表紙 > 孫呉 > 孫策と孫権を、曹操に帰順させる能吏・張紘伝

03) 建業に移し、独立を戒める

『呉書』第八より、張紘伝をやります。
張紘は一貫して、孫策&孫権を、献帝に臣従させようとした人に見える。
孫策は、献帝への帰順に積極的だった。
孫権は、当初は態度をにごし、のちに曹操に反発する。

合肥の攻撃をいさめ、曹操との関係を維持

後權以紘為長史,從征合肥。

のちに孫権は、張紘を長史とした。(208年)孫権は、張紘をしたがえて、合肥を攻めた。

赤壁に連動して、孫権は合肥を攻めた。
ぼくはいま、赤壁を再考し、「孫権が、曹操の外圧を利用して、揚州の主導権を得るために開戦した」戦いだと思っています。孫権みずからも、周瑜とべつに動いたのは、その狙いを叶えるため。
孫権は、もっとも非協力的な張昭を、曹操を攻める一軍のトップに置いた。張昭は名前を貸しただけだろうが、曹操派・張昭が、孫権の脅迫を受けた大事件だろう。赤壁以前の様子から、おおきく変化した。張紘もまた、つき合わされている。


吳書曰:合肥城久不拔,紘進計曰:「古之圍城,開其一面,以疑眾心。今圍之甚密,攻之又急,誠懼並命戮力。死戰之寇,固難卒拔,及救未至,可小寬之,以觀其變。」議者不同。會救騎至,數至圍下,馳騁挑戰。

韋昭『呉書』はいう。合肥を囲んだが、なかなか抜けない。張紘は、孫権に云った。「合肥を完全に包囲したら、敵は死力を尽くします。ちょっと緩めて、状況の変化を見ましょう
だが孫権軍の人たちは、張紘に賛成しない。

張紘は、合肥の作戦をジャマしている。張紘は、孫権が曹操に手向かうことを、認めていない。失敗させたいのだ。
「曹操さんに、反意はありません。えへへ」
と、ごまかせる程度に終わらせたい。孫権を曹操に従わせるのが、張紘の役目なんだ。そりゃ、孫権の軍人たちと、意見が一致しないでしょうよ。
曹操側の合肥は、援軍がくるまで、持ちこたえれば充分だった。張紘が言うような、死力を尽くす城兵というのは、孤立無援のケースである。当てはまらない。張紘は、分かっていて、愚策を云ってると思う。「以觀其變」なんて、無責任すぎる。タナのそばで、口をあけていても、ホコリしか入ってこない。

たまたま曹操軍の救援がきた。

權率輕騎將往突敵,紘諫曰:「夫兵者兇器,戰者危事也。今麾下恃盛壯之氣,忽強暴之虜,三軍之眾,莫不寒心,雖斬將搴旗,威震敵場,此乃偏將之任,非主將之宜也。原抑賁、育之勇,懷霸王之計。」權納紘言而止。既還。

合肥に、曹操の援軍がきた。孫権は、みずから輕騎をひきいて、突っこもうとした。張紘は、孫権をいさめた。
「あぶないから、やめなさい」
孫権は突撃をやめて、撤退した。

状況&セリフは、孫策のときの、使いまわしかな。
たしかに張紘は、孫権の命を守った。だがそれよりも、曹操との関係を守った。
もし孫権が突撃したら、どうなるか。士気が高まる。また「孫権さんを、死なすな」を掛け声に、孫権軍は猛攻をかけるだろう。曹操軍と、全面対決となる。孫権が勝てるかどうかは、別問題としても。
張紘にとって、全面戦争は、ぜったいに避けたい。「孫権は、曹操に任じられた会稽太守」という位置づけを維持するのが、張紘の役目だ。後漢の秩序を、最速で回復する方法だと信じているから。「まちがえて出兵したけど、とくに他意はないんだ」と、とぼけられる範囲で、孫権に撤退してもらいたい。
さきへの展望。
合肥攻めが長続きしないのは、曹操=後漢への攻撃にためらいがあり、反対派がいるから。だが、荊州攻めが貫徹するのは、劉備を攻めても、後漢への攻撃にはならないから。のちに張紘とおなじ立場の虞翻は、関羽攻めに協力している。


明年將複出軍,紘又諫曰:「自古帝王受命之君,雖有皇靈佐於上,文德播於下,亦賴武功以昭其勳。然而貴於時動,乃後為威耳。今麾下值四百之厄,有扶危之功,宜且隱息師徒,廣開播殖,任賢使能,務崇寬惠,順天命以行誅,可不勞而定也。」於是遂止不行。

翌年(209年)も孫権は、合肥を攻めようとした。張紘が反対した。

張紘のセリフは、抽象論である。内容がない。つまりこのセリフに、反対の理由は、書いていない。なぜ書かないか。やっと自立をはじめた孫権にとって、「曹操と戦ってはいけない」という張紘の本旨は、聞き入れられないからだ。

