02) 張紘との連携&劣等感
『呉書』第十二より、虞翻伝をやります。
虞翻は、張紘とおなじく、孫策と孫権を、曹操に帰順させようと動いた人。張紘と対比して、見ていきます。
服喪もせず転戦し、豫章の華歆をくだす
策好馳騁遊獵,翻諫曰:「明府用烏集之眾,驅散附之士,皆得其死力,雖漢高帝不及也。至於輕出微行,從官不暇嚴,吏卒常苦之。夫君人者不重則不威,故白龍魚服,困於豫且,白自放,劉季害之,原少留意。」策曰:「君言是也。然時有所思,端坐悒悒,有裨諶草創之計,是以行耳。」
孫策は、狩猟を楽しんだ。虞翻は、孫策を諌めた。
張昭、張紘、虞翻。彼らは、孫策や孫権の「勇気ある」行動を、よく諌めている。ぼくが思うに、孫策や孫権は、みずからが君主であるという自覚がない。せいぜい部将なんだ。孫堅しかり。
例えます。重役が、社長を諌めたとする。「あなたは社長ですから、もっと経営に専念してください」と。社長は答える。「オレは、雇われ社長だ。オーナーは別にいる。仕事ばかり、やってられないよ!」と。こんな調子で自覚が足りない。
(そもそも孫策は君主でなく、史書が君主らしく飾っただけだ)
孫策は、答えた。
「虞翻の言うとおりだ。だが私は、不安に思うことがあって、じっと座っていられない。だから狩猟をするのだ」
かつて孫策は、袁術のために働いた。後漢に敵対した、前科がある。いま張紘に助けてもらい、曹操に転職しようとしている。曹操のために手柄を立てないと、転職先で、立つ瀬がなくなる。だから孫策は、焦っているのだと思う。
吳書曰:策討山越,斬其渠帥,悉令左右分行逐賊,獨騎與翻相得山中。翻問左右安在,策曰:「悉行逐賊。」翻曰:「危事也!」令策下馬:「此草深,卒有驚急,馬不及縈策,但牽之,執弓矢以步。翻善用矛,請在前行。」得平地,勸策乘馬。策曰:「卿無馬奈何?」答曰:「翻能步行,日可二百里,自征討以來,吏卒無及翻者,明府試躍馬,翻能疏步隨之。」行及大道,得一鼓吏,策取角自鳴之,部曲識聲,小大皆出,遂從周旋,平定三郡。
『呉書』はいう。孫策は、山越を討ち、渠帥を斬った。孫策は、単騎で追討をした。孫策は、虞翻と山中で会った。虞翻は「お供はいないか」と聞き、孫策の独行を責めた。虞翻は、孫策が3郡を平定する征伐に従った。
(王朗を助けるときも、父の死を無視った。孝行より時務が優先!)
孫策は、袁術のために働いてしまった前科がある。これに劣等感を持ち、焦っている。この歪みが、虞翻の性格と、通じ合ったのか。「とおく献帝を仰ぎ、揚州の秩序を回復する」という孫策の新方針に、賛同したのだろう。
江表傳曰:策討黃祖,旋軍欲過取豫章,特請翻語曰:「華子魚自有名字,然非吾敵也。加聞其戰具甚少,若不開門讓城,金鼓一震,不得無所傷害,卿便在前具宣孤意。」翻即奉命辭行,徑到郡,請被褠葛巾與(敵)相見,謂歆曰:「君自料名聲之在海內,孰與鄙郡故王府君?」歆曰:「不及也。」翻曰:「豫章資糧多少?器仗精否?士民勇果孰與鄙郡?」又曰:「不如也。」翻曰:「討逆將軍智略超世,用兵如神,前走劉揚州,君所親見,南定鄙郡,亦君所聞也。今欲守孤城,自料資糧,已知不足,不早為計,悔無及也。今大軍已次椒丘,僕便還去,明日日中迎檄不到者,與君辭矣。」翻既去,歆明旦出城,遣吏迎策。
『江表伝』はいう。孫策は黄祖を攻めたあと、豫章郡をとりたいと考えた。孫策は、虞翻に頼んだ。「豫章郡の華歆を説得し、開城させてほしい」
虞翻は華歆に説いた。「会稽郡の王朗さんと、あなた(華歆)を比べなさい。どちらが、名声や軍備で勝っているか」と。
華歆は答えた「王朗さんが上だ」と。
