表紙 > 孫呉 > 孫策と孫権を、曹操に帰順させる能吏・張紘伝

01) 策に、献帝への転職を斡旋

『呉書』第八より、張紘伝をやります。
張紘は一貫して、孫策&孫権を、献帝に臣従させようとした人に見える。

後漢の学者仲間と、ふといパイプ

張紘字子綱,廣陵人。遊學京都,

張紘は、あざなを子綱という。広陵郡の人。若くして洛陽にゆき、学んだ。

広陵郡は、『三国志集解』孫策伝で、盧弼が注釈した。
以下、盧弼の『三国志集解』を、『集解』と省略して書きます。


吳書曰:紘入太學,事博士韓宗,治京氏易、歐陽尚書,

韋昭『呉書』はいう。張紘は太学で、博士の韓宗につかえた。

韓宗って、どんな人? 『集解』は、こここそ、がんばるべきだった。

張紘は『京氏易』をおさめた。

『釈文序録』はいう。京房は、梁の人・焦延寿から『易』を教わった。京房が『易経』につけた説明を、『京氏易』という。『京氏易』は、災異について詳しかった。だから漢代には、『京氏易』がよく学ばれた。
ぼくは思う。災異は、皇帝の政治を批判している。漢代の儒教は、この話をおもんじた。どうでもいいが、袁紹の祖先・袁安が学んだのは『孟子易』だ。ちがう。

張紘は『歐陽尚書』をおさめた。

『釈文序録』はいう。歐陽氏は、世よ『尚書』の読み方を伝えてきた。曾孫の欧陽高のとき、『尚書』の読み方を、注釈にまとめた。だから歐陽氏学と呼ばれる。
ぼくの訳注。盧弼の注釈を「曾孫の高に至りて、尚書の章句を作る」と読みました。だが、欧陽高って、だれの曾孫なんだろう? 起点となる曽祖父の名前がないような。読み方、ちがう? どこが名前なんだろ。


又於外黃從濮陽闓受韓詩及禮記、左氏春秋。還本郡,舉茂才,公府辟,皆不就,

また張紘は、兗州の陳留郡にある、外黄にいたとき、濮陽闓から『韓詩』『禮記』『左氏春秋』をならった。

『郡国志』はいう。外黄とは、兗州の陳留郡である。
ぼくは思う。なんで徐州の広陵郡に生まれた張紘が、兗州にいたのか。陳留郡は、だいぶ洛陽にちかい。きっと、洛陽で学者の人脈をつくり、陳留郡に、勉強しに来たのだ。後漢の学者仲間たちのあいだで、弟子を住まわせる習慣って、あるだろうか? 列伝を順番にめくるしか、ないなあ。


還本郡,舉茂才,公府辟,皆不就,

張紘は、広陵郡にもどった。茂才に挙げられた。三公の府が、張紘を召した。だが張紘は、すべて断った。

吳書曰:大將軍何進、太尉硃俊、司空荀爽三府辟為掾,皆稱疾不就。

韋昭『呉書』はいう。大将軍の何進、太尉の朱儁、司空の荀爽の三公府が、張紘を掾に召した。だが張紘は、すべて断った。

何進と朱儁と荀爽は、同時期に三公をやっていない。つまり、180年代末から、190年代初まで、足かけ3年から5年、断りつづけたことになる。
何進が大将軍なのは、184年~189年。朱儁が太尉なのは、193年~194年。荀爽が司空なのは、189年から190年。
荀爽を蹴ったのが、気になる。潁川の人脈は、おいしかろうに。荀爽に恥をかかせてでも、董卓に協力したくなかった。そういう張紘の意思を、読みました。
陳寿は、韋昭『呉書』を読んだくせに、張紘が断った相手の名前をはぶいた。荀氏の恥になるから、都合が悪かった?


