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| 『資治通鑑』論賛を読む | 4)懐帝から愍帝まで |  
| 309年 子孫は滅びるだろう ■史実の教材
 309年3月18日、太傅の司馬越は、滎陽から洛陽に入った。
 中書監の王敦は、親しい人に言った。
 「司馬越が威権を振るっているのに、尚書の役所は、人事や文書処理を、いつもどおり行っている。司馬越の目に留まったら、必ず誅されてしまうだろう」
 懐帝は尚書に、自分の信頼する繆播や何綏
らを置いていた。
 懐帝と司馬越は対立していた。司馬越は、懐帝の息がかかった繆播や何綏を疎ましく思い、懐帝の目の前で捕えて殺した。懐帝はただ、涙を流すだけであった。
 
 何綏は、何曾の孫である。かつて何曾は、司馬炎の宴に参列した。帰って、子供たちに説いた。
 「司馬炎さんは、三国を統一なさった人だ。だが、オフのときに一緒に過ごしていても、司馬炎さんは日常の平凡なことを話すばかりで、国家経綸の計画を語らない。自分の代にしか関心がなさそうだ。司馬氏の子孫は危ないぞ。私の孫たちは、その禍いに巻き込まれるかも知れん」
 何綏が司馬越に殺されたとき、兄の何嵩が云った。
 「祖父・何曾の云うとおりになった。祖父は聖人だったか」
 
 何曾は、毎日1万銭の食費を費やし、言葉も態度も悪かった。何氏の孫たちは、同じように贅沢をしていた。
 河内郡の王尼は、何綏にもらった書簡を見てコメントした。
 「何綏の文章は無礼だ。奴は、そのうち死ぬな」
 そばの人が諌めた。
 「そんな怖ろしいことを言ってはいかん。何綏に復讐されるぞ」
 「いいや、平気だ。何綏が私の言葉を聞くころには、すでに自害した後だろう」
 果たしてその通りとなり、何曾の子孫は絶えた。
 
 ■司馬光の意見
 何曾は、司馬炎が「宵越の銭を持たぬ」という、江戸っ子みたいな人物だと見抜いていた。まことによく目が見える人だ。だが何曾自身も、僭越・奢侈であり、子孫も同じように染まった。結果、一族の断絶を招いた。
 あれだけの眼力はどこへ行ってしまったのか。
 何曾は宰相なのに、主君の過ちを放置した。家で子供たちに語っただけだから、とんだバカヤロウである。忠臣とは言えない。
 313年 懐帝を悼む
 ■史実の教材
 313年2月1日、懐帝は劉聡に殺された。
 大赦が行われた。懐帝の夫人であった、会稽郡の劉氏は、貴人の身分を与えられた。
 
 ■荀菘の追悼文
 『晋書』「懐帝紀」に曰く、
 懐帝は天性の気品が高く、幼少の頃から優れた考えを持っていた。泰平の世に生まれたら、文化を振興した皇帝だったはずだ。しかし司馬越が専権していた。欠点がないのに流浪して害に遭ってしまった。
 
 316年 西晋の滅亡
 ■干宝の西晋批判
 司馬懿は考えが深くて緻密で、城塞のような人だった。
 のちに八王の乱が起きたのは、後嗣を立てる権限を失い、後を託する補佐を失い、礼儀廉恥が衰えてしまい、その場しのぎの政治になったからだ。
 物事は基礎がしっかりしていれば、傾かない。歴代の長く続いた王朝は、仁愛の政治を行い、根を深く張ったからである。西晋はスタートが危うく、徳に優れた人物がおらず、風俗は衰えて、恥ずべきと尊ぶべきが逆転した。
 老荘の学問が盛んとなり、儒学をおとしめ、虚無放蕩な談義ばかりやった。節操のある人を狭量だとバカにして、地位さえ得れば正しさは二の次となった。職務内容は無関心だった。内容も見ずに署名だけをし、そのサボりぶりを高尚だとした。
 劉頌や傅咸は政治のあり方を論じたが、「俗吏だね」と評した。
 人の善悪を論じるときは、財貨獲得のために議論を歪めた。人を選抜するときは、官のために人を選ぶのではなく、人のために官を選んだ。ひとたび官に就くと、自分の利ばかり図った。
 代々の貴族は昇進し、資質は関係なかった。風に舞うチリのように、悠々と権力争いだけをやった。
 誰ひとり、賢人に席を譲らなかった。劉寔(子真)は嘆いて「崇譲論」を書いたが、無視された。劉頌(子雅)は、九班を制定したが、無視された。
 婦女子は婦女子の仕事をせず、感情に任せて動くのみだった。舅や姑に逆らい、妾やヨウを殺した。礼法も刑政も大いに破壊された。
 
 阮籍の行為を見たら、礼教が緩んでいる理由を知れる。ユ純と賈充の争いを見て、邪悪の多いことを知る。呉の平定のとき、互いの功績を譲らなかったこと知る。郭欽の謀計を見て、異民族に不和のあることを知る。傅玄・劉毅の意見を見て、官吏の邪悪を知る。傅咸の上書や「銭神論」を見て、賄賂の効果を知る。
 こんな調子だから、暗愚な恵帝のとき、乱が起こらない方が不思議である。懐帝は強力な家臣の護衛を必要としたし、愍帝は虚名を与えられて飼い殺された。誰が皇帝をやっても、これでは無理である。
 
 書類の中身を見ずに署名だけする。仕事よりも人の好き嫌いの方を優先する。全体善ではなく、自分の利だけを図る。
 ワタクシゴトですが、2ヶ月前に転職をしました。前にいた会社が、まさにこんな感じだった!干宝の原文を、会社の壁に貼り付けてやりたいと思った(笑)
 
 以上、三国志に関係ありそうな時代の『資治通鑑』の論賛を読んできました。
 司馬光のとき、三国時代をから教訓を引き出そうとしたら、こういう内容になったようです。ぶち壊しになるようなことを言いますが、意外に面白くなかった!
 中国の為政者に対する教えであり、21世紀の日本の若い会社員に向けてなど書いていないから、マーケティングをミスったわけじゃないと思うけど。
 『資治通鑑』の本領は、断代史たちが、編年体に再編されていることですよね。だから、ぼちぼち本文を訳して行きたいと思っております。090222
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 | このコンテンツの目次 >三国志を考察する
 『資治通鑑』論賛を読む
 1)順帝から呂布まで
 2)孫策から曹丕まで
 3)曹叡から司馬炎まで
 4)懐帝から愍帝まで
 
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