表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

219年10月~、荊州は孫権に帰す

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

210年10月、関羽の樊城包囲が、解ける

冬,十月,魏王操至洛陽。
陸渾民孫狼等作亂,殺縣主簿,南附關羽。羽授狼印,給兵,還為寇賊,自許以南, 往往遙應羽,羽威震華夏。魏王操議徙許都以避其銳,丞相軍司馬司馬懿、西曹屬蔣濟 言於操曰:「於禁等為水所沒,非戰攻之失,於國家大計未足有損。劉備、孫權,外親 內疏,關羽得志,權必不願也。可遣人勸權躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解。」 操從之。

219年冬10月、曹操は洛陽にきた。
陸渾の民・孫狼らが、県の主簿を殺して、関羽についた。許都より南は、関羽のために震えた。曹操は、許都から献帝をうつすことを議した。丞相軍司馬の司馬懿と、西曹屬の蔣濟は、遷都に反対した。
「孫権に関羽の背後をつかせれば、樊城の包囲は解けます」

初,魯肅嘗勸孫權以曹操尚存,宜且撫輯關羽,與之同仇,不可失也。及呂蒙代肅 屯陸口,以為羽素驍雄,有兼併之心,且居國上流,其勢難久,密言於權曰:「今令征 虜守南郡,潘璋住白帝,蔣欽將游兵萬人循江上下,應敵所在,蒙為國家前據襄陽,如 此,何憂於操,何賴於羽!且羽君臣矜其詐力,所在反覆,不可以腹心待也。今羽所以 未便東向者,以至尊聖明,蒙等尚存也。今不於強壯時圖之,一旦僵僕,欲復陳力,其 可得邪!」權曰:「今欲先取徐州,然後取羽,何如?」對曰:「今操遠在河北,撫集 幽、冀,未暇東顧,徐土守兵,聞不足言,往自可克。然地勢陸通,驍騎所騁,至尊今 日取徐州,操後旬必來爭,雖以七八萬人守之,猶當懷憂。不如取羽,全據長江,形勢 益張,易為守也。」權善之。權嘗為其子求昏於羽,羽罵其使,不許昏;權由是怒。

はじめ魯粛は「関羽をつかい、曹操に対抗しよう。関羽を失ってはいけない」と、孫権に勧めた。呂蒙が、魯粛に代わって、陸口にきた。呂蒙は孫権に、関羽を征するよう、ひそかに進言した。
南郡を攻めとり、潘璋を白帝におく。蒋欽に1万をつけて、長江を遡らせる。わたくし呂蒙は、襄陽にゆく。こうすれば、関羽なしでも、曹操に対抗できます」
孫権は呂蒙に、反問した。
さきに徐州をとり、あとで関羽を討つのでは、どうか?」
呂蒙は、徐州が守りにくいから、孫権に反対した。孫権は、呂蒙をみとめた。

徐州を攻める議論を、ここに挿入してくるとは。

かつて孫権は、関羽に婚姻を断られ、罵られた。孫権は、関羽に怒った。

及 羽攻樊,呂蒙上疏曰:「羽討樊而多留備兵,必恐蒙圖其後故也。蒙常有病,乞分士眾 還建業,以治疾為名,羽聞之,必撤備兵,盡赴襄陽。大軍浮江晝夜馳上,襲其空虛, 則南郡可下而羽可禽也。」遂稱病篤。權乃露檄召蒙還,陰與圖計。蒙下至蕪湖,定威 校尉陸遜謂蒙曰:「關羽接境,如何遠下,後不當可憂也?」蒙曰:「誠如來言,然我 病篤。」遜曰:「羽矜其驍氣,陵轢於人,始有大功,意驕志逸,但務北進,未嫌於我; 有相聞病,必益無備。今出其不意,自可禽制。下見至尊,宜好為計。」蒙曰:「羽素 勇猛,既難為敵,且已據荊州,恩信大行,兼始有功,膽勢益盛,未易圖也。」蒙至都, 權問:「誰可代卿者?」蒙對曰:「陸遜意思深長,才堪負重,觀其規慮,終可大任; 而未有遠名,非羽所忌,無復是過也。若用之,當令外自韜隱,內察形便,然後可克。」 權乃召遜,拜偏將軍、右部督,以代蒙。

