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177年、霊帝が鴻都門に人材を集める

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

177年夏、陽球が厳酷だから、罰せられる

孝靈皇帝上之下熹平六年(丁巳,公元一七七年)
春,正月,辛丑,赦天下。 夏,四月,大旱,七州蝗。
令三公條奏長吏苛酷貪污者,罷免之。平原相漁陽陽球坐嚴酷,征詣廷尉。帝以球 前為九江太守討賊有功,特赦之,拜議郎。
鮮卑寇三邊。 市賈小民有相聚為宣陵孝子者數十人,詔皆除太子捨人。

177年春正月辛丑、天下を赦した。夏4月、ひでり。7州でイナゴ。
霊帝は三公に、長吏のうち、苛酷で貪汚な人をリストアップさせ、やめた。平原相する漁陽の陽球は、嚴酷だから、廷尉にひきわたす。だが陽球は、さきに九江太守をやり、賊を討った功績がある。とくべつに赦し、陽球は議郎となる。

『考異』はいう。本伝で、司空の張ケイが、陽球をせめた。だが、張ケイは、光和元年に太尉となる。司空にならない。陽球は、光和元年、蔡邕を陥れたとき、すでに将作大匠だ。陽球が、何年に廷尉にめされたか、分からない。ただ、熹平5年と6年だけに、ひでりがある。だから、陽球の記事を、司馬光はここにおく。

鮮卑が三邊(東西北)を寇す。
市賈・小民をあつめ、宣陵の孝子となった人が、数十人いた。霊帝は、宣陵の孝子を、みな太子舎人とした。

胡三省はいう。宣陵とは、桓帝の陵墓だ。『百官志』はいう。太子舎人は、秩が2百石。宿衛したのは、三署の郎中とおなじだ。


177年秋、霊帝が鴻都門をおき、自派を形成

秋,七月,司空劉逸免,以衛尉陳球為司空。
初,帝好文學,自造《皇羲篇》五十章,因引諸生能為文賦者並待制鴻都門下。後 諸為尺牘及工書鳥篆者,皆加引召,遂至數十人。侍中祭酒樂松、賈護多引無行趣勢之 徒置其間,熹陳閭裡小事;帝甚悅之,待以不次之位;又久不親行郊廟之禮。會詔群臣 各陳政要,蔡邕上封事曰:

177年秋7月、司空の劉逸をやめ、衛尉の陳球を司空とした。
はじめ霊帝は、文學を好んだ。みずから霊帝は、《皇羲篇》50章をつくった。霊帝は、諸生のうち、文賦がうまい人を、鴻都門下にあつめた。篆書など、書道のうまい人が、数十人あつまった。

胡三省は、書体について注釈するが。いまは、はぶく。
上谷浩一氏の3論文を読み、霊帝&董卓を改革と捉える
にて以前、霊帝の鴻都門学について、サイト内でふれました。ご参照ください。

侍中祭酒の樂松と、賈護は、趣勢の徒をあつめた。霊帝は悦び、最高の待遇をした。また霊帝は郊廟之禮を、久しいこと、みずから行わず。たまたま郡臣に、政要をのべさせたとき。蔡邕は、上封した。

「夫迎氣五郊,清廟祭祀,養老辟雍,皆帝者之大業,祖宗 所祗奉也。而有司數以蕃國疏喪、宮內產生及吏卒小污,廢闕不行,忘禮敬之大,任禁 忌之書,拘信小故,以虧大典。自今齋制宜如故典,庶答風霆、災妖之異。又,古者取 士必使諸侯歲貢。孝武之世,郡舉孝廉,又有賢良、文學之選,於是名臣輩出,文武並 興。漢之得人,數路而已。夫書畫辭賦,才之小者;匡國治政,未有其能。陛下即位之 初,先涉經術,聽政餘日,觀省篇章,聊以游意當代博奕,非以為教化取士之本。而諸 生競利,作者鼎沸,其高者頗引經訓風喻之言,下則連偶俗語,有類徘優,或竊成文, 虛冒名氏。臣每受詔於盛化門,差次錄第,其未及者,亦復隨輩皆見拜擢。既加之恩, 難復收改,但守奉祿,於義已弘,不可復使治民及在州郡。昔孝宣會諸儒於石渠,章帝 集學士於白虎,通經釋義,其事優大,文武之道,所宜從之。若乃不能小善,雖有可觀, 孔子以為致遠則泥,君子固當志其大者。

