表紙 > 孫呉 > 孫権を曹操に帰順させ損ねた、一途の虞翻伝

01) 王朗から孫策への鞍替え

『呉書』第十二より、虞翻伝をやります。
虞翻は、張紘とおなじく、孫策と孫権を、曹操に帰順させようと動いた人。張紘と対比して、見ていきます。

張紘伝は、こちらでやりました。
孫策と孫権を、曹操に帰順させる能吏・張紘伝


会稽のイナカ者&次男のあせり

虞翻字仲翔,會稽餘姚人也,

虞翻は、あざなを仲翔という。會稽郡の餘姚の人だ。

餘姚は、盧弼が孫策伝で注釈した。
虞翻伝を読むとき、会稽郡が出身だということが、けっこう効いてくる。ペアの張紘は、徐州出身で、洛陽に遊学した経験がある。この点、虞翻はイナカ者である。中央での人脈にも、恵まれない。


吳書曰:翻少好學,有高氣。年十二,客有候其兄者,不過翻,翻追與書曰:「僕聞虎魄不取腐芥,磁石不受曲針,過而不存,不亦宜乎!」客得書奇之,由是見稱。

韋昭『呉書』はいう。幼いときから虞翻は、学問を好み、プライドが高かった。虞翻が、12歳のとき。客が兄をおとずれ、虞翻に会わずに帰った。あとから虞翻は、客に手紙を送った。
「宝物は、ゴミを引きつけない。あなたが、私に会いに来なかったことは、ゴミの例とおなじですね」

盧弼は、陳琳の文や『会稽典録』から、虞翻の兄の名をひろう。虞歆、あざなは文粛という。名文家であった。
虞翻のあざなに「仲」があるから、次男だ。きっと家庭内で虞翻は、それなりに秀才だった、兄に張り合ううちに、性格が曲がったのだ。
のちに裴注『虞翻別伝』で出てくる。虞翻の家は、代々『易経』を研究してきた。学問を身につけることは、幼いときから要請されただろう。学問は、官吏として出世するとき、競合優位のタネである。


王朗のエスケープをエスコート

太守王朗命為功曹。孫策征會稽,翻時遭父喪,衰絰詣府門,朗欲就之,翻乃脫衰入見,勸朗避策。朗不能用,拒戰敗績,亡走浮海。翻追隨營護,到東部候官,候官長閉城不受,翻往說之,然後見納。

会稽太守の王朗は、虞翻を功曹とした。

王朗は、徐州の東海郡の人。王朗と華歆。魏のはじめての三公は、揚州に赴任して、孫策に攻められた。この共通点が生まれた理由を、ぼくは考え中。

孫策が、会稽を攻めた。虞翻は父の喪中だ。喪服の虞翻は、王朗に「孫策を避けなさい」と言った。だが王朗は、孫策と戦った。王朗は破れ、海に逃げた。虞翻は王朗を護衛した。
王朗らは、海路で、東部の候官にきた。

この東部は、張紘が曹操に任じられる「会稽東部都尉」の任地か?

候官の県長は、王朗を城に入れない。虞翻が県長を説得し、入れてもらった。

賀斉伝はいう。建安元年(196年)孫策は、会稽郡にきた。王朗は逃げた。東冶侯官の長である商升は、王朗のために起兵した。王朗伝にもある。
東冶の位置について、議論がとてもおおい。ぼくは思う。知りたくなったら、『集解』のここを読めばいい。とりあえず東冶は、距離は分からないが、会稽の州治から、南に行ったところだ。山越との前線だ。これで妥協
根本的に不明なので、ちくま訳の虞翻伝にある地図を、必ずしも信用しない。東冶が、えらく遠い南方に描かれているが、あやしい。


吳書曰:翻始欲送朗到廣陵,朗惑王方平記,言「疾來邀我,南嶽相求」,故遂南行。既至候官,又欲投交州,翻諫朗曰:「此妄書耳,交州無南嶽,安所投乎?」乃止。

『呉書』はいう。虞翻ははじめ、王朗を広陵に送ろうとした。王朗は、王方平が「南嶽にゆけ」と記したことを根拠に、南へ行きたがった。王朗はすでに、候官まで来ていた。王朗は、交州に逃げようとした。
虞翻は、王朗をとめた。
「交州に、南嶽という地名はない。どこに行くつもりですか」

日本では、男が悩むと、北へ向かうらしい。
後漢末、男が自棄になると、南へ向かうのだ。劉備しかり。虞翻は、王朗を止めないであげて。王方平の予言なんて、国外に逃げる口実なんだから。