呂蒙は、病気という名目で、蕪湖にひいた。定威 校尉の陸遜が、呂蒙の後任になった。陸遜は、偏將軍、右部督となった。

遜至陸口,為書與羽,稱其功美,深自謙抑, 為盡忠自托之意。羽意大安,無復所嫌,稍撤兵以赴樊。遜具啟形狀,陳其可禽之要。 羽得於禁等人馬數萬,糧食乏絕,擅取權湘關米;權聞之,遂發兵襲羽。權欲令征虜將 軍孫皎與呂蒙為左右部大督,蒙曰:「若至尊以征虜能,宜用之;以蒙能,宜用蒙。昔 周瑜、程普為左右部督,督兵攻江陵,雖事決於瑜,普自恃久將,且俱是督,遂共不睦, 幾敗國事,此目前之戒也。」權寤,謝蒙曰:「以卿為大督,命皎為後繼可也。」

陸遜は陸口で、関羽にへりくだった手紙を書いた。関羽は、孫権の米をぬすんだ。孫権は、征虜將 軍の孫皎と呂蒙を、左右部大督とした。呂蒙は、軍にトップが2人いると、命令が徹底しないと云った。孫権は、呂蒙をトップにした。

魏王操之出漢中也,使平寇將軍徐晃屯宛以助曹仁;及於禁陷沒,晃前至陽陵陂。 關羽遣兵屯偃城,晃既到,詭道作都塹,示欲截其後,羽兵燒屯走。晃得偃城,連營稍 前。操使趙儼以議郎參曹仁軍事,與徐晃俱前,餘救兵未到;晃所督不足解圍,而諸將 呼責晃,促救仁。儼謂諸將曰:「今賊圍素固,水潦猶盛,我徒卒單少,而仁隔絕,不 得同力,此舉適所以敝內外耳。當今不若前軍逼圍,遣諜通仁,使知外救,以勵將士。 計北軍不過十日,尚足堅守,然後表裡俱發,破賊必矣。如有緩救之戮,餘為諸君當 之。」諸將皆喜。晃營距羽圍三丈所,作地道及箭飛書與仁,消息數通。

曹操は漢中にゆくとき、平寇將軍の徐晃を宛城におき、曹仁を助けさせた。

侯音の反乱のとき、徐晃はどこにいたの?

徐晃は、趙𠑊とともに、曹仁を救った。樊城に矢文を打ち、曹仁を励ました。

孫權為箋與魏 王操,請以討羽自效,及乞不漏,令羽有備。操問群臣,群臣鹹言宜密之。董昭曰: 「軍事尚權,期於合宜。宜應權以密,而內露之。羽聞權上,若還自護,圍則速解,便 獲其利。可使兩賊相對銜持,坐待其敝。秘而不露,使權得志,非計之上。又,圍中將 吏不知有救,計糧怖懼。儻有他意,為難不小。露之為便。且羽為人強梁,自恃二城守 固,必不速退。」操曰:「善!」即敕徐晃以權書射著圍裡及羽屯中,圍裡聞之,志氣 百倍;羽果猶豫不能去。

孫権は曹操に、手紙を書いた。
「ともに関羽を討ちましょう。このことは、関羽に内密です」と。
曹操の郡臣は、孫権の手紙を、内密にしようと考えた。だが董昭だけが、関羽に知らせてしまえ と云った。曹操は、董昭を採用した。曹操は徐晃に命じ、孫権の手紙を、関羽の陣中に射こませた。

カケヒキは、個別に詳細に楽しみたい。

樊城の士気は、百倍した。関羽は、曹仁を攻めあぐねた。

魏王操自雒陽南救曹仁,群下皆謂:「王不亟行,今敗矣。」 侍中桓階獨曰:「大王以仁等為足以料事勢不也?」曰:「能。」「大王恐二人遺力 邪?」曰:「不然。」「然則何為自往?」曰:「吾恐虜眾多,而徐晃等勢不便耳。」 階曰:「今仁等處重圍之中而守死無貳者,誠以大王遠為之勢也。夫居萬死之地,必有 死爭之心。內懷死爭,外有強救,大王案六軍以示餘力,何憂於敗而欲自往?」操善其 言,乃駐軍摩陂,前後遣殷署、硃蓋等凡十二營詣晃。關羽圍頭有屯,又別屯四塚,晃 乃揚聲當攻圍頭屯而密攻四塚。羽見四塚欲壞,自將步騎五千出戰;晃擊之,退走。羽 圍塹鹿角十重,晃追羽,與俱入圍中,破之,傅方、胡修皆死,羽遂撤圍退,然舟船猶 據沔水,襄陽隔絕不通。

