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『資治通鑑』論賛を読む 2)孫策から曹丕まで
199年 虞翻の脅迫
■史実の教材
199年12月、孫策は豫章郡を攻めた。虞翻は、豫章太守の華歆を口説き落としに行った。
「華歆さん、あなたは王朗と並び証された立派な人だ。私は遠方で、あなたを尊敬してきました」
虞翻の賞賛を、華歆は首を横に振った。
「いいえ、私は王朗には及びません」
「あなたが治めている豫章郡の軍備は、王朗が治めた会稽郡と比べて、いかがですか」
「やはり、全然ダメです」
虞翻は、華歆を脅しつけた。
あなたの人物が、王朗に及ばないというのは、謙遜です。しかし、豫章郡が会稽郡に及ばないというのは、事実だ。孫策は強い。会稽郡ですら、一瞬で落とした。豫章郡など、風前のゴミだ。降伏せよ」
華歆は諦めて、庶民の服装で孫策を迎え入れた。孫策は、華歆を上客として扱った。

■論賛の教訓
孫盛(「華歆伝」注)曰く。
華歆は大きな罪を犯した。高尚な人格を捨て、漢室への忠操を失い、虞翻に騙されて、放埓の徒(孫策)に手を貸した。最悪だ。
華歆はこのあと、曹操のところに帰ります。これがせめてもの罪滅ぼしに、、、ならないか(笑)
王朗と並び証されたことが、どれほど名誉だろうかね。劉繇あたりも、すごい名声の持ち主だった。孫策に負けた人たちは、どうも脇役くさくなる。

208年 長阪逃避行
■史実の教材
曹操に追われて、荊州を南下する劉備。ある人が忠告した。
「早く江陵を確保すべきです。武装している兵は僅かですから、このままでは曹操軍を防げません」
大業を成し遂げるとき、根本は人だ。付き従った人を無慈悲に捨てて、どうして先に行くことができるのか」
これが劉備の答えだった。

■論賛の教訓
習サク歯(「先主伝」注)曰く。
劉備は信義を明らかにし、劉表の遺言を守った。義を大切にして、共に敗れることにも甘んじた。大業を成し遂げたのは、もっともだ。
『三国志』からの引用は、わざわざ『資治通鑑』を参照しなくても読める。司馬光の意見を聞かせてほしいものだ。
212年 荀彧の死
■史実の教材
212年10月、董昭が言った。
「曹操は魏王となり、九錫を受けるべきだ」
荀彧がこれに反対したので、曹操は疎ましく思った。荀彧は寿春で、薬を飲んで死んだ。時の人は、みなこれを惜しんだ。

■論賛の教訓
孔子は「仁」を重視した。だから孔子の人に対する評価は辛かったが、管仲だけは認めた。斉ノ桓公はイヌやブタのような人だったが、管仲は、
「桓公でなければ、生民を救えない」
と思っていたから、補佐をした。これが「仁」である。
荀彧は管仲と同じである。もし曹操がイヌやブタであっても、民を救うためには、最も優れた君主だった。
荀彧の時代は、管仲のときより乱れていた。荀彧は曹操を助けて、天下の80%を治めた。彼の功績は、管仲に決して劣らない。
杜牧は荀彧を批判した。
「荀彧は曹操をさんざん助けておきながら、いざ曹操が魏王になろうとしたら、漢に名声を求めた。盗賊に協力して壁を壊し、宝箱の開け方を教えておきながら、一緒に運び出さなかった。荀彧の生き方はこれと同じであり、盗賊の一味であることに変わりない」
この批判は、間違っている。
もし曹操が皇帝になっていれば、荀彧は元勲として史書に記され、蕭何と同じように賞されたはずだ。結果から遡って荀彧を責めるのは、実情に合わない。
こんなに面白い論賛は初めて。教訓が何もなく、ただ荀彧の評価について、司馬光が口を出しておきたかったらしい。
219年 周ノ文王になろう
■史実の教材
219年12月、曹操は孫権を驃騎将軍とし、持節・荊州刺史・南昌侯とした。孫権は「臣」と自称して、禅譲を勧めた。
「あのガキは、オレを火の上に座らせようとするのか」
と曹操が苦笑いすると、陳羣らが口を揃えた。
「漢はとっくに天命が尽きています。孫権が臣と言ってきたのは、あなたが天に感応したからです。皇帝になって下さい」
「もし天命がオレにあるなら、周ノ文王になってやろう」

