表紙 > 孫呉 > 孫策と孫権を、曹操に帰順させる能吏・張紘伝

02) 曹操が送った目付け役

『呉書』第八より、張紘伝をやります。
張紘は一貫して、孫策&孫権を、献帝に臣従させようとした人に見える。
孫策は、献帝への帰順に積極的だった。
孫権は、当初は態度をにごし、のちに曹操に反発する。

孫権

曹公聞策薨,欲因喪伐吳。紘諫,以為乘人之喪,既非古義,若其不克,成讎棄好,不如因而厚之。曹公從其言,即表權為討虜將軍,領會稽太守。曹公欲令紘輔權內附,出紘為會稽東部都尉。

曹操は、孫策が死んだと聞いた。曹操は、孫呉を討とうと考えた。張紘は、曹操を諌めた。
「いにしえのルールでは、敵の死を乗じません。もし孫呉を攻め損ねたら、アダとなります。手あつく扱ってやるのがベストです」

孫策の死去は、建安五年(200年)だ。
ぼくは、張紘の読みを推測する。張紘には、「孫策と孫権は、曹操にアダをなさない」という認識があった。少なくとも孫策は、従順だった。
いま、べつに孫権の独立を助けるため、曹操をだましたのではない。後漢の秩序を回復させるため、発言したのだ。

曹操は、張紘の諌めをいれた。孫権を討虜将軍として、会稽太守にした。

孫権のこの官職は、直接に張紘のおかげ。
曹丕は孫権を呉王にしたせいで、天下統一がおくれた。もっと根本的な失敗がある。曹操が孫権を会稽太守にして、孫策を継ぐことを認めたせいで、天下統一がおくれた。まあ、結果論を吐いても、仕方ないのだが。

曹操は、孫権のもとに張紘を送った。曹操は願った。張紘が孫権をたすけつつ、許都とも内通してくれることを。曹操は、張紘を許都から出して、会稽の東武都尉とした。

孫亮伝の太平二年はいう。会稽東部を臨海郡とした。臨海の郡治は、章安だ。孫権伝の黄武四年と、太元二年に見える。
何焯はいう。『漢書』地理志はいう。会稽には、西部都尉と南部都尉があるだけだ。
趙明誠はいう。『金石録』は、永平八年(西暦65年)会稽の東部都尉の「路君闕銘」を載せる。前漢では、会稽の東部都尉を、呉郡から分割する前だ。だから班固『漢書』は、会稽の東部都尉を、地理志から省略したのだろう。会稽の東部に着任したのは、史書では張紘だけだ。
沈家本はいう。『続志』は会稽郡のしたの県に、東部侯がある。『宋志』で臨海太守は、もとの会稽の東部都尉とする。孫亮の太平二年、建安太守をたてた。もとはビン越の土地を、冶県とした。会稽郡はのちに、冶県の地を分割して、東部都尉と、南部都尉をおいた。何年に始めたことか、分からない。班固『漢書』は記さない。どうやら前漢のとき、東部都尉と南部都尉は、なかっただろう。後漢になったのち、設置したようだ。班固が省略したのではない。
王先謙はいう。『会稽典録』はいう。陽朔元年、東部都尉をうつして、治所をキンとした。異民族に攻撃され、句章に移したという。『金石録』は、永平八年、会稽の東部都尉の「路君闕銘」を載せる。陳寿の張紘伝、全琮伝、潘濬伝で、どれも会稽の東部都尉を載せる。後漢から三国のとき、東部都尉が設置され、かつ前漢のときも設置された証拠である。
ぼくなりの、まとめ。前漢のとき、会稽の東部都尉があったかは不明。班固は記さないが、他の史料が、存在したという。後漢末には、たしかに存在した。異民族・ビン越との前線。孫亮のとき、臨海郡となった。なげー。


吳書曰:權初承統,春秋方富,太夫人以方外多難,深懷憂勞,數有優令辭謝,付屬以輔助之義。紘輒拜箋答謝,思惟補察。每有異事密計及章表書記,與四方交結,常令紘與張昭草創撰作。紘以破虜有破走董卓,扶持漢室之勳;討逆平定江外,建立大業,宜有紀頌以昭公義。既成,呈權,權省讀悲感,曰:「君真識孤家門閥閱也。」乃遣紘之部。或以紘本受北任,嫌其志趣不止於此,權不以介意。

『呉書』はいう。孫権が孫策をついだ。母の呉夫人は、張紘を頼った。

ぼくは、注意したい。張紘は、孫権のちかくにいない。会稽の東部都尉という、最前線に飛ばされている。孫権と距離をおかせたのは、曹操の思惑だろうか。孫権と人間関係を築き、「孫権の臣」のように、懐かれたらこまる。
また南越は、孫権にとっても、後漢の司空・曹操にとっても、心配ごとだ。名声ある張紘に、任せたい場所である。

