表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

136年、梁冀が洛陽令を2人殺す

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

136年、永和と改元して、事件ゼロ

孝順皇帝下永和元年(丙子,公元一三六年)
春,正月,己巳,改元,赦天下。
冬,十月,丁亥,承福殿火。十一月,丙子,太尉寵參罷。
十二月,像林蠻夷反。

136年春正月己巳、永和と改元した。天下を赦した。
136年冬10月丁亥、承福殿が燃えた。11月丙子、太尉の龐參をやめた。
12月、像林の蠻夷が、反いた。

胡三省はいう。象林県は、日南郡だ。晋宋よりあと、林邑国とした。


136年、李固が、宦官を責めた王龔をたすける

乙巳,以前司空王龔為太尉。
龔疾宦官專權,上書極言其狀。諸黃門使客誣奏龔罪;上命龔亟自實。李固奏記於 梁商曰:「王公以堅貞之操,橫為讒佞所構,眾人聞知,莫不歎栗。夫三公尊重,無詣 理訴冤之義,纖微感概,輒引分決,是以舊典不有大罪,不至重問。王公卒有它變,則 朝廷獲害賢之名,群臣無救護之節矣!語曰:『善人在患,饑不及餐。』斯其時也!」 商即言之於帝,事乃得釋。

136年12月乙巳、さきの司空・王龔が太尉となる。
王龔は、宦官の専権を、きつく批判した。宦官たちは、王龔の罪をデッチあげた。順帝は、王龔に命じた。「さっさと、申し開きをせよ」と。王龔があぶないから、李固は梁商に言った。
「王龔は、堅貞な人だ。そもそも三公は、取調べをうけないものだ。

胡三省はいう。前漢の哀帝のとき。丞相の王嘉は、廷尉に召された。主簿が言った。「将軍や大臣は、取調べに答えなくていい。廷尉は、手を引きなさい」と。

王龔のような賢者を、朝廷が傷つけたら、郡臣は順帝を見捨てるだろう。諺にある。『善人が患いたら、自分が飢えていても、飯を食っている場合でない』と。これは、今のような状況を言うのだ。急いで王龔を助けなさい」と。

李固は、順帝に直接たのまない。いつも梁商をとおす。なぜか。順帝の政策は、外戚・梁商が決めるから。順帝より梁商のほうが、人格がすぐれており、李固のアドバイスを理解する頭を持っているから。?

梁商は順帝に頼み、王龔を助けた。

136年、梁冀が、呂放の親族を皆殺す

是歲,以執金吾梁冀為河南尹。冀性嗜酒,逸游自恣,居職多縱暴非法。父商所親 客雒陽令呂放以告商,商以讓冀。

この136年。執金吾の梁冀は、河南尹になった。酒が好きで、自ままに遊び、河南尹のくせに犯罪した。梁冀の父・梁商は、洛陽令の呂放と親しい。呂放は、梁冀の犯罪を、梁商に告げた。梁商は、梁冀を叱った。

冀遣人於道刺殺放,而恐商知之,乃推疑放之怨仇, 請以放弟禹為雒陽令,使捕之;盡滅其宗、親、賓客百餘人。

梁冀は、自分をチクった呂放を殺した。梁冀は、梁商にバレるのが恐い。呂放の親族から、仇討ちを受けるのも恐い。梁冀は、呂放の弟・呂禹を洛陽令にした。梁冀は、河南尹の権限をつかい、呂禹を捕えた。呂放の親族と賓客100余人を、殺した。

胡三省は、梁冀の邪悪さをあばくため、事件の顛末や、梁冀の悪巧みを、くどくど解説している。現代日本のぼくらは、宮城谷『三国志』を読めば、充分に理解できる。少なくとも、『後漢書』に載っているとおりの、事件のあらましは。
『後漢書』の背後にある、梁冀の真実は、また考えてみたい。


136年、蛮夷に増税し、叛かれる

武陵太 守上書,以蠻夷率服,可比漢人,增其租賦。議者皆以為可。尚書令虞詡曰: 「自古聖王,不臣異俗。先帝舊典,貢稅多少,所由來久矣;今猥增之,必有怨叛。計 其所得,不償所費,必有後悔。」帝不從。澧中、漊中蠻果爭貢布非舊約,遂殺鄉吏, 舉種反。

武陵太守は言った。「蛮夷は、漢族とおなじように、従っています。増税しましょう」と。尚書令の虞詡は、言った。「増税したら、蛮夷は後漢を怨み、叛くでしょう。いまの税収すら、維持できない。かえって高くつく」と。

胡三省はいう。前漢が始まってから。武陵の蛮族は毎年、布1匹、小口2丈を納めた。これを[宗+貝]布と呼んだ。

だが順帝は、蛮族に増税した。澧中、漊中の蛮族は、納税をやめた。蛮族は、郷吏を殺して、後漢に叛いた。101125