冠。因驛拜章,上還所假左將軍、宜城亭侯印綬。立子禪為王太子。拔牙 門將軍義陽魏延為鎮遠將軍,領漢中太守,以鎮漢川。備還治成都,以許靖為太傅,法 正為尚書令,關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,黃忠為後將軍,餘皆進位 有差。

219年秋7月、劉備は漢中王を自称した。沔陽に祭壇をもうけ、陣兵をならべた。劉備は、左将軍と宜城亭侯の印綬を、献帝にかえした。劉禅を太守とした。
牙 門將軍をつとめる義陽の魏延を、鎮遠將軍として、漢中太守にした。劉備は、成都にかえった。許靖を、太傅にした。法正を尚書令にした。(中略)
関羽は前将軍になった。黄忠は後将軍となった。

遣益州前部司馬犍為費詩即授關羽印授,羽聞黃忠位與己並,怒曰:「大丈夫終 不與老兵同列!」不肯受拜。詩謂羽曰:「夫立王業者,所用非一。昔蕭、曹與高祖少 小親舊,而陳、韓亡命後至;論其班列,韓最居上,未聞蕭、曹以此為怨。今漢中王以 一時之功隆崇漢室;然意之輕重,寧當與君侯齊乎!且王與君侯譬猶一體,同休等戚, 禍福共之。愚謂君侯不宜計官號之高下、爵祿之多少為意也。僕一介之使,銜命之人, 君侯不受拜,如是便還,但相為惜此舉動,恐有後悔耳。」羽大感悟,遽即受拜。

益州前部の司馬をつとめる犍為の費詩は、関羽に前将軍の印綬をとどけた。関羽が、黄忠と同格であることを不満とした。費詩が説得をした。

有名なお話です。セリフは、列伝を見ればOK。


詔以魏王操夫人卞氏為王后。

曹操の夫人・卞氏を、王后とした。

脈絡なく、ポツンとある。まさか、劉備が漢中王の格式をととのえたので、対抗したのでは、あるまい。君主の称号は高められなくても、その妻の称号を高めることで、ハクをつける方法がある。陳寿が「蜀志」でやった。劉備の妻を、皇后とした。


孫權攻合肥。時諸州兵戍淮南。揚州刺史溫恢謂兗州刺史裴潛曰:「此間雖有賊, 然不足憂。今水潦方生,而子孝縣軍,無有遠備,關羽驍猾,正恐征南有變耳。」已而 關羽果使南郡太守糜芳守江陵,將軍傅士仁守公安,羽自率眾攻曹仁於樊。仁使左將軍 於禁、立義將軍龐德等屯樊北。

孫権が、合肥を攻めた。ときの諸州の兵は、淮南をまもった。揚州刺史の温恢は、兗州刺史の裴潛に云った。
「孫権は心配いらない。関羽に攻められる、曹仁が心配だ」

まるで小説のように、視点を転じさせる。うまいなあ。

すでに関羽は、南郡太守の麋芳を江陵におき、将軍の傅士仁を公安におき、みずから樊城の曹仁を攻めた。

関羽の行動が、独断か否か、ツイッターで意見が割れてます。また考えます。それにしても、月までおなじなら、少なからず、同調はしているんだろう。

曹仁は、左将軍の于禁と、立義将軍の龐徳を、樊城の北においた。

219年8月、関羽が樊城を囲み、荊州を得る

八月,大霖雨,漢水溢,平地數丈,於禁等七軍皆沒。 禁與諸將登高避水,羽乘大船就攻之,禁等窮迫,遂降。龐德在堤上,被甲持弓,箭不 虛發,自平旦力戰,至日過中,羽攻益急;矢盡,短兵接,德戰益怒,氣愈壯,而水浸 盛,吏士盡降。德乘小船欲還仁營,水盛船覆,失弓矢,獨抱船覆水中,為羽所得,立 而不跪。羽謂曰:「卿兄在漢中,我欲以卿為將,不早降何為!」德罵羽曰:「豎子, 何謂降也!魏王帶甲百萬,威振天下。汝劉備庸才耳,豈能敵邪!我寧為國家鬼,不為 賊將也!」羽殺之。魏王操聞之流涕曰:「吾知於禁三十年,何意臨危處難,反不及龐 德邪!」封德二子為列侯。

219年8月、大雨で漢水があふれ、于禁の7軍が水没した。于禁は関羽に降り、龐徳は戦った。

龐徳と関羽のやりとりは、省略。これも、列伝を見ればいい。

これを聞いた曹操は、涙を流した。
「于禁は私に30年つかえた。でも于禁は、龐徳に及ばなかった」
曹操は、龐徳の2子を、列侯に封じた。

羽急攻樊城,城得水,往往崩壞,眾皆恟懼。或謂曹仁曰: 「今日之危,非力所支,可及羽圍未合,乘輕船夜走。」汝南太守滿龐曰:「山水速疾, 冀其不久。聞羽遣別將已在郟下,自許以南,百姓擾擾,羽所以不敢遂進者,恐吾軍掎 其後耳。今若遁去,洪河以南,非復國家有也,君宜待之。」仁曰:「善!」乃沉白馬 與軍人盟誓,同心固守。城中人馬才數千人,城不沒者數板。羽乘船臨城,立圍數重, 外內斷絕。羽又遣別將圍將軍呂常於襄陽。荊州刺史胡修、南鄉太守傅方皆降於羽。

樊城の曹仁は、船で夜逃げしようとした。だが、汝南太守の満寵は、曹仁をととどめて、さとした。
「山の水は、はやく引きます。樊城の水没は、すぐに解消されるでしょう。もし曹仁さんが逃げてしまったら、許都より南は、関羽のものになります。曹仁さんは、こらえなさい」
曹仁は、白馬をしずめて、樊城の守りを固くした。
関羽は船にのり、樊城にのぞんだ。いくえにも囲い、樊城を外と断絶させた。関羽は、将軍の呂常に、襄陽を囲ませた。荊州刺史の胡修と、南郷太守の傅方は、どちらも関羽に降った。

関羽が、ふつうに優勢だ。考察しがいが、ありそうな場面!