江南に避難し、孫策を曹操に臣従させる

避難江東。孫策創業,遂委質焉。表為正議校尉,

張紘は、江東に難をさけた。

張紘を読むとき、もっとも注意したいこと。
ぼくが思うに。曹操の徐州虐殺が、張紘が避難した、直接の原因ではないはず。なぜなら、張紘がいる広陵郡は、徐州のいちばん南で、淮水に隔てられているから、曹操と陶謙の主戦場にならなかった。
魯粛や諸葛瑾・諸葛亮らは、曹操に敵対することを、生きがいにした連中だ。彼らの故郷は、曹操の攻撃に遭っている。このあたり、張紘と条件がちがうのだ。おなじ徐州でも、曹操への反応は、ひととおりではない。
ぼくは思う。張紘が避難した原因は、中央の政争と、距離をとるためだ。李傕や郭汜は、董卓をついで、名声ある士人が好きだ。張紘は、李傕らからの勧誘を、振り切りたかったのだろう。

孫策が創業した。

韋昭のトリックがある。原文で孫策は「創業」した。ちくま訳は「挙兵した」となっており、独立のニュアンスがある。
しかし孫策は、どれだけ快進撃をしても、しょせん袁術の一部将である。孫策が「業をはじめた」ことは、一度もない。のちに孫権が皇帝になるから、遡って、孫策に独立のきざしを求めているだけ。
この点、張紘伝を読むのに重要だから、わざわざ書きました。

張紘は、孫策に身をゆだね、政策を検討した。

原文の動詞は「委質」。うまく訳せず。ちくま訳では「仕官した」だ。
孫策伝がひく『呉歴』はいう。孫策は江都にいた。張紘は、母の喪に服していた。しばしば孫策は、張紘をおとずれて、世務をたずねた。
『呉歴』を、ぼくがふくらます。
孫策は、張紘から何をきいたか。「献帝の周囲が安定したら、献帝に仕えるのが正しいよ。きみの父・孫堅さんは、董卓から洛陽を取り返した。孫策くんにも、できるはずだ」と。
張紘は、董卓と袁紹の対立で、中原が乱れたことに、ウンザリした。張紘は、治安を回復できる武将を、もとめた。張紘が避難した先で、その条件をみたす孫策を見つけ、協力したのだろう。
ここで、今回のページで、ぼくが指摘したい核心に触れます。孫策は、袁術の部将から、曹操(献帝)の部将に転職するため、張紘を雇い入れた。張紘の仕事は、曹操との関係づくりである。人脈があるから、可能だ。

孫策は上表して、張紘を正議校尉とした。

胡三省はいう。正議校尉は、孫策がプライベートに設置した役職だ。
ぼくは思う。たかが孫策が、長安の献帝に、上表したとは思えない。袁術あたりを経由して、認めてもらったのだろう。「議を正す」内容が、まさか献帝バンザイだとは、袁術は知らなかっただろう。かわいそうな人。


吳書曰:紘與張昭並與參謀,常令一人居守,一人從征討,後呂布襲取徐州,因為之牧,不欲令紘與策從事。追舉茂才,移書發遣紘。紘心惡布,恥為之屈。策亦重惜紘,欲以自輔。答記不遣,曰:「海產明珠,所在為寶,楚雖有才,晉實用之。英偉君子,所游見珍,何必本州哉?」

韋昭『呉書』はいう。張紘と張昭は、どちらも孫策の参謀になった。孫策は、つねに1人にルスを任せ、もう1人を従軍させた。

孫策伝がひく『呉歴』はいう。孫策は張紘に云った。「私の考えは、ぴたり張紘さんと同じだ。私の老母と、幼い弟を、張紘さんに任せる。張紘さんに家族の面倒を見てもらえたら、私は後ろを気にせず働ける」と。
ぼくは思う。張昭や張紘は、後漢&献帝のがわの人間。たとえば赤壁のような状況になれば、真っ先に「曹操を迎えるべきだ」と言い出す人だ。
さて孫策は、張昭と張紘と、意見が衝突した記録がない。孫権とは、大ちがいである。つまり孫策は、タイミングがくれば、曹操に帰順する気が、満々だった
『赤壁ストライブ』という漫画がある。気の弱い孫権は、悩む。「もし兄・孫策が生きていたら、鮮やかに曹操の書状を破り捨て、すぐに開戦するだろうな」と。ぼくは、ちがうと思う。孫策は、いさんで曹操を迎える!
くり返す。『呉歴』が言うほど、孫策と張紘&張昭が仲良しなら、孫策は曹操に帰順した い 人である。陳寿に、孫策と張紘&張昭が衝突した記録がないことも、間接的にこれを裏づける。

のちに呂布が、徐州牧となった。呂布は張紘を、孫策から引き抜こうとした。張紘は呂布をにくみ、孫策にとどまった。孫策が、張紘を引き止めて曰く。
「すぐれた宝石は、本籍地でなくても、輝くのです」

