135年、宦官の襲封、梁商の大将軍
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
135年春、宦官が爵位を、養子につがせる
135年春、北匈奴の呼衍王は、車師後部を侵した。順帝は、敦煌太守に命じ、車師後部を救わせた。敦煌太守の兵は、北匈奴に負けた。
135年2月丙子、はじめて中官(宦官)は、養子に爵位を嗣がせることが許された。順帝が皇帝にもどれたのは、宦官の力だからだ。宦官は順帝に重んじられ、政治に参加した。
言うまでもないが、曹騰の孫・曹操の登場には、この決定が必要条件だ。
御史の張綱は、上書した。「文帝や明帝のころ、宦官の常侍は、2人を越えなかった。でも今日、宦官天国である。宦官よりも、人民を愛せ」と。順帝は、上書をみず。張綱は、張皓の子である。
日照。謁者の馬賢は、鐘羌をおおいに破った。
135年夏、ひっこみ思案の過剰演出・梁商
135年夏4月甲子、太尉の施延をやめた。4月戊寅、執金吾の梁商を、大將軍とした。もと太尉の龐寵を、太尉とした。だが梁商は、病気だといい、1年も着任しない。順帝は、太常の桓焉に、梁商を宮殿に連れてこさせた。梁商は
宮殿で、大将軍に任命された。
胡三省は、杜佑をひき、後漢のとき、諸王や三公が任命を受けるマナーを載せる。宮殿に出てきて、何回手を挙げるとか、何回頭を下げるとか。へえ。
胡三省はひく。前漢の衛青よりあと、功績があって大将軍になった人で、わざわざ宮殿に呼び出された人はいない。まして梁商は、皇后の父である。梁商を、なんども呼びつけるなんて、おかしいなあ!と。
ぼくは思う。梁商の謙譲は、梁冀の暴虐を強調するために、史家が創作したか。
若くから梁商は、經傳に通じている。梁商は謙恭で、人士を好んだ。梁商は、人材を集めた。漢陽の巨覽と、上黨の陳龜を、大将軍の掾屬とした。李固は、從事中郎となった。楊倫は、長史となった。
梁商が柔和で、ひっこみ思案だ。李固は、梁商のキャラでは、思い切った改革ができないと思い、梁商にアドバイスした。
「ここ数年、災怪が起きている。孔子は言った。『災怪が起きたとき、智者は、考え方の変化を自覚する。愚者は、災怪の呼び名にとらわれる』と。梁商さんは改革をやれば、伯成とおなじく、永遠の名誉が得られるでしょう。梁商さんは外戚だが、バカな奴らと、ツルむ必要はありません」と。
順帝の政治は、うまくいかない。だから李固は、言ったのだ。「梁商さんは、思ったとおり、本質に切り込んだ改革をすればいいんだよ」と。
胡三省は『荘子』をひく。伯成子高は、唐虞(舜)のとき、諸侯になった。禹になって、朝廷を去って、野で耕した、と。ぼくは思う。李固は梁商に「改革に成功したら、快適に隠居できますよ」と言ったか。
梁商は、1年も大将軍になることを渋った。皇后の父・梁商の真意が、どこにあるか。とても興味深いが、現時点では、何も分からない。
李固は、いわゆる「清流」のハシリみたいな人物だ。李固との絡みから、梁商と李固のキャラについて妄想できたら、どんなに視界がクリアになることか。
梁商は、李固のアドバイスをもちゐず。
135年秋冬、烏桓が度遼将軍を包囲する
冬,十月,烏桓寇雲中,度遼將軍耿曄追擊,不利。十一月,烏桓圍曄於蘭池城; 發兵數千人救之,烏桓乃退。
十二月,甲寅,京師地震。
135年秋、閏8月丁亥ついたち、日食した。
135年冬10月、烏桓が雲中を寇した。度遼將軍の耿曄は、烏桓を追撃した。耿曄は、敗れた。11月、烏桓は耿曄を、蘭池城にかこんだ。
後漢は、数千人で耿曄を救った。烏桓は、ひいた。
(この原理をつかい、内政への不満を、国外に逸らす政治手法もある)
以下、ぼくの持論です。
ヒト1人でも、クニ1つでも、共通して言えることですが。各時点での、摩擦や葛藤の量は、つねに一定。ただ、差し向ける対象&配分が違うだけ。後漢の摩擦や葛藤は、国外に持ち出された。後漢末と、大きく異なる。ただし対外戦争は、中国の正史に、細かく残りにくい。本紀が短くなる。後漢、捉えにくい時代だなあ。
12月甲寅、洛陽で地震した。(つづく)