蔡邕は言う。「霊帝は、郊廟之禮を、みずからやれ。古くからのルールを守らないから、災妖がおこるのだ。また、孝廉、賢良、文学のできる人材を、採用せよ。鴻都門に、趣味の腕前だけある人材を、あつめるな。儒教にかなう人材を、つかえ。これは、前漢の宣帝が石渠で、後漢の章帝が白虎で、決めたことだ」と。

又,前一切以宣陵孝子為太子捨人,臣聞孝文 皇帝制喪服三十六日,雖繼體之君,父子至親,公卿列臣受恩之重,皆屈情從制,不敢 逾越。今虛偽小人,本非骨肉,既無幸私之恩,又無祿仕之實,惻隱之心,義無所依, 至有奸軌之人通容其中。桓思皇後祖載之時,東郡有盜人妻者,亡在孝中,本縣追捕, 乃伏其辜。虛偽雜穢,難得勝言。太子官屬,宜搜選令德,豈有但取丘墓兇丑之人!其 為不祥,莫與大焉,宜遣歸田裡,以明詐偽。」書奏,帝乃親迎氣北郊及行辟雍之禮。 又詔宣陵孝子為捨人者悉改為丞、尉焉。

さらに蔡邕はいう。「桓帝の陵墓を、血縁でない人に守らせた。他人だから、職務に本気でない。だから、桓思皇后を葬るとき、東郡で盗難にあったのだ。いま、陵墓ドロボウを、太子のそばに置いてはいけない」と。
霊帝は、みずから北郊に気をむかえ、辟雍之禮をおこなった。また、宣陵の孝子から太子舎人になった人を、丞や尉に改めた。

胡三省はいう。漢代の県は、丞と尉をおく。丞は文章をつかさどり、倉と獄をみる。尉は、盗賊をとりしまる。
ぼくは思う。蔡邕の意見は、あらかた霊帝に採用された。だが霊帝は、鴻都門の人材を、やめていない。上谷氏によれば、太学の人材に、対抗させたという。


177年秋、夏育と田晏と臧旻、鮮卑に大敗す

護烏桓校尉夏育上言:「鮮卑寇邊,自春以來三十餘發,請征幽州諸郡兵出塞擊之, 一冬、二春,必能禽滅。」先是護羌校尉田晏坐事論刑,被原,欲立功自效,乃請中常 侍王甫求得為將。甫因此議遣兵與育並力討賊,帝乃拜晏為破鮮卑中郎將;大臣多有不 同,乃召百官議於朝堂。

護烏桓校尉の夏育は、上言した。「鮮卑は、辺境を寇す。今年は春から、30回以上。私に幽州の兵をつけてくれたら、1冬2春で、鮮卑を滅ぼせる」と。
これより先、護羌校尉の田晏は、罪を許されたことがある。これに、むくいたい。田晏は、中常 侍の王甫に頼んだ。「私(田晏)を、将軍にしてくれ」と。王甫は、夏育と田晏に、兵をつけた。霊帝は田晏を、破鮮卑中郎將にした。鮮卑攻めに、同意しない大臣がおおい。百官が、朝堂で議した。

蔡邕議曰:「(前略)昔段熲良將,習兵善戰,有事西羌, 猶十餘年。今育、晏才策未必過熲,鮮卑種眾不弱曩時,而虛計二載,自許有成,若禍 結兵連,豈得中休?當復征發眾人,轉運無已,是為耗竭諸夏,並力蠻夷。(中略)昔淮南王安諫伐越曰:『如使越人 蒙死以逆執事,廝輿之卒有一不備而歸者,雖得越王之首,猶為大漢羞之。』而欲以齊 民易丑虜,皇威辱外夷,就如其言,猶已危矣,況乎得失不可量邪!」

