01) 後漢政治史における鴻都門学
上谷浩一氏の3本の論文を要約します。自分の復習用。
論文があつかう時系列に、順にやります。
「後漢政治史における鴻都門学-霊帝期改革の再評価のために-」
「後漢中平六年の政変の構図-外戚何進の「西園軍」掌握の意味するもの-」
「董卓事跡考-「霊帝期改革」論の視点から-」
でも、話が矛盾なく、つながっているので、べつにいいかな、と。
鴻都門学の論文の結論
178年に霊帝は、鴻都門学を設置した。
皇帝直属の政策スタッフを養成するためである。
(史料で批判されるような、気まぐれの芸術学校ではない)
霊帝は、皇帝に批判的な儒家官僚に対抗できる、人材を集めた。
鴻都門学の設置は、中央軍・西園軍の創設につらなる改革である。
霊帝期改革
西園軍は、霊帝による積極的な軍制改革だ。
窪添慶文『世界歴史体系・中国2、三国~唐』1996はいう。遠心力をつよめる地方の軍事力に優越する、中央軍をつくった。
西園軍と同時期、霊帝は、鴻都門学をつくった。
鴻都門学の成立
鴻都門学は、文学や書芸の芸術学校。政治腐敗の典型例とされる。
鴻都門学の史料は2つ。内容説明と、批判記事。
内容は『後漢書』霊帝紀178年への注釈。芸術学校という。
批判は『後漢書』蔡邕伝。
177年7月、蔡邕は7項目で霊帝を批判。霊帝が、数十人を鴻都門学にあつめ、侍中祭酒の楽松、賈護を厚遇していることを責めた。
以上の2つから、鴻都門学がわかる。
霊帝は、文章や書道の能力のある人を鴻都門学にあつめた。鴻都門学の人材を、官界の中枢にすすめた。
霊帝の人事政策
徐難于『漢霊帝与漢末社会』はいう。霊帝は儒学に反発し、文学の地位を高めた。渡邉義浩「三国時代における「文学」の政治的宣揚-六朝貴族制形成史の視点から」1995『東洋史研究』54-3は、曹魏が文学をもちいて、儒学に対抗したことを云った。
鴻都門学は、太学や東観と競合した。
『後漢書』陽球伝はいう。儒家官僚の陽球は、鴻都門学の出身者が、家柄が低いと批判した。
『後漢書』楊震伝はいう。楊賜は、鴻都門学の人が、尚書や侍中になっていることを批判した。
霊帝は党錮事件で、皇帝を批判する、太学の儒家官僚を追放した。鴻都門学の人材を代わりにあて、官僚制度を維持しようとした。
『後漢書』霊帝紀180年6月に、霊帝は太学の科目をはずして、文章や書道の能力をつのった。
霊帝の人事改革は、177年の侍中寺設置、178年の鴻都門学の設置、あとの鴻都門学の出身者の登用、とつながる。霊帝は、宦官では補いきれない文章能力を、鴻都門学で要請しようとした。
霊帝期の改革の意味
霊帝が死んだので、人事改革は頓挫した。鴻都門学の人で、『後漢書』に列伝のある人はいない。
だが、曹操の唯才主義に継承された。
改革のさなか、熹平5年(176年)に霊帝は八使を派遣して、州郡を監察する計画だった。鴻都門学生の進路が、刺史や太守だった。中平5年に州牧が設置されたことからも分かる。
ぼくは、ちがうと思う。霊帝は、身銭&手塩にかけた人材では、地方まで手が回らなくなった。だから劉焉や黄琬にゆだねちゃったのだ。ぼくがアウトソースと書いたやつです。霊帝や董卓が、自力では経営を維持できなかったことは、董卓の論文にくわしい。ぼくの考察。
霊帝の軍制改革の欠陥を突いて、後漢から独立・劉焉伝
つぎは、中平六年の政変の論文にいきましょう。