219年9月、魏諷が反乱し、曹操が焦る

初,沛國魏諷有惑眾才,傾動鄴都,魏相國鐘繇辟以為西曹掾。滎陽任覽,與諷友 善。同郡鄭袤,泰之子也,每謂覽曰:「諷奸雄,終必為亂。」
九月,諷潛結徒黨,與 長樂衛尉陳禕謀襲鄴;未及期,禕懼而告之。太子丕誅諷,連坐死者數千人,鐘繇坐免 官。

はじめ、沛国の魏諷が、鄴都で人々を惑わした。魏の相国をつとめる鍾繇は、魏諷をめして、西曹掾とした。滎陽の任覽は、魏諷と友人だ。おなじ滎陽の鄭袤は、鄭泰の子だ。いつも鄭袤は、魏諷と会うたび「魏諷は奸雄だ。かならず乱を起こすだろう」とコメントした。
219年9月、魏諷は、長樂衛尉の陳禕とともに、鄴都を襲った。陳禕が懼れてしまい、事前に告げた。曹丕は、魏諷を殺した。数千人が連座して死んだ。鍾繇は、魏諷に連座して、免官された。

初,丞相主簿楊修與丁儀兄弟謀立曹植為魏嗣,五官將丕患之,以車載廢簏內朝歌 長吳質,與之謀。修以白魏王操,操未及推驗。丕懼,告質,質曰:「無害也。」明日, 復以簏載絹以入,修復白之,推驗,無人;操由是疑焉。其後植以驕縱見疏,而植故連 綴修不止,修亦不敢自絕。每當就植,慮事有闕,忖度操意,豫作答教十餘條,敕門下, 「教出,隨所問答之」,於是教裁出,答已入;操怪其捷,推問,始洩。操亦以修袁術 之甥,惡之,乃發修前後漏洩言教,交關諸侯,收殺之。

はじめ丞相主簿の楊修は、丁儀の兄弟とともに、曹植を魏王を嗣がせようとした。五官將の曹丕は、楊修をジャマに思った。曹丕は、朝歌県長の呉質とはかり、楊修を陥れた。

楊修がどのように、ハメられたか。後日、ちゃんと見ます。なぜこのタイミングで、『資治通鑑』に楊修の殺害が、入りこんだのか。よく分からない。関羽という外圧を受けて、少なくとも家の中くらいは、キレイにまとめておこうと思ったか。

また曹操は、楊修が袁術の甥だから、楊修をにくんだ。曹操は、楊修を殺した。

袁術の甥であることが、1ミリでも現実的な脅威にならないと、曹操は楊修を殺さない。だって楊修が袁術の甥であることは、20年前から、ずっと変更はないのだ。今さら、そんな理由を持ち出さなくても。


魏王操以杜襲為留府長史,駐關中。關中營帥許攸擁部曲不歸附,而有慢言,操大 怒,先欲伐之。群臣多諫宜招懷攸,共討強敵;操橫刀於膝,作色不聽。襲入欲諫,操 逆謂之曰:「吾計已定,卿勿復言!」襲曰:「若殿下計是邪,臣方助殿下成之;若殿 下計非邪,雖成,宜改之。殿下逆臣令勿言,何待下之不闡乎!」操曰:「許攸慢吾, 如何可置!」襲曰:「殿下謂許攸何如人邪?」操曰:「凡人也。」襲曰:「夫惟賢知 賢,惟聖知聖,凡人安能知非凡人邪!方今豺狼當路而狐狸是先,人將謂殿下避強攻弱; 進不為勇,退不為仁。臣聞千鈞之弩,不為鼷鼠發機;萬石之鐘,不以莛撞起音。今區 區之許攸,何足以勞神武哉!」操曰:「善!」遂厚撫攸,攸即歸復。

曹操は、杜襲を留府長史として、関中にとどめた。関中の營帥・許攸は、曹操に帰さない。曹操は、許攸を殺そうとした。杜襲は、曹操をなだめた。
「許攸は、たかが凡人です。曹操さまのような賢人(非凡人)のことを、許攸は、理解できません。だから許攸は、曹操さまに背くのです。いまは(関羽などの)強敵がいます。許攸を攻めて、敵を増やしてはいけません」

曹操の浅はかさ、焦りが見える。「魏志」は分量が多い。こうやって、時間軸を一致させる作業をしてもらうと、文脈が生まれ、おもしろくなる。

曹操は、杜襲を採用した。許攸を厚くあつかってやると、許攸は曹操に帰した。杜襲の云うとおりになった。

次回、関羽が死にます。