從討丹楊。策身臨行陳,紘諫曰:「夫主將乃籌謨之所自出,三軍之所系命也,不宜輕脫,自敵小寇。原麾下重天授之姿,副四海之望,無令國內上下危懼。」

張紘は、孫策にしたがい、丹楊郡を討った。孫策はみずから、戦陣にのぞんだ。張紘は、孫策を諌めた。
「あなたは指揮官ですから、前線に出てはいけない」

盧弼はいう。虞翻もまた、孫策におなじことを諌めた。だが孫策は、張紘や虞翻の諌めを聞かなかった。許貢の食客に殺された。
ぼくは思う。この丹楊攻めは、太史慈と一騎打ちしたときか。


許都にゆき、曹操に孫策をとりなす

建安四年,策遣紘奉章至許宮,留為侍御史。少府孔融等皆與親善。

建安四年(199年)孫策は、張紘に文書を持たせ、許都に行かせた。曹操は、張紘を手元にとどめ、張紘を侍御史とした。

虞翻伝がひく『江表伝』はいう。孫策は虞翻に、許都への使いを頼んだ。虞翻がイヤがったので、代わりに張紘が行くことになった。
ぼくは思う。孫策にとって、虞翻と張紘は、おなじ役割&おなじ高さの人材。虞翻伝を、つぎに読まねばならん。まあ『江表伝』の話ではありますが。笑

張紘は、少府の孔融らと、親しく交わった。

孫策伝がひく『江表伝』はいう。建安三年(198年)孫策は、曹操に使者を出した。みつぎ物は、建安元年(196年)のときの2倍も持たせた。孫策は曹操から、討逆将軍、呉侯にしてもらった。
『通鑑考異』はいう。孫策が曹操に遣いしたのは、建安二年(197年)で、建安元年ではない。
陳寿の張紘伝は、建安四年(199年)に、張紘が許都に行ったという。
盧弼が考える。下にある韋昭『呉書』に、曹操は孫策を「改號加封」したとある。つまり、陳寿の張紘伝が誤りである。?
ぼくは、よく分からなくなってきました。ただ、3つの保留事項は認識。孫策はバラバラと複数回、許都に使者を出していたかも。記録に残りにくいほど、秘密裏の使者だったかも。張紘の許都ゆきは、時期がよく分からないかも。


吳書曰:紘至,與在朝公卿及知舊述策材略絕異,平定三郡,風行草偃,加以忠敬款誠,乃心王室。時曹公為司空,欲加恩厚,以悅遠人,至乃優文褒崇,改號加封,辟紘為掾,舉高第,補侍禦吏,後以紘為九江太守。紘心戀舊恩,思還反命,以疾固辭。

韋昭『呉書』はいう。張紘は、許都の公卿たちに、3郡を平定した孫策を宣伝した。ときに曹操は司空で、遠方の人を厚遇した。

ちくま訳は「機嫌をとろうと計っており」だ。原文は「悅遠人」 だ。べつに、こびるニュアンスは、ないと思うけどなあ。
曹操は、献帝を得た。強敵・袁紹がいる。元手のかからない方法で、味方を増やしたい。だから肩書きを配った。べつに、やましくない政治的な作戦だ。むしろ皇帝を得たからこそ、行使できる、特権的な方法である。

曹操は張紘を、侍御史にした。のちに張紘を、九江太守にした。張紘は、孫策の恩を恋しく思い、病気を理由にことわった。

さて大変だ。九江郡には、あの寿春をふくむ。つまり曹操は、張紘に「袁術の跡地を治めろ」と命じたのだ! 張紘は、中原でも一級の学者である。むずかしい仕事が、できるはずだ。張紘は、孫策を媒介して、袁術の陣営にいた経験もある。「責任をとれ」というニュアンスすら、感じる。
任命の時期が分からないが「後」と「旧」から判断して、孫策の死後。孫権の初期か。つまり曹操は張紘に、これも命じたのだ。
「曹操側の太守として、孫策が死んだあとの揚州を、長江の北側から治めてみろ。孫権が役立つなら、手なずけろ。張昭らとの人脈もあるだろう」と。
後漢の揚州は、もともと寿春あたりが治所だ。「地理的に不可能」とも言えない。
曹操は、人材の使い方が、イヤミなほど、超うまい。笑


次回、孫策が死んで、孫権の時代です。