みずから曹操は、洛陽から南下し、曹仁を救おうとした。侍中の桓階は、曹操をとめた。
「曹仁は頼りになります。曹操さまが、死地にゆく必要はありません」
曹操は、桓階をみとめた。曹操は摩陂にいた。
徐晃が、関羽を破った。傅方と胡修が死に、関羽は撤退した。だが船は沔水にあるから、樊城と襄陽は通じないままだ。

219年10月つづき、荊州が孫権に帰する

呂蒙至尋陽,盡伏其精兵□冓□鹿中,使白衣搖櫓,作商賈人服,晝夜兼行。羽所 置江邊屯候,盡收縛之,是故羽不聞知。糜芳、傅士仁素皆嫌羽輕己,羽之出軍,芳、 仁供給軍資不悉相及,羽言:「還,當治之!」芳、仁鹹懼。於是蒙令故騎都尉虞翻為 書說仁,為陳成敗,仁得書即降。翻謂蒙曰:「此譎兵也,當將仁行,留兵備城。」遂 將仁至南郡。麋芳城守,蒙以仁示之,芳遂開門出降。蒙入江陵,釋於禁之囚,得關羽 及將士家屬,皆撫慰之,約令軍中:「不得干歷人家,有所求取。」蒙麾下士,與蒙同 郡人,取民家一笠以覆官鎧;官鎧雖公,蒙猶以為犯軍令,不可以鄉里故而廢法,遂垂 涕斬之。於是軍中震栗,道不拾遺。蒙旦暮使親近存恤耆老,問所不足,疾病者給醫藥, 饑寒者賜衣糧。羽府藏財寶,皆封閉以待權至。

呂蒙は、尋陽にきた。商人に化けて、麋芳と傅士仁をおとした。呂蒙は、占領地に善政をしいた。


關羽聞南郡破,即走南還。曹仁會諸將議,鹹曰:「今因羽危懼,可追禽也。」趙 儼曰:「權遨羽連兵之難,欲掩制其後,顧羽還救,恐我承其兩疲,故順辭求效,乘釁 因變以觀利鈍耳。今羽已孤迸,更宜存之以為權害。若深入追北,權則改虞於彼,將生 患於我矣,王必以此為深慮。」仁乃解嚴。魏王操聞羽走,恐諸將追之,果疾敕仁如儼 所策。

関羽は、南郡がおちたので、南にもどった。趙𠑊も曹操も、関羽を追わないことにした。

この段落、とても面白い。曹操や曹仁の、関羽との戦いにたいする認識がわかる。後日、掘り下げる予定。


關羽數使人與呂蒙相聞,蒙輒厚遇其使,周游城中,家家致問,或手書示信。羽人 還,私相參訊,鹹知家門無恙,見待過於平時,故羽吏士無鬥心。
會權至江陵,荊州將吏悉皆歸附;獨治中從事武陵潘濬稱疾不見。權遣人以床就家 輿致之,濬伏面著床席不起,涕泣交橫,哀哽不能自勝。權呼其字與語,慰諭懇惻,使 親近以手巾拭其面。濬起,下地拜謝。即以為治中,荊州軍事一以諮之。

関羽軍の兵士の家族は、呂蒙を慕った。手紙で、帰順を説いた。関羽軍の兵は、闘う意欲がなくなった。
孫権は、江陵にきた。荊州の将吏は、みな孫権に帰した。ただ、治中從事をつとめる武陵の潘濬だけが、孫権に帰さなかった。そんけんは、潘濬をくどいた。

武陵部從事樊 由誘導諸夷,圖以武陵附漢中王備。外白差督督萬人往討之,權不聽;特召問濬,濬答: 「以五千兵往,足以擒由。」權曰:「卿何以輕之?」濬曰:「由南陽舊姓,頗能弄脣 吻,而實無才略。臣所以知之者,由昔嘗為州人設饌,比至日中,食不可得,而十餘自 起,此亦侏儒觀一節之驗也。」權大笑,即遣濬將五千人往,果斬平之。權以呂蒙為南 郡太守,封孱陵侯,賜錢一億,黃金五百斤;以陸遜領宜都太守。