孫権は、上表するときや、外交するとき、張紘と張昭に、作文してもらった。

以前『建康実録』を読んでいて、書きましたが。200年から207年は、呉夫人の外戚政治だ。つまり呉夫人が死ぬまで、孫権に実権はない。呉夫人は、張紘と張昭をブレーンにして、若すぎる孫権を補った。
張紘と張昭が政治をすれば、曹操に従順となる。曹操が安心して北伐できたのは、揚州がすでに曹操に帰順したと、判断したからだろう。もちろん、荊州や益州も、にらんだ上でだろうが。呉夫人や張紘は、曹操のために、揚州でルス番したのだ。

張紘は、孫氏が後漢のために働いたことを、明文化した。孫堅が董卓を破ったこと、孫策が長江の南部を平定したことを記し、孫権に提出した。読んだ孫権は悲しんだ。
「まことに張紘さんは、私の家のことをご存知だ」

張紘による、孫権の教育である。孫権は泣いた。浸透したようだ。
孫氏は、後漢の忠臣。だから献帝に、従順であるべきだ。孫堅や孫策の行動に、張紘が意味づけをして、孫権をみちびいた。孫堅や孫策の真意とは無関係に、孫氏は後漢の忠臣だと解釈された。
さて、注意したい。なぜ張紘は、孫氏の家族物語を、ワザワザ書いたか。書くことで、揚州の人々の認識を、操作&変更しようとしたからだ。孫氏が、後漢の忠臣であることが自明なら、ワザワザ書く必要がない。
揚州の人々の認識とは、なにか。孫氏が、袁術の手先だったこと。孫堅は、全身が袁術の部将。孫策も晩年をのぞき、袁術の部将だ。この黒歴史を、消そうとした。

孫権は、張紘に部隊を任せた。張紘は、曹操に官位を受けている。だから張紘は、孫権の下に、とどまらないという意見があった。だが孫権は、そんな意見を無視した。

ちくま訳では「乃遣紘之部」を、会稽の東部都尉として派遣したことだと捉える。
ぼくは思う。東部都尉に任命したのは、曹操だ。孫権に、拒絶&許可する権利はないだろうに。陳寿は、韋昭『呉書』をもとに、張紘伝を書いただろう。だから、整合性を求めてもいいはず。すると、この「部」って、なに?


初,琅邪趙昱為廣陵太守,察紘孝廉,昱後為笮融所殺,紘甚傷憤,而力不能討。昱門戶絕滅,及紘在東部,遣主簿至琅邪設祭,並求親戚為之後,以書屬琅邪相臧宣,宣以趙宗中五歲男奉昱祀,權聞而嘉之。

はじめ琅邪の趙昱は、広陵太守となり、張紘を孝廉にあげた。

趙昱は、ニセクロさん『袁術くん、Hi!』で、袁術がもつ琅邪の人脈に位置づけられた人。陶謙から「袁術のスパイだ」として、殺された。

のちに趙昱は、笮融に殺された。張紘は、趙昱をいたんだが、笮融を討てない。張紘は主簿をおくり、琅邪で趙昱を祭らせた。張紘は、琅邪相・臧宣に手紙をおくり、趙氏の維持をたのんだ。孫権は、これを嘉した。

ちくま訳の索引で、臧宣は、ここにしか登場しない。盧弼『集解』は、ここが、がんばりどころなのに、何も注釈していない。
陶謙、呂布、曹操、袁術、劉備が、徐州をとりあった。張紘は、直接はこの戦いに関わっていない。だれとも利害関係が生じないように、江南に避難したのだから。ただ、あえて派閥&利害を想定するなら、趙昱のグループなのですね。
陶謙とは敵対し、袁術とは、やんわりつながる? 趙昱-琅邪-袁術-孫策。
趙昱が死んだあと、袁術は、呉景を広陵太守にしている。呉景とは、いま張紘が助けている、呉夫人の弟だ。つながりが、ありそうで、なさそうな、、後日考察!


及討江夏,以東部少事,命紘居守,遙領所職。孔融遺紘書曰:「聞大軍西征,足下留鎮。不有居者,誰守社稷?深固折沖,亦大勳也。無乃李廣之氣,倉發益怒,樂一當單于,以盡餘憤乎?南北並定,世將無事,孫叔投戈,絳、灌俎豆,亦在今日,但用離析,無緣會面,為愁歎耳。道直途清,相見豈複難哉?」權以紘有鎮守之勞,欲論功加賞。紘厚自挹損,不敢蒙寵,權不奪其志。每從容侍燕,微言密指,常有以規諷。

