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『資治通鑑』論賛を読む
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3)曹叡から司馬炎まで
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237年 魏の査定制度
■史実の教材
曹叡は、信念を持たず、世評を聞いてはコロコロ意見を変える人を嫌った。そこで、吏部尚書の盧毓に、詔書を作らせた。
「世評が高いからと言って、その人物を用いてはいけない。名声など、大地に描いたモチのようなものだ」
盧毓は言った。
「世評が全てではありません。しかし名声がある人は、少なくとも平均以上の善行が出来る人です。名声では判断が付かない部分は、実績にて見極めたら良いのです」
曹叡はこれを聞き入れ、新しい考課法を作らせた。
すると、司隷校尉の崔林が言った。
「周代の考課は完璧でしたが、現代では使えません。遠征があれば多忙になり、遠征がないとヒマです。部署によっても、忙しさが違います。決まった基準を適応して、査定をするのは難しい。そもそも高官が立派ならば、下官は自然と励み、不仁の人は去るでしょう。査定をやる・やらないという議論そのものがムダです」
黄門侍郎の杜恕が述べた。
「長いスパンで人物の働きを評価しようというのは、明徳の帝王の仕事です。すごい。しかし、理想的な考課制度は前例がありません。また評価活動は人間が行うのですから、運用が難しい。だいいち考課を厳密にやったから、世が治まるものでもありません」
司空掾の傅嘏が述べた。
「公平な考課は、大いに結構です。しかし、国家の大計も立てぬ内から、細かな評価制度を作っても、意味がありません。賢者と愚人の区別を付けるだけで、もう充分でしょう」
長い議論が行われ、ついに考課制度は中止になった。
■司馬光の意見
人を用いることは政治の要点だが、古代の聖人すら苦しんだことだ。感情が入り込むから、基準が作れない。
だが重要なのは、上に立つ人が公明正大であるということだ。部下の優劣も、自然と分かってくるだろう。自分の心を治められない人が、部下を治められるわけがない。
専門職を募るなら、知識や能力を調べればいい。ある人は「君主は忙しい。何万人という人の評価に、時間など割いていられるか」と言った。そのとおりだ。
曹叡は古代に倣い、長期的な視野で人物を評価しようとしたようだが、無理な話だ。短期間で成果が求められ、転属も盛んな魏代において、そんな悠長な制度は機能しない。
今の会社にも通じる話です。
人が人を裁くことは出来ない。人が裁けるのは、その人がやった仕事だけだ。「ある期間の仕事の成果と、長期的なその人の成長を、分割して別々に評価しましょう」というのが、いちおう妥当な人事評価の仕方らしい。理屈は合ってるかも知れんが、そんなこと出来るのか(笑)
266年 司馬昭の服喪
■教材の史実
266年6月、司馬昭の喪のとき、家臣・人民は3日で喪を終えた。埋葬が済むと、司馬炎も喪を除いたが、白い冠・粗末な食事を続けて、あたかも喪を続けているようであった。
8月、崇陽陵(司馬昭の墓)に参拝しようとした。家臣は止めた。
「残暑が厳しく、健康を損なわれませんか」
司馬炎は云った。
「参拝できたら、健康も気分も自然と良くなるよ」
また、詔書を下した。
「漢の文帝は、自分の喪の期間を短縮させた。これは、帝王として民の便宜を図った、控えめな心遣いだ。我が父・晋ノ文帝(司馬昭)の喪も短縮されたが、いま私は陵墓に参るのだから、喪の恰好を省いたままではいかん」
尚書令の裴秀が云った。
「あなたはすでに喪服を脱がれた。再度着用する理由がありません。また、皇帝であるあなたが喪服を着たら、臣下だけが喪服を脱いでいられない。せっかく服喪期間を短縮したのが無意味になります」
司馬炎は云った。
「喪服を着ないと、悲しさと死者を慕う心を表現できん。わざわざ進言してありがたいが、それでも私は喪服を着よう」
司馬炎はついに喪服を着用した。
中軍将軍の羊祜が、傅玄に行った。
「三年の服喪という元来の定めを守るなら、途中で喪服を脱いではいけない。身分が高くても、例外は許されない。とは言え、陛下(司馬炎)は、服喪期間を短縮したと言いながら、やっていることは喪中の礼だ。古代の聖王なみに、故人を悼めたことになったら良いな」
傅玄は突っぱねた。
「服喪の期間が定められて、すでに数百年経ち、ずっと守られて来なかった。たった1代が真心を表しても、聖王の時代を復活させるのは、到底無理だよ」
羊祜は諦めない。
「天下の全員がルールを守るのは無理でも、国君(司馬炎)が守るのは、良いことではないかね」
「国君のプライベートな問題として、父子の関係で礼を尽したことになるが、天下の話にはならんよ」
羊祜は、折れてしまった。
8月21日、家臣たちは奏上した。
「服装も食事のメニューも、平常のものにお戻し下さい」
「父・文帝があの世にいる姿を思うと、喪服を脱ぐことはできん。もともと司馬氏は学者の家で、代々礼を伝えてきた。どうして3年の服喪ルールを破れるか」
司馬炎は3年の喪をやりきった。
■司馬光の意見
服喪3年というのは、天子にも庶民にも普遍のルールだ。漢ノ文帝がブチ壊したが、大義を否定するものだ。以後は、漢ノ皇帝にへつらって、3年ルールを無視するバカばかりだった。
司馬炎はルールを守ったのだから、不世出の明君である。裴秀や傅玄のような連中は、漢ノ文帝以来のまちがった習慣に引きずられた意見を云っているから、残念なことだ。
司馬炎の自分への血統への理解が興味深い。皇帝というよりは、学者の家という自己認識なのだね。だが司馬炎は3年ルールを守ってない。途中で喪服を脱いでいるのだから。台無しだよ!