武陵部從事の樊 由は、武陵を劉備につけようとした。孫権は、潘濬に武陵を討たせた。潘濬は、武陵を平らげた。

武陵のうごき、潘濬の活躍。知らなかった。後日、列伝やります。

孫権は呂蒙を、南郡太守とした。陸遜を、宜都太守とした。

219年11月、陸遜による荊州平定

十一月,漢中王備所置宜都太守樊友委郡走,諸城長吏及蠻夷君長皆降於遜。遜請 金、銀、銅印以假授初附,擊蜀將詹晏等及秭歸大姓擁兵者,皆破降之,前後斬獲、招 納凡數萬計。權以遜為右護軍、鎮西將軍,進封婁侯,屯夷陵,守峽口。關羽自知孤窮, 乃西保麥城。孫權使誘之,羽偽降,立幡旗為象人於城上,因遁走,兵皆解散,才十餘 騎。權先使硃然、潘璋斷其徑路。

219年11月、劉備がおいた宜都太守の樊友は、にげた。宜都郡は、漢族も蛮夷も、陸遜にくだった。陸遜は、蜀將の詹晏らと、秭歸の大姓を、くだした。孫権は、陸遜を右護軍、鎮西將軍として、夷陵においた。陸遜は、峽口を守った。

劉備軍が、長江をくだってくるから、陸遜が備えた。のちに夷陵の戦いをやる。陸遜がここで劉備を食い止める準備は、すでに関羽の生前から、できていた。

関羽は麦城にこもった。朱然と潘璋が、関羽の退路を絶った。

219年12月、関羽の死

十二月,璋司馬馬忠獲羽及其子平於章鄉,斬之,遂 定荊州。

219年12月、潘璋の司馬をつとめる馬忠は、関羽と関平を、章郷でとらえた。関羽と関平を斬った。ついに、荊州が定まった。

初,偏將軍吳郡全琮,上疏陳關羽可取之計,權恐事洩,寢而不答;及已禽羽,權 置酒公安,顧謂琮曰:「君前陳此,孤雖不相答,今日之捷,抑亦君之功也。」於是封 琮陽華亭侯。權復以劉璋為益州牧,駐秭歸,未幾,璋卒。

はじめ偏将軍をつとめる呉郡の全琮は、関羽をうつ計略を、孫権に伝えた。孫権は、計略が洩れるのを恐れて、全琮を知らんふりした。関羽をとらえ、孫権が公安にくると、全琮をねぎらった。
「前に知らんふりをして、ごめん。関羽の死は、全琮の功績でもあるのだ」
孫権は全琮を、陽華亭侯に封じた。
孫権は、劉璋を益州牧にして、秭歸においた。劉璋はすぐ死んだ。

呂蒙未及受封而疾發,權迎置於所館之側,所以治護者萬方。時有加金鹹,權為之 慘戚。欲數見其顏色,又恐勞動,常穿壁瞻之,見小能下食,則喜顧左右言笑,不然則 咄□昔,夜不能寐。病中瘳,為下赦令,群臣畢賀,已而竟卒,年四十二。權哀痛殊甚, 為置守塚三百家。權後與陸遜論周瑜、魯肅及蒙曰:「公瑾雄烈,膽略兼人,遂破孟德, 開拓荊州,邈焉寡儔。子敬因公瑾致達於孤,孤與宴語,便及大略帝王之業,此一快也。 後孟德因獲劉琮之勢,張言方率數十萬眾水步俱下,孤普請諸將,咨問所宜,無適先對; 至張子布、秦文表俱言宜遣使修檄迎之,子敬即駁言不可,勸孤急呼公瑾,付任以眾, 逆而擊之,此二快也。後雖勸吾借玄德地,是其一短,不足以損其二長也。周公不求備 於一人,故孤忘其短而貴其長,常以比方鄧禹也。子明少時,孤謂不辭劇易,果敢有膽 而已;及身長大,學問開益,籌略奇至,可以次於公瑾,但言議英發不及之耳。圖取關 羽,勝於子敬。子敬答孤書雲:『帝王之起,皆有驅除,羽不足忌。』此子敬內不能辦, 外為大言耳,孤亦恕之,不苟責也。然其作軍屯營,不失令行禁止,部界無廢負,路無 拾遺,其法亦美矣。」