虞翻は云った。「孫策はつよい。劉繇に勝った。王朗さんにも勝った。華歆さんは、王朗より下を自認するなら、降伏したほうがいい」と。
華歆は、降伏した。
臣松之以為王、華二公於擾攘之時,抗猛銳之鋒,俱非所能。歆之名德,實高於朗,而江表傳述翻說華,雲「海內名聲,孰與於王」,此言非也。然王公拒戰,華逆請服,實由孫策初起,名微眾寡,故王能舉兵,豈武勝哉?策後威力轉盛,勢不可敵,華量力而止,非必用仲翔之說也。若使易地而居,亦華戰王服耳。
按吳曆載翻謂歆曰:「竊聞明府與王府君齊名中州,海內所宗,雖在東垂,常懷瞻仰
。」歆答曰:「孤不如王會稽。」翻複問:「不審豫章精兵,何如會稽?」對曰:「大不如也。」翻曰:「明府言不如王會稽,謙光之譚耳;精兵不如會稽,實如尊教。」因述孫策才略殊異,用兵之奇,歆乃答雲當去。(此說為勝也)翻出,歆遣吏迎策。二說有不同,〔此說為勝也〕。
裴松之は考える。王朗と華歆を比べたら、じつは名声は、華歆が上だった。『江表伝』で虞翻は、王朗が上だと云うが、おかしい。華歆は、軍備が不充分だから、孫策に開城したのだ。名声が、王朗を下回ったからではない。
裴松之が『呉歴』を見るに、華歆は名声ではなく、軍備の優劣だけを理由として、孫策にくだる。『呉歴』のほうが、裴松之の意見にちかい。
なぜ華歆は、孫策に降伏したか。ぼくは孫策が、献帝に転職したあとだったからだと思う。王朗は、袁術の部将・孫策を、後漢の官吏として、何としても拒む必要があった。だがいま孫策は、名目上は後漢の部将である。後漢の官吏として、華歆が拒む理由がない。
この名目の点にくわえ、孫策は、じっさい強い。ムダな戦闘で死者をつくるのは、よくない。華歆は、賢明な判断をしたのだ。
ぼくは思う。裴松之は、孫策を一貫した独立勢力(孫呉の君主)と見る。だから、孫策の変節(転職)に、気づくことができなかった。
張紘を許都に行かせた理由
策既定豫章,引軍還吳,饗賜將士,計功行賞,謂翻曰:「孤昔再至壽春,見馬日磾,及與中州士大夫會,語我東方人多才耳,但恨學問不博,語議之間,有所不及耳。孤意猶謂未耳。卿博學洽聞,故前欲令卿一詣許,交見朝士,以折中國妄語兒。卿不原行,便使子綱;恐子綱不能結兒輩舌也。」翻曰:「翻是明府家寶,而以示人,人倘留之,則去明府良佐,故前不行耳。」策笑曰:「然。」因曰:「孤有征討事,未得還府,卿複以功曹為吾蕭何,守會稽耳。」後三日,便遣翻還郡。
孫策は豫章を平定し、呉郡にもどった。孫策は、論功行賞をした。孫策は、虞翻に云った。
「むかし寿春で、私(孫策)は、馬日磾に会った。馬日磾がつれた、中原の士大夫にあった。揚州は中原に、学問で劣るといわれる。
すでに張紘を許都に送った。張紘が、中原の士大夫に、喋り負けていないか心配だ。
虞翻さんが、許都に行きたくないというから、代わりに張紘を許都に行かせたのだが。張紘では、やはり心配だったなあ」
ぼくは思う。孫策は、ひねくれた虞翻の、機嫌をとっている。
虞翻は、自分がイナカ者&次男だと心得ている。張紘は、洛陽に遊学し、おおくの人脈を中原にもつ。張紘のほうが名声がたかく、許都への使者には適任だ。だから虞翻は、張紘に代わってもらったのだと思う。
(もしくは、はじめから虞翻は候補にあがらなかった)
このロコツな経緯を述べれば、虞翻は気分が悪い。いま虞翻は、豫章をくだす手柄があった。功労者の気分を、わざわざ損ねる必要はない。孫策も、気苦労が絶えないなあ。
服喪より時務を優先する、一貫した姿勢
