04) 易読みのくせに、変化せず
『呉書』第十二より、虞翻伝をやります。
虞翻は、張紘とおなじく、孫策と孫権を、曹操に帰順させようと動いた人。張紘と対比して、見ていきます。
孫策と孫権を、曹操に帰順させる能吏・張紘伝
望まない国で、ただの捻くれ者に
翻嘗乘船行,與麋芳相逢,芳船上人多欲令翻自避,先驅曰:「避將軍船!」翻厲聲曰:「失忠與信,何以事君?傾人二城,而稱將軍,可乎?」芳闔戶不應而遽避之。後翻乘車行,又經芳營門,吏閉門,車不得過。翻複怒曰:「當閉反開,當開反閉,豈得事宜邪?」芳聞之,有慚色。
虞翻は、蜀漢から投稿してきた麋芳を、なじった。
「麋芳は、2つも城を失っておきながら、自分を将軍と呼ばせているのか」
「裏切り者の麋芳よ。お前は(荊州で関羽のため)城門をふさぐべきとき、城門を開けた。いま(通行したい私のため)役所の門を開けるべきとき、門をふさいだ。デタラメなことを、やってんじゃねえよ」
麋芳は、恥じた。
虞翻は、呉の孫権をけなし、魏の于禁をけなし、蜀の麋芳をけなした。虞翻の価値観を見るとき、国籍で論じてはいけなさそうだ。じゃあ、虞翻の怒りのポイントは、どこか。主君にたいする裏切りに、過剰にかみつく。
于禁や麋芳は、虞翻にとって、他人事である。孫権が、後漢を裏切ったことを、いつも怒っているんだ。ぼくはここに、虞翻の一貫性を見ます。
翻性疏直,數有酒失。權與張昭論及神仙,翻指昭曰:「彼皆死人,而語神仙,世豈有仙人(也)!」權積怒非一,遂徙翻交州。
虞翻の性格は、あらくて、まっすぐ。しばしば酒の失敗があった。
孫権と張昭が、神仙について論じた。虞翻がからかった。このように虞翻は、孫権の気分をそこねた。
虞翻は、交州にうつされた。
杭世駿は『会稽記』をひく。むかし虞翻は、緒山に登った。虞翻は、子孫に戒めた。「江北に留まれば、私たちn家は、代々たかい官位につける。しかし長江の南に渡れば、私たちの家は、さかえない」と。
ぼくは思う。『会稽記』の素性や信頼性は知りません。でも、虞翻の心が、中央政権に向かっていたことが分かる。孫権が後漢を裏切り、長江の南で建国したことは、許せない。孫呉に仕えてしまった虞氏は、代々おとろえるだろう。予言のとおり。
雖處罪放,而講學不倦,門徒常數百人。
虞翻は、罪人であったが、学問をやめなかった。数百人が、虞翻の門前に、習いにきた。
ひとつは、孫権の皇帝即位を、辺境にいるから複雑な気持ちで、お祝いする文。どうせ代筆である。虞翻を「呉臣」というカテゴリに、ムリに当てはめた創作だ。虞翻は、べつに悔いちゃいない。笑
ふたつは、虞翻による『易経』の研究。荀爽を批判してる。虞翻は、他人のミスや理解不足をあげつらい、社会全体のために、正しい解釈を示す。そういう使命感の持ち主。
転じて、ぼくは思う。虞翻が「孫権さんは後漢に従うべきだったのだ。自立するなど、ひどい勘違いだ」と伝えたいとき、どうしたか。『易経』で他人の著作をきびしく批判するときと、おなじ調子で、孫権をやっつけただろう。そりゃ、機嫌を損ねる。内容は正しくても、言い方がね。笑
虞翻の人材推挙、南での死
初,山陰丁覽,太末徐陵,或在縣吏之中,或眾所未識,翻一見之,便與友善,終成顯名。
はじめ、山陰の丁覽や、太末の徐陵は、無名だった。
『郡国志』会稽郡には、太末がある。恵棟はいう。「太」は「大」と書くべきだ。王先謙はいう。三国呉は、太末権を、東陽郡の配下にうつした。
虞翻が抜擢し、出世させてやった。
在南十餘年,年七十卒。
虞翻は、南方にうつされて10余年、70歳で死んだ。
ぼくは思う。小説である。遼東の出兵は、張昭が諌めても、止まらなかった。虞翻じゃ、とてもムリだ。孫権の度量を見せようとした『江表伝』の意図に反して、孫権をセコく見せる。
ほかに。
裴注『会稽典録』で、孫亮のとき、朱育の登用でモメる。虞翻が、いかに会稽郡がすぐれた土地か、証明した長文がある。はぶく。
吳書曰:翻雖在徙棄,心不忘國,常憂五谿宜討,以遼東海絕,聽人使來屬,尚不足取,今去人財以求馬,既非國利,又恐無獲。欲諫不敢,作表以示呂岱,岱不報,為愛憎所白,複徙蒼梧猛陵。
韋昭『呉書』はいう。虞翻は交州にうつされたが、心は孫呉を忘れなかった。つねに、五谿を討つべきだと、気にとめていた。
公孫淵と、遠距離の外交をするデメリットも、虞翻は知っていた。だがあえて孫権を諌めなかった。虞翻は、上表を呂岱に見せた。呂岱は孫権に、虞翻の意見を知らせなかった。
ただキッカケがつかめなかったか。積極的に、伏せる意図があったのか。呂岱伝を読むべきだ。ただ面倒ごとを、避けただけかな?
虞翻は、感情的な言葉に振り回され、蒼梧郡の猛陵にうつされた。
虞翻の子供たちは、後日
翻有十一子,第四子汜最知名,永安初,從選曹郎為散騎中常侍,後為監軍使者,討扶嚴,病卒。汜弟忠,宜都太守。聳,越騎校尉,累遷廷尉,湘東、河間太守。昺,廷尉尚書,濟陰太守。
翻には、11人の子があった。4番目の子・虞汜は、もっとも名を知られた。永安の初年(258年、孫亮の世)選曹郎から、散騎中常侍となった。のちに監軍使者となった。扶嚴を討伐し、病没した。
虞汜の弟・虞忠は、宜都太守となった。その弟・虞聳は、越騎校尉となり、かさねて廷尉、湘東太守、河間太守となった。その弟・虞昺は、廷尉尚書となり、濟陰太守となった。
おわりに
虞翻は『易経』の学者である。『易経』を、心ある人が英訳すると『ブック・オブ・チェンジ』です。変化を説いた本です。
変化の原理を知っているから、未来を読むことができる。ほんとうに可能だとしたら、すごいこと。でも虞翻は、変化に対応しなかった。
易(易経)読みの、易(変化)知らず。
虞翻は孫権に、後漢への忠誠を期待した。変化せず、一貫して。
この人物像で、それなりに、スジが通ったと思っています。
虞翻は、性格がおかしい奇人として、ファンに認識されていると思う。孫権を中心に、記憶にのこるエピソードだけをつなげば、必然である。史料を、きちんと読めば読むほど、奇人のイメージが強まると思う。
だが虞翻は、必ずしも、それだけではない。
史料の外部にある虞翻。張紘をヒントに、構成してみました。101028