呂蒙が、病死した。孫権は、呂蒙の病状を、壁にあなを開けて見た。呂蒙は死んだ。42歳だった。
のちに孫権は、陸遜にむかって、周瑜と魯粛と呂蒙について、コメントした。
「彼らのおかげで、私は皇帝になることができたよ」

せっかくならコメントは、裴松之の原文を、省略なしに読みましょう。


孫權與於禁乘馬並行,虞翻呵禁曰:「汝降虜,何敢與吾君齊馬 首乎!」抗鞭欲擊禁,權呵止之。

孫権と于禁が、馬をならべた。虞翻は、于禁をむち打った。


孫權之稱籓也,魏王操召張遼等諸軍悉還救樊,未至而圍解。徐晃振旅還摩陂,操 迎晃七里,置酒大會。王舉酒謂晃曰:「全樊、襄陽,將軍之功也。」亦厚賜桓階,以 為尚書。操嫌荊州殘民及其屯田在漢川者,皆欲徙之。司馬懿曰:「荊楚輕脆易動,關 羽新破,諸為惡者藏竄觀望,徙其善者,既傷其意,將令去者不敢復還。」操曰:「是 也。」是後諸亡者悉還出。

孫権が、魏王の藩屏となった。だから曹操は、張遼らを、樊城にもどした。

張遼が合肥から去ったのは、孫権が臣従したから。この因果関係、知りませんでした。曹操は、孫権がついに降伏したと思い、死んだ。幸せな死だ。

樊城の包囲が解ける前に、徐晃は摩陂にもどった。早々は徐晃をむかえ、宴会した。曹操は徐晃をほめた。
「樊城と襄陽が全うしたのは、徐晃の功績だ」
また、桓階をほめて、尚書とした。曹操は、荊州に人口が残るのをきらい、中原に移住させたいと思った。司馬懿は、反対した。
「荊州は、不安定です。関羽が敗れても、また誰かが、反乱のチャンスを望んでいます。もし、曹操さまに反感をもたない人まで、強制的に移住させたら、彼らは敵国に逃げるでしょう」
曹操は、司馬懿をみとめた。のちに、司馬懿の言うとおりとなった。

「還出」が、よく分からない。『晋書』が出典? そして、つぎに荊州を動揺させたのは、司馬懿のライバル・諸葛亮だ。うまい、お話。
国境から人口をうつす話、不自然なまでに『資治通鑑』に頻出する。なぜ?


魏王操表孫權為票騎將軍,假節,領荊州牧,封南昌侯。權遣校尉梁寓入貢,又遣 硃光等歸,上書稱臣於操,稱說天命。操以權書示外曰:「是兒欲踞吾著爐火上邪!」 侍中陳群等皆曰:「漢祚已終,非適今日。殿下功德巍巍,群生注望,故孫權在遠稱臣。 此天人之應,異氣齊聲,殿下宜正大位,復何疑哉!」操曰:「若天命在吾,吾為周文 王矣。」

曹操は、孫権を驃騎将軍、假節とし、荊州牧とした。孫権は、校尉の梁寓に、魏王へ入貢させた。孫権はまた、硃光らをおくり、曹操に皇帝即位を勧めた。
「あのガキは、私を火の上に座らせようとしている」
侍中の陳羣らは、曹操に皇帝即位を勧めた。
「漢室は尽きました。孫権が、魏臣を称しています」
「もし天命が私にあっても、私は周の文王になろうぞ」と、曹操。101112

皇帝即位に関する司馬光の意見は、こちらに抄訳しました。
219年、三国物語は、いちど終わる。三国物語を、後漢末の英雄譚と捉えるなら、関羽&魏諷という、最後&最大に逆境を越えた曹操が、ハッピーエンドを迎える。関羽から荊州を奪い返した孫権は、荊州&揚州ごと曹操に降り、再統一完了。『資治通鑑』219年の余韻は「めでたし、めでたし」でした。
『資治通鑑』のつぎの1行は「春,正月,武王至洛陽;庚子,薨。」です。曹操が死ぬ。ぼくの10年11月の抄訳キャンペーンも、ひとまず、ここで終わりかな。