「いま漢室のピンチです。孫権さんは内政に集中すべきです。天命にしたがって動けば、ムリしなくても勝てます」

張紘の列伝が「呉志」にあることから、張紘は、孫呉の臣という扱いだ。だから列伝で張紘のセリフを読む人は、天命は孫権にくだり、倒すべき敵は曹操だと解釈するシカケだ。
だが、張紘の真意は違うだろう。
「曹操=献帝が成功するまで、孫権さんはジタバタせず、揚州を守っていればいい。揚州は、曹操からの借り物なんだから。もし孫権さんが、曹操に敵対したら、労せずに滅ぼされてしまいますよ」と。脅しにもなる。笑
200年代、揚州は外征が少なく、疲弊していない。張紘が合肥攻めに反対した理由を、「純粋に軍事的に孫権のため」と読むのは、むずかしい。曹操は、たしかに赤壁でミスり、方向性が微妙な時期なんだ。攻撃のチャンス!


建業に遷都させ、中原との絡みを保つ

紘建計宜出都秣陵,權從之。

張紘は孫権に「秣陵に移るべきだ」と云った。孫権は、これに従った。

ぼくが考える、移転(遷都とは云うまい)の意味。
孫権が、揚州奥地の軍閥となることを、防いだのではないか。孫権を、長江の対岸スレスレまで釣り出した。中原の曹操と、関わりを保ちやすくした。
史書か小説か忘れたが、潼関のとき。曹操が関中の諸将が集まってきたと聞いて、喜んだ。「長距離を移動して、個別に撃破する手間がはぶけた」と。孫権についても、おなじことが言える。会稽の東南で独立されたら、厄介。
まして秣陵(建業)は、張紘の故郷・広陵の対岸だ。張紘としては、移り住むことが、個人的にも嬉しかったにちがいない。


江表傳曰:紘謂權曰:「秣陵,楚武王所置,名為金陵。地勢岡阜連石頭,訪問故老,雲昔秦始皇東巡會稽經此縣,望氣者雲金陵地形有王者都邑之氣,故掘斷連岡,改名秣陵。今處所具存,地有其氣,天之所命,宜為都邑。」權善其議,未能從也。後劉備之東,宿於秣陵,周觀地形,亦勸權都之。權曰:「智者意同。」遂都焉。

『江表伝』はいう。張紘は孫策に云った。
「秣陵は、楚の武王がおき、始皇帝のとき、王の気がありました。孫権さんが天命を得るため、遷都するといいでしょう」

くだらない、二次創作である。笑
張紘が遷都をアドバイスした。その史実から、ふくらませただけである。

劉備も、秣陵の地形を見て、「いい土地ですね」と云った。

獻帝春秋雲:劉備至京,謂孫權曰:「吳去此數百里,即有警急,赴救為難,將軍無意屯京乎?」權曰:「秣陵有小江百餘裏,可以安大船,吾方理水軍,當移據之。」備曰:「蕪湖近濡須,亦佳也。」權曰:「吾欲圖徐州,宜近下也。」
臣松之以為秣陵之與蕪湖,道裏所校無幾,於北侵利便,亦有何異?而雲欲闚徐州,貪秣陵近下,非其理也。諸書皆雲劉備勸都秣陵,而此獨雲權自欲都之,又為虛錯。

『献帝春秋』はいう。劉備は、孫権の居場所に口出しした。
裴松之はいう。『献帝春秋』だけが、孫権がみずから秣陵を思いついたと書いている。セリフに出てくる地名の距離も、デタラメである。

『献帝春秋』は、裴松之のいうとおり、ツジツマがあわないのでしょう。ただ孫権に「わたしは徐州をねらっている」と云わせたのは、面白い。どこかからの、文脈を無視した引用だろうが。呂蒙伝か?


孫権の独立を戒めて、死ぬ

令還吳迎家,道病卒。臨困,授子靖留箋曰:
「自古有國有家者,咸欲脩德政以比靈斯盛世,至於其治,多不馨香。非無忠臣賢佐,闇於治體也,由主不勝其情,弗能用耳。夫人情憚難而趨易,好同而惡異,與治道相反。傳曰'從善如登,從惡如崩',言善之難也。人君承奕世之基,據自然之勢,操八柄之威,甘易同之歡,無假取於人;而忠臣挾難進之術,吐逆耳之言,其不合也,不亦宜乎!(雖)則有釁,巧辯緣間,眩於小忠,戀於恩愛,賢愚雜錯,長幼失敘,其所由來,情亂之也。故明君悟之,求賢如饑渴,受諫而不厭,抑情損欲,以義割恩,上無 偏謬之授,下無希冀之望。宜加三思,含垢藏疾,以成仁覆之大。」