■論賛の教訓
後漢は、4代和帝以降は腐っていた。
袁安・楊震・李固・杜喬・陳蕃・李膺が公卿・大夫として支えた。符融・郭泰・范滂・許劭が、布衣(在野)の士として補った。だから風俗は衰えなかった。
光武帝・明帝・章帝の遺風は去っておらず、もし後漢に名君が再登場すれば、漢はどれだけ続くか、量ることが出来なかっただろう。だから、割拠した侵略者も、漢の復興を口にした。
曹操は簒奪の心があったが、初めの3帝の教化と風俗が残っていたので、我慢をしたのである。
ここでは省略しましたが、司馬光は、どれだけ光武帝たちが偉業をなしたか、改めて論じています。
221年 蜀帝・劉備の正統性
■史実の教材
221年4月6日、劉備は武担山の南で皇帝になった。大赦をし、年号を章武と改めた。諸葛亮を丞相とし、許靖を司徒とした。

■司馬光の意見
天は人民を作った。天は人民を直接治められないから、君主に治めさせた。もし暴虐を抑えて、人々の生活を保護できるならば、その者を君主と称しても良いだろう。
劉備に皇帝と同じ役割が果たせるなら、皇帝を名乗っても良い。司馬光はそっちに意見を運びたいようだ。

先史時代は、領土と領民を持つ人を、全て「君」と呼んだ。
数多くの君を束ね、法律を定めて号令する人を、「王」と言った。徳の衰えた王を束ねる人を、「天子」と言った。天子に仕えることが出来た人を、「覇者」と呼んだ。
長い歴史の中では、天子が存在しない時代も多かった。
漢の学者は五徳の話を持ち出して、秦について論じた。秦は、正しい「天子」となれた国か、そうではなく天子を補佐する「覇者」にとどまったのか、意見が分かれた。正閏論の始まりである。
漢が滅び、三国が対立し、晋も五胡の騒乱で崩れた。敵対した王朝を「覇に過ぎない」と見下すことが多いが、それは自分勝手だ。万人に共通する見解とはなりえない。
私(司馬光)は、劉備が「天子」か「覇者」か分からない。
だが劉備は全土を統一していないのだから、「天子」を名乗っていても、実質を伴わない。ただし、中華と蛮夷、仁と不仁、強大と弱小などの違いがあっても、それらは古代の諸侯と変わることがない。誰が正統ということはなく、人民を治める機能を持つだけである。

「一国のみが正統」というなら、(今の)北宋は誰から天子の位を継いだのか。遡っていくと、訳が分からなくなる。
国土の位置が決め手となるなら、五胡十六国を正統と言わねばならん。道徳が決め手ならば、途中で出現した邪悪な天子をどう説明するのか。
正閏論には、大した意味がない。
私が『資治通鑑』でやりたいのは、国家の興亡を整理し、人民の喜怒哀楽を示し、読み手に善悪や損得を気づかせることだ。孔子が『春秋』で称揚や非難を行い、乱世を正そうとした先例とは、そもそも目的が違う。
とは言え、功績や事業の大きさから、王朝の一応の順番を並べることはできる。だから、どこかを強調したり差別したりせず、公平無視に出来事を並べていこう。
さて劉備は皇帝の子孫を名乗るが、血筋は怪しくて証明できない。だから、光武帝や東晋ノ元帝のように、系統を継ぐものとして書かないのだ。

司馬光は、劉備に味方も敵対もせず、編集方針を再確認するにとどまりました。『資治通鑑』の章立ての基準として、国土の広さをメイン指標としますよ、と言っただけだ。
221年 曹丕が于禁を虐める
■史実の教材
捕虜となった于禁が、呉から返還された。
ヒゲも髪も真っ白となり、痩せ衰えた容貌で、曹丕に泣きながら平伏した。曹丕は于禁を慰め、安遠将軍に任命して、鄴で墓参りをさせた。
曹丕が描かせた屈辱的な絵を見て、于禁は病死した。

■司馬光の意見
曹丕は于禁を罷免しても良いし、殺しても良かった。しかしわざわざ辱しめたのだから、君主の行いではない。
曹操と曹丕に批判的な『三国志』の所注だけを選び、司馬光はクドいくらいに引いています。司馬光は、曹操・曹丕のことが嫌いらしい。曹操の野心、曹丕の狭量などが批判対象です。
さっきの正閏論でも、国土の広さを基準にして、天子として章立てして良い王朝として、「秦漢晋」と言っている。魏が数に入っていない。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
>三国志を考察する
『資治通鑑』論賛を読む
1)順帝から呂布まで
2)孫策から曹丕まで
3)曹叡から司馬炎まで
4)懐帝から愍帝まで