134年、周挙と張衡が、順帝を批判
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
134年夏、尚書の周挙が、順帝を批判
134年夏4月、車師後部の司馬は、後王の加特奴らをひきい、北匈奴を閶吾陸谷でフクロ叩きにした。おおいに破り、北匈奴の単于の母をとらえた。
134年5月戊戌、春も夏も日照だから、天下を大赦した。後漢の順帝は外出し、みずから德陽殿にすわり、雨乞いした。
尚書の周挙は、学問がある。順帝は、日照への対策を質問した。周挙はこたえた。「順帝は、文帝や光武帝の方法をやめ、始皇帝の方法をしてます。ゼイタクがいけません。ゼイタクを辞めねば、雨乞しても、無益です」と。
順帝は、ふたたび周挙に聞いた。「どうしたらよいか」と。周挙は答えた。「ゼイタクで、邪悪な臣下を除きなさい」と。順帝は聞いた。「だれを除けばよいか」と。
周挙は答えた。「私は中央に出てきて、機密をあずかっています。私の口から、個人名は言えません。ただし、公卿や大臣のうち、順帝に直言してくる人は、忠貞な臣下です」と。
134年夏、太史令の張衡が、順帝を批判
太史令の張衡も、順帝に上疏した。「前年に洛陽で地震がありました。順帝の政治が悪く、民衆が騒いでいるからです。『周礼』が説く8つを守れば、地震は起きません」と。
ぼくは思う。順帝の朝廷がザックバランで、皇帝への批判がしやすかったのでは、ないだろう。司馬光が、順帝への諫言を、好んで載せているはず。司馬光が想定した『資治通鑑』の読者は、皇帝である。非主流の臣下だてらに、皇帝をそとから「教育」するため、これを読ませている。
太史令の張衡は、また言った。「光武帝のあと、儒者は争って『図緯』を学んでいる。ウソばかりだから、辞めさせよう」と。
134年秋冬、ゼイタクな二公を罷免
冬, 十月,護羌校尉馬續遣兵擊良封,破之。
134年秋7月、鐘羌の良封らが、また隴西と漢陽を寇した。前の校尉・馬賢を謁者として、羌たちを鎮撫させた。
134年冬10月、護羌校尉の馬續は、良封を破った。
耿貴人數為耿氏請,帝乃紹封耿寶子箕為牟平侯。
11月壬寅、司徒の劉崎と、司空の孔扶を免じた。周挙の提案を、順帝が採用したのだ。11月乙己、大司農の黃尚を司
徒とし、光祿勳をする河東の王卓を司空とした。
耿貴人は、しばしば実家・耿氏のために、順帝にネダった。順帝は、耿寶の子・耿箕を、牟平侯とした。(つづく)