267年 大赦せず
■史実の教材
267年1月18日、司馬衷を皇太子にした。詔に曰く、
「太子を立てるたびに、大赦を行うのが、近年の慣例である。だが蜀は滅び、世の中は泰平に向かっている。善悪や罪刑を明確に示すべきだ。罪を犯しても、どうせ大赦で刑を逃れられるだろ、と小人が想定するのを、私は快く思わない」
大赦は行われなかった。
あるとき、司隷校尉の李憙が告発した。
「もと立進県令の劉友、前ノ尚書の山濤、中山王の司馬睦(司馬懿の甥)、尚書僕射の武陔は、官有地の稲田を盗んでいます。罰して下さい。武陔は故人ですから、諡をおとしめて下さるよう」
司馬炎は詔した。
「劉友は懲らしめよ。だが山濤は、充分に慎んでいる。すでに反省している人の罪を問うてはダメだ。しかし李憙は、立場こそ校尉に過ぎないが、国の司直である。素晴らしい働きぶりだ」
■司馬光の意見
政治の根本は、刑賞を明らかにすることだ。
司馬炎が山濤を許し、かつ李憙を褒めたのは、間違っている。もし山濤を許すなら、(山濤を咎めた)李憙を褒めてはいけない。司馬炎こそ、刑賞を正しく行っていないのだ。
司馬炎は、身分の高い人は「もう反省したから」と許し、身分の低い人は「取り調べを厳しくせよ」と命じた。建国のときから、刑罰と褒賞が正しく行われていない。これで後代に正しい政治を伝えていくのは、とても無理というものだ。
西晋が短命で終わる理由を、司馬光は司馬炎のやり方に求めています。西晋は、学者のサロンがそのまま政治機構に移行してしまったようなところがある。だから、同意見の人と投合して研究に勤しみ、友達じゃない人に厳しい。学者の本分は、意見を批判することだ。ゆえに派閥争いが起きやすい。司馬光の云ったことは、よく当たっていると思う。
274年 父の罪をリセット
■史実の教材
274年4月、太常(宗廟の礼儀を掌る)の山濤が、吏部尚書になった。これまで山濤は、官吏の選抜を行ってきた。山濤は人物評をこっそり司馬炎の耳に入れた。山濤は必ずしも成績優秀者を推薦するのではなく、好き嫌いが入り込んだ。人はこれを「山公啓事」と呼んだ。
「嵇紹を秘書郎に用いるといいですよ」
山濤が云った。嵇紹は、父の嵇康が罪を受けたから、辞退をした。山濤は、嵇紹を諭した。
「辞退することはないよ。四季が移り変わるように、人も移り変わる。父が罪人だからと云って、君まで官途を諦めることはない」
かつて司馬昭は、諸葛恪に破れた。
「このたびの敗戦は、誰の責任だろうか」
そのように部下に問うと、王儀は答えた。
「あなた(司馬昭)の責任です」
司馬昭は怒って、王儀を斬った。
王儀の子は、父が罪を受けたことため、たびたびの召し出しに応じなかった。子は王儀の墓の側に小屋を建てて、貧しい生活をした。援助して食べ物を届けてくれる人がいたが、食べずに捨ててしまうほど、徹底して父の罪を償った。
嵇紹とは対照的であることよ。
■司馬光の意見
嵇紹が父の罪をリセットしたのは、良くない。
304年、嵇紹が司馬衷(恵帝)を命がけで守らなかったら、彼はきっと人々から批判をされていただろう。
アホな恵帝が「衣が血で汚れているので、代えたらどうですか」と云われたとき、「衣は代えぬ。だってこれは朕を守った嵇紹の血だからだ」と云った話ですね。分限を弁えず出仕した人が、美談の主人公になっちまった。
274年 服装の心理効果
■史実の教材
274年8月12日、楊皇后を葬った。司馬炎や家臣たちは、喪服を脱いで、吉服を着た。博士の陳逵が云った。
「いま服喪期間が短いのは、漢帝が始めた仮の制度です。せめて太子だけは、三年の喪を行わせるべきです。太子には、日常の仕事がないのですから」
尚書の杜預が反論した。
「上代は3年の喪をやったと云うが、埋葬した後は喪服を脱いだのが実際だった。諒闇として部屋に籠もり、3年の喪をやったことにしたのだ。周公もそうだった。太子は、喪服という装いではなく、心の中で母の死を悼めばいいんだ」
司馬炎は、杜預の意見に従った。
■司馬光の意見
円形や正方形は、自然に存在するものである。しかし凡庸な職人は、物差しやコンパスなどの道具を使わないと、円形や正方形を作図することが出来ない。
喪服も同じ理屈である。死者を悼む心を持っていれば、自然と服はボロボロになるものだ。しかし凡庸な人間は、規定にある喪服を使わないと、哀しみを表すことができない。
杜預は巧みなことを云ったが、陳逵の真心の厚い意見には敵わない。
漢代からの慣例を見直してまで、服喪期間の議論が再燃しているようで。晋が秦漢をリセットし、古代の理想に立ち返って国づくりをしようとしていたと分かります。学者が集ると、大抵はこうなる(笑)そして国が滅ぶ。。
残すは、西晋末のみです。そこで打ち止めです。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
>三国志を考察する
『資治通鑑』論賛を読む
1)順帝から呂布まで
2)孫策から曹丕まで
3)曹叡から司馬炎まで
4)懐帝から愍帝まで
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