蔡邕は反対した。「かつて段熲は、良将だった。段熲は、西羌と10余年戦った。だが今回、夏育と田晏は、段熲ほどでない。むかし淮南王の劉安は、越族の討伐を諌めた。もし越王の首をとっても、漢軍に1つでもミスがあれば、皇威が傷つく。夏育と田晏に、任せられない」と。

ぼくは補う。すみません。蔡邕の議論、超!圧縮をかけました。


帝不從。八月, 遣夏育出高柳,田晏出雲中,匈奴中郎將臧旻率南單于出雁門,各將萬騎,三道出塞二 千餘里。檀石槐命三部大人各帥眾逆戰,育等大敗,喪其節傳輜重,各將數十騎奔還, 死者什七八。三將檻車征下獄,贖為庶人。

霊帝は、蔡邕をきかず。177年8月、夏育は高柳から、田晏は雲中から出撃した。匈奴中郎將の臧旻は、南單于をひきいて、雁門から出撃した。それぞれ1万騎をひきい、長城から2千里。檀石槐は、三部の大人に迎撃させた。夏育は大敗し、節傳と輜重をうしなった。それぞれ数十騎がかえっただけ。死者は、7、8割だ。夏育と田晏と臧旻は、下獄された。金を払って、庶人になった。

177年冬、遼西太守の趙苞が、母を見殺す

冬,十月,癸丑朔,日有食之。 太尉劉寬免。辛丑,京師地震。 十一月,司空陳球免。
十二月,甲寅,以太常河南孟彧為太尉。 庚辰,司徒楊賜免。 以太常陳耽為司空。

177年冬10月癸丑ついたち、日食した。太尉の劉寬をやめた。10月辛丑、京師は地震した。11月、司空の陳球をやめた。
177年12月甲寅、太常する河南の孟彧を、太尉とした。 12月庚辰、司徒の楊賜をやめた。太常の陳耽を、司空とした。

遼西太守甘陵趙苞到官,遣使迎母及妻子,垂當到郡;道經柳城,值鮮卑萬餘人入 塞寇鈔,苞母及妻子遂為所劫質,載以擊郡。苞率騎二萬與賊對陳,賊出母以示苞,苞 悲號,謂母曰:「為子無狀,欲以微祿奉養朝夕,不圖為母作禍,昔為母子,今為王臣, 義不得顧私恩,毀忠節,唯當萬死,無以塞罪。」母遙謂曰:「威豪,人各有命,何得 相顧以虧忠義,爾其勉之!」苞即時進戰,賊悉摧破,其母妻皆為所害。苞自上歸葬, 帝遣使吊慰,封鄃侯。苞葬訖,謂鄉人曰:「食祿而避難,非忠也;殺母以全義,非孝 也。如是,有何面目立於天下!」遂歐血而死。

遼西太守する甘陵の趙苞は、着任した。趙苞は、母と妻子を迎えた。母と妻子は、柳城で鮮卑に捕まった。趙苞は騎2万で、鮮卑と対陣した。趙苞は、母に言った。「朝廷で官位をもらったばかりに、母に禍いをまねいた。いま私(趙苞)は王臣だから、私恩よりも忠節をえらびます」と。母は、はるかに趙苞に言った。「忠義につとめよ」と。趙苞は、鮮卑を破った。趙苞の母と妻子は、死んだ。
朝廷は趙苞に、故郷での埋葬をゆるした。趙苞を、鄃侯とした。
同郷の人が、趙苞に言った。「公職にあって、、鮮卑を討たなければ、忠がない。母を殺して鮮卑を討てば、孝がない。趙苞は、どのツラさげて、生きているのか」と。趙苞は、歐血して死んだ。101214