翻出為富春長。策薨,諸長吏並欲出赴喪,翻曰:「恐鄰縣山民或有奸變,遠委城郭,必致不虞。」因留制服行喪。諸縣皆效之,咸以安寧。
虞翻は、富春の県長となった。
張紘や張昭は、孫策から見ると、レベルがちがう知識人だ。頼りになるが、おなじ目線で付き合うことが、できない。あくまで、献帝への転職を斡旋してもらうため、義務的に付き合っている。
張紘や張昭も、孫策その人に、惚れたわけじゃない。後漢への忠誠ありきで、孫策を手段として、使っているだけ。
その点、虞翻は『易経』を学んだに違いないが、しがない次男坊だ。客に無視されるような待遇だ。孫策と、対等に付き合えたのだろう。
孫策が死んだ。
虞翻は「周囲の山民が、隙をねらっている。孫策の喪に服さず、任地にのこれ」と命じた。他県も虞翻にならった。安寧が保たれた。
吳書曰:策薨,權統事。定武中郎將暠,策之從兄也,屯烏程,整帥吏士,欲取會稽。會稽聞之,使民守城以俟嗣主之命,因令人告諭暠。
『呉書』はいう。孫策が死に、孫権がついだ。定武中郎將の孫暠は、孫策の從兄だ。孫暠は、烏程にいた。孫暠は、孫権の会稽郡を攻めようとした。虞翻が、孫暠をとどめた。
張紘も虞翻も、おなじ動きをしている。特別な理由(孫権が破滅的にバカとか)がなければ、長幼の序を守るのが、とりあえず、無難なんだ。
許都の朝廷で、張紘は曹操にたのみ、孫権に官位を認めてもらった。張紘伝で、やりました。虞翻と連動していますね。
會稽典錄載翻說暠曰:「討逆明府,不竟天年。今攝事統眾,宜在孝廉,翻已與一郡吏士,嬰城固守,必欲出一旦之命,為孝廉除害,惟執事圖之。」於是暠退。
臣松之案:此二書所說策亡之時,翻猶為功曹,與本傳不同。
『会稽典録』は、虞翻が孫暠に説いた言葉を載せる。
裴松之は考える。『呉書』と『会稽典録』を見ると、孫策が死んだとき、まだ虞翻は会稽にいる。陳寿は、富春県に出たという。虞翻の居場所が、ちがう。
曹操からの誘いを、劣等感を理由に断る
後翻州舉茂才,漢召為侍御史,曹公為司空辟,皆不就。
吳書曰:翻聞曹公辟,曰:「盜蹠欲以餘財汙良家邪?」遂拒不受。
のちに虞翻は、揚州の茂才に挙げられた。漢の侍御史となった。曹操が、司空府にまねいた。虞翻は、すべて断った。
孫呉に侍御史という官名がありそうな史料もある。
ぼくは盧弼の、膨大な引用&考察をはぶきます。なぜなら、どのみち虞翻は、侍御史に着任していないから。
ぼくは思う。侍御史といえば、張紘が曹操に任じられている。張紘と虞翻をペアにするなら、中央の官だと考えればいいと思う。そして虞翻は、中央で張り合う自信がないから、侍御史を断ったのだと思う。劣等感。
火のないところに煙は立たない。孫策が「張紘より虞翻が優れている」と世辞を云った。これは皮肉にも、虞翻が張紘に引け目を感じていたことを、間接的にあらわすと思う。
どうでもいいが。ちくま訳で「曹操が司空になると」とあるが、誤訳だ。曹操は196年にすでに司空だ。「為」の用法が、あやまって解釈されてる。
翻與少府孔融書,並示以所著易注。融答書曰:「聞延陵之理樂,睹吾子之治易,乃知東南之美者,非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物,察應寒溫,原其禍福,與神合契,可謂探賾窮通者也。」會稽東部都尉張紘又與融書曰:「虞仲翔前頗為論者所侵,美寶為質,彫摩益光,不足以損。」
虞翻は、少府の孔融に、虞翻が書いた『易経』の注釈を送った。孔融は、虞翻をほめた。会稽の東部都尉の張紘は、孔融に手紙を送り、虞翻をほめた。
次回、孫権と虞翻が、対立した理由を明らかにします。