孫権が江夏を討った。会稽の東部で戦いが少ないので、張紘に会稽の守備をまかせた。張紘は、はなれて東部を治めた。

ちくま訳で「都の守備」とある。ただの会稽太守・孫権がいるところが、どうして都なものか。韋昭の原文にも、そんなこと、書いてない。
ところで会稽太守・孫権は、このとき、どこにいたの? 呉郡なのか?
原文「命紘居守,遙領所職」の意味が分からない。意味を、ツイッターで質問してみました。張紘は会稽東部都尉に残りましたか? 孫権の本拠(会稽太守の治所?)に移りましたか?と。
goushuoujiさんのツイートを引用します。
「職する所(会稽東部都尉)を遙領せしむ」ということで、遙領は任地に赴かずに官職を受けることなので、官は会稽東部都尉のままだけど、会稽東部都尉の任地にはいなかったということだと思う。でどこにいたかというと「居守」させたので孫権の本拠地。詳しいことは知らないけど、孫権伝に「会稽太守を領すれども呉に屯す」とあるので、其の状況が変わらなければ、会稽東部都尉のまま呉郡で孫権の本拠地を守っていたということだろうか。
以上、引用おわりです。ありがとうございました。

孔融は、張紘に手紙を書いた。
「戦さが終わったら、友達づきあいも、やりやすくなるよ」
孫権は張紘に、留守の褒賞を加えようとした。張紘が断ったので、孫権はあきらめた。

いま孫権は、曹操に太守を任された会稽を空けて、荊州を攻めた。会稽は、曹操の息がかかった張紘が、守った
この配置を見ると、荊州攻めは、曹操の命令で、孫権が動いたように見える。張紘が褒賞をことわったのは、「褒賞は、曹操から受けるのが正当だから」だ。孫権から褒賞をもらったら、孫権の命令で動いた意味になってしまう。
発展させまして。
曹操が北伐したとき、劉表が許都を攻められなかったのは、孫権のせいでもあるかも? 曹操が任じた、劉表を見張る番人が、孫権。
孫権が荊州をチクチクするとき、孫堅のカタキ討ちという動機は、当然にあるでしょうが。だが、あくまで私的な感情である。オマケである。
例えば。ぼくが仕事で読んだ資料で、たまたま三国志の話が出てきた。「三国志について、調べて報告して」と会社の上司に言われたとする。仕事と、私的な関心がたまたま一致して、うれしい。孫権が荊州を牽制するときの嬉しさは、これと同類である。笑
孫権に、私情に一致する、公務をあたえた曹操は、人事の達人といえる。孫権が、自分の意思で、やる気になる。

孫権は、張紘の気持ちに逆らわなかった。

張紘は、孫権の臣ではない。中央の官職をもつ、曹操とのパイプ役だ。孫権の身分を、保証してくれる人でもある。気持ちに逆らうはずがない。ぼくが通勤の信号待ちのとき、思ったことには。張紘は、のちに発生する「監軍」とおなじ役割だろうか。会社でいう、監査役。
さて盧弼は、王ハンコウをひく。(複数段落におよびます)
張紘は張昭ともに、孫策を助けた。孫権がついだとき、張紘は王官となっていた(許都にいた)が、まだ孫権に向けて発言権があった。『呉書』に、孫権の母が、張紘をたよった記事があるからだ。建安7年(202年)孫権の母が死んだ。建安12年(207年)黄祖を攻めるとき、張紘は遥領した。
建安13年(208年)9月、曹操が長江をくだってきた。黄祖は、赤壁を開戦する議論に、参加していない。黄祖を討ったあと、張紘は遠ざけられた。12月、孫権は張紘を長史にして、合肥を攻めた。このとき張昭も、べつに軍をひきいて、当塗を攻めた。すでに張紘は、長史を辞めていた。
『呉書』は、孫権が張紘を重んじたとある。だが赤壁前後を見ると、怪しい。孫権は張紘と張昭を、建前では重んじたが、本音では軽んじていた。張紘は建安17年(212年)に死ぬとき、孫権へクレームを書いた。張昭は、孫権とよく衝突した。孫権だけでなく、孫策のとき、すでに衝突の兆候があったと言えるのだ。
(以上ここまで、盧弼による王ハンコウの引用)
ぼくは思う。孫権と張紘の緊張関係を、よく言い当てていると思う。張昭と張紘は、曹操が送りこんだ目付け役である。張紘と、呉夫人はグルである。孫権が自立を目論むと、つねにジャマとなる。これはぼくの妄言でなく、盧弼以前の学者も言ったことなんだ。
孫策と張紘&張昭は、ぼくは蜜月だったと思っているが。


江表傳曰:初,權於群臣多呼其字,惟呼張昭曰張公,紘曰東部,所以重二人也。

『江表伝』はいう。はじめ孫権は、おおく郡臣をあざなで呼んだ。だが張昭を「張公」といい、張紘を「東部」と呼んだ。張昭と張紘が、重んじられていた。

いつもぼくは『江表伝』を攻撃する。でも、こういう、毒にならないが、妄想がふくらむネタは、面白いです。もっとも、ぼくが張紘なら、「私だって、張公じゃん」と、不満に思う気がするが。


次回、最終回。合肥の戦いに、張紘が反対します。