王朗は、交州まで行くのは、やめた。

「魏志」王朗伝はいう。王朗は、孫策に会った。孫策は、王朗にへりくだり、王朗を殺さなかった。
ぼくは思う。孫策は、袁術の部将だが、袁術ほどは急進派ではない。「後漢の太守なんて、縛っておけ」というほど、割り切った行動はしない。孫策は、爽快に揚州を平定する、野生児のイメージがある。ちがう。きわめて権威に弱い、よらば大樹の人間だ。袁術の木陰で、居心地が悪くなり、献帝の木陰に移ろうとした。


朗謂翻曰:「卿有老母,可以還矣。」

王朗は、虞翻にいった。
「キミには老母がある。会稽に帰りなさい」

王朗は虞翻に云ったのだ。「虞翻は、私と運命をともにする必要はない」と。王朗の思いやりか。王朗と虞翻との関係は、その程度のものか。
古代中国では。窮地の親は、子を投げ捨てます。子は、命をかけて親を守らなければならない。主従関係も、おなじなのかな。窮地の上司は、部下を投げ捨てる。


翻別傳曰:朗使翻見豫章太守華歆,圖起義兵。翻未至豫章,聞孫策向會稽,翻乃還。會遭父喪,以臣使有節,不敢過家,星行追朗至候官。朗遣翻還,然後奔喪。而傳雲孫策之來,翻衰絰詣府門,勸朗避策,則為大異。

『虞翻別伝』はいう。

『虞翻別伝』は、『隋書』や『唐書』にない。だが裴注にあり、『太平御覧』にもある。
侯康はいう。『虞翻別伝』は、孫策や孫権の名前を、避けていない。三国時代に書かれたが、孫呉の人が書いたのでは、ないだろう。
ぼくは思う。三国時代に書かれたなんて、言い切れないと思うが。盧弼は、根拠を記さない。虞翻の子孫が、晋代くらいに書いたのだろう。

王朗は虞翻をおくり、豫章太守の華歆とともに、義兵を起こそうとした。

「義兵」が立ち向かう相手は、袁術である。袁術は、後漢が配置した太守を、つぎつぎ駆逐していった。袁術警戒網ができていた。

虞翻が豫章につく前に、孫策が会稽にきた。
ちょうど虞翻の父が死んだが、虞翻は父の葬儀をせず、王朗に駆けつけた。王朗が侯官に逃げてから、虞翻は服喪した。
裴松之はいう。孫策の攻撃を受けるタイミングと、虞翻の父が死ぬタイミングとが、陳寿と『虞翻別伝』とでちがう。

そうだね。ちがうね。この2つをアウフヘーベンして、ツジツマのあう仮説を立てるには、材料が少ない。っていうか、あまり意味を感じない。


転職した孫策の功曹となる

翻既歸,策複命為功曹,待以交友之禮,身詣翻第。

虞翻は、会稽にもどった。孫策は、ふたたび虞翻を、功曹とした。

王朗は虞翻に命じ、功曹とした。孫策も「複た」虞翻を功曹とした。別の人の功曹を、自分の功曹にするって、特別な意味があるのか? 虞翻は王朗を、喪を顧みず、命をかけて護衛した。功曹は、抜き差しならぬ紐帯となるのか?
孫策は、虞翻の前歴をリセットさせ、「王朗のことは忘れ、オレについてこい」と云ったように見える。

孫策は虞翻を、友人の礼で待遇した。みずから孫策は、虞翻の屋敷をおとずれた。

孫策は、さっき王朗を攻撃した。いま虞翻を、友人とした。虞翻は、王朗にしたがった人なのに、矛盾する。
態度を変化させたのは、虞翻ではなく、孫策である。このあいだに、袁術から献帝に、転職したのだろう。だから孫策は、前後で、矛盾する行動をした。
もっとも虞翻も、王朗との関係が切られ、フラフラしていたところだ。タイミングよく目の前で、孫策が好ましく変節した。だから、ついて行くことにした。


江表傳曰:策書謂翻曰:「今日之事,當與卿共之,勿謂孫策作郡吏相待也。」

『江表伝』はいう。孫策は虞翻に、手紙を書いた。
「今日のことに、一緒にあたってくれ。虞翻さんは、『この私を、会稽郡の一役人として使ってくれ』などと、言ってはいけない」

盧弼はいう。孫策のセリフ前半は、太史慈伝とおなじ。
ぼくは思う。『江表伝』は二次創作する人に、セリフのネタを提供してくれる。しかし、いつも文言がおなじでは、芸がない。孫策が、おなじ口説き文句ばかり、使いまわしていたと想像するのは、楽しいが。笑


失業した虞翻と、転職した孫策。ふたりが、意気投合した。
次回、豫章郡の華歆を説得します。