張紘は、呉郡にもどり、家族を秣陵に迎えようとした。

盧弼はいう。孫権は建安十六年(211年)秣陵にうつった。張紘が死んだのは、この歳である。だが『資治通鑑』は、魏の太和三年(229年)に張紘が死んだとする。これは、『資治通鑑』の誤りである。
『隋書』経籍志に、張紘の著作のタイトルがある。「後漢・討虜長史・張紘集」だ。孫権が、まだ後漢の討虜将軍だったとき、張紘が死んだ証明である。
『資治通鑑』は、229年に孫権が、秣陵に遷都した記事を載せる。これも、芋づる式に誤りである
王ハンコウはいう。229 年に孫呉が丞相を置いたとき、張昭は候補だが、張紘は候補でない。張紘が、とっくに死んでいた証拠だ。

道中、張紘は死んだ。

孫権を、呉郡から秣陵に動かすことは、命を懸けても、やりたかったことらしい。のち南朝の都となる建業は、こうして誕生しました。

死に際に張紘は、子の張靖に、孫権への手紙をわたした。
「孫権さんへ。近臣が口にする、甘い誘惑に、惑わされてはいけません。あなたは、揚州を治めている人です。儒教のいう秩序を、お忘れなきよう」

張紘は、何を云ったか。
魯粛のサギに引っかかり、独立を目指してはいけない。後漢の臣であることを自覚せよ。曹操に戦さを、吹っかけてはいけない。と。
古代中国の人は、遠まわしにしか言わないから、真意が伝わらないのだ。


時年六十卒。權省書流涕。紘著詩賦銘誄十餘篇。
張紘は60歳で死んだ。

152年生まれだ。曹操より3つ歳上。張昭より、4つ歳上。なんか意外な感じだな。孫策が袁術に絶縁するとき、張昭よりも張紘に、手紙を書いてもらったのは、年長だからか。まあ裴松之は、張昭が書いたかも、と保留してたが。

孫権は、張紘の手紙をみて、涙をながした。
張紘は、文学作品を10余篇、書いた。

吳書曰:紘見柟榴枕,愛其文,為作賦。陳琳在北見之,以示人曰:「此吾鄉里張子綱所作也。」後紘見陳琳作武庫賦、應機論,與琳書深歎美之。琳答曰:「自僕在河北,與天下隔,此間率少於文章,易為雄伯,故使僕受此過差之譚,非其實也。今景興在此,足下與子布在彼,所謂小巫見大巫,神氣盡矣。」紘既好文學,又善楷篆,與孔融書,自書。融遺紘書曰:「前勞手筆,多篆書。每舉篇見字,欣然獨笑,如複睹其人也。」

張紘は、陳琳や孔融らと、対等以上に、文化的な交流をした。

張紘の著作について、盧弼は注釈してる。『隋書』に目録があるようだ。著者の名前が、後漢の討虜長史である張紘。もちろん討虜将軍は、孫権。
つぎにある、張紘の子孫については、はぶきます。


初,紘同郡秦松字文表,陳端字子正,並與紘見待於孫策,參與謀謨。各早卒。

はじめ、張紘とおなじ広陵郡に、秦松(あざなは文表)、陳端(あざなは子正)がいた。どちらも張紘とともに、孫策に迎えられ、参謀をつとめた。どちらも、早くに死んだ。

孫策が、広陵の人脈を、手に入れていたことが、伺える。袁術が徐州に進出する足がかり!だったと思います。少なくとも、袁術から見れば。


おわりに:『後漢書』に立伝されるべき張紘

荀彧は、列伝の場所が問題になる。張紘も、おなじ議論があるべきだ。
張紘は、『三国志』ではなくて、『後漢書』がお似合いだ。
少なくとも張紘は、孫呉のために、尽力していない。むしろ、独立のジャマをしている。かと云って、曹魏の建国のために働いたのでもない。むしろ、揚州の孫権を制御しそこねて、曹魏をジャマした。『三国志』に場所がない。だったら、『後漢書』しかない(笑)。死去も、後漢のうちだし。

どうせ『呉書』の編集者たちは、
「孫呉にも、優れた文化人がいた。中原に、勝るとも劣らなーい!」
と見栄を張りたかった。だから、孫呉の建国をジャマした張紘を、列伝に入れた。さすがに功臣の巻に、張紘伝を収録するのは、気が引けた。だから、学者をあつめた巻の筆頭に、突っこんだのだ。
のちまで生き残った張昭は、賛否はあろうが、建国の功臣である。

このあたり、張昭伝をぼくなりに吟味したい。ただ『呉書』のなかでの位置は、功臣という扱いである。

そういうわけで、どうも「二張」というペアになるはずの張昭と張紘は、ちがう巻に分かれてしまった。ぼくは、そう思います。
つぎは、虞翻伝やります。虞翻は、性格こそ捻くれているが、立場や方針は、張紘とおなじ。頭の中では、できている。101026