表紙 > 読書録 > 上谷浩一氏の3論文を読み、霊帝&董卓を改革と捉える

03) 董卓事跡考

上谷浩一氏の3本の論文を要約します。自分の復習用。
論文があつかう時系列に、順にやります。
「後漢政治史における鴻都門学-霊帝期改革の再評価のために-
「後漢中平六年の政変の構図-外戚何進の「西園軍」掌握の意味するもの-
「董卓事跡考-「霊帝期改革」論の視点から-

霊帝は、宦官の傀儡ではない

『後漢書』が霊帝に否定的なのは、儒家官僚から、正道だと見なされなかったから。また、漢魏革命を正当化するため、史料整理のとき、霊帝のわるい部分が強調されたから。
しかし霊帝は、西園軍や侍中寺を設置し、行政を改革した。霊帝による改革の波紋は、中平六年の政変を起こした。董卓を洛陽に招いた。

董卓の「西園軍」継承

董卓は、地方の有力者だ。

上谷氏はいう。後漢は、涼州の司令官が、官兵を私兵化しないよう、短期間で交代させた。結果、ぎゃくに副将の董卓が、部隊を掌握した。

董卓は洛陽の西苑にいた。8月戊辰、何進が殺された。董卓は数万人の涼州の軍団を同行させない。車騎将軍の何苗の部隊を継承し、軍事力を確保した。

『後漢書』段熲伝に、コウ中義従が、長期の戦役を嫌がった例があると。

董卓が継承したのが、霊帝の西園軍。呉匡や張璋をふくむ。『後漢書』霊帝紀では、董卓の弟・奉車校尉の董旻は、何苗の死後、呉匡に強力した。これが8月庚午なので、董卓が少帝を保護する前日。
何進の死後、袁術と袁紹、何苗、董卓と董旻のあいだで、西園軍のうばいあいがあった

袁紹が、もっとも西園軍を獲得しやすい。上軍校尉の蹇碩と、下軍校尉の鮑鴻が死んだ。袁紹だけが、残っていたから。また太傅に袁隗、太僕に袁基がいる。
董卓は、袁氏を分断した。袁紹への対抗意識のつよい袁術を、董卓と同等の官位に任じた。董卓は、みずからが太尉・行前将軍事で、袁術を後将軍とした。

袁術については方詩銘『三国人物散論』上海古籍出版社2000を参照のこと、らしい。これは読まねばなるまい。どうやって手に入れよう、、


董卓が袁紹に勝ち、西園軍を獲得した理由は、兵士への対応に慣れていたから。袁紹は、濮陽県長をすこし務めただけ。袁紹は、兵士の心情を理解できない。
董卓は、丁原の部隊を吸収。袁術は、丁原とおなじく殺されることを恐れて、逃亡せざるをえなかった。

ぼくは思う。『資治通鑑』を見ると、袁術が逃げるタイミングが、よく分からない。東方諸侯が挙兵する直前まで、洛陽にいたようであり。
これは妄想だが、袁術は、官位をくれた董卓に、しばらく同調したんじゃないか。袁紹ははじめからロコツに董卓を嫌うが、袁隗と同じく、董卓に少しは協力した。
「董卓に加担する袁術」って、ますますファンが減りそうか。笑


呂布が董卓を殺した理由は、并州兵の弱体化

董卓のしたには、胡軫ら涼州兵と、呂布ら并州兵がいた。募兵は自分の理屈で動くから、統御しづらい。涼州兵と并州兵は、対立した。
呂布が董卓を殺した理由は、長安遷都だ。
長安では、涼州は若い新兵を補充できるが、并州の兵は、年齢的に衰えるのみ。霊帝の中平六年から、すでに十年すぎた。もとの西園軍は体力は、世代交代の時期だった。

呂布は、并州兵が主流でなくなるのを危機に感じ、董卓を殺した。
もし董卓が、今後もつづけて呂布を重んじてくれそうなら、呂布は董卓を殺さないほうがトクである。王允との同郷意識は、重要でない。
また、胡軫が個人的に気に食わないなら、胡軫だけを代えれば、呂布は気が済んだ。

盗掘と捜牢をしたのは、常備軍を維持するため

董卓が、皇帝の陵墓を盗掘し、富豪から財産を没収した理由は、募兵を維持する費用を得るためだ。財政の苦しさは、霊帝と同じだ。

董卓の盗掘は、財宝に目がくらんだものではない。189年10月に何皇后を埋葬したとき、財宝を見た。呂布に盗掘させたのは、1年以上あと。目がくらんだら、その場で盗むはずだ。
『三国志』董卓伝がひく『魏書』がいう。董卓は、不孝や不忠の罪状で、官民の財産を没収した。これも常備軍を維持するため。
貨幣を改鋳してインフレさせたのも、常備軍を維持するため。

儒家官僚を用いたのは、霊帝が禁錮を解いたのと同じ

董卓が相国になった翌月、黄琬と楊彪と荀爽を三公にした。何顒、周毖、伍瓊をさそった。趙謙や王允も用いた。儒家官僚の再起用である。
儒家官僚との関係修復は、霊帝の改革で始まっていた。黄巾のとき、党錮を解いた。中平五年9月、荀爽、鄭玄、韓融、陳紀ら14人を博士として招いた。全員に拒絶されたが。

董卓に仕えた儒家官僚は、蔡邕だ。
『後漢紀』と『続漢書』祭祀下はいう。蔡邕は初平年間、霊帝の廟号を議論した。和帝以後は、廟号はいらないと述べた。和帝から霊帝は、儒家官僚が否定したい時代だ。宦官が重用されたから。
董卓自身、革命をねらう。過去(和帝から霊帝)を否定するという、儒家官僚の利害に一致した。董卓と儒家官僚に、共闘が成立した。

ぼくは思う。上谷氏は、董卓が霊帝の政治改革を継承しつつ、霊帝の廟号はおとしめたとする。矛盾している。べつにいいけど。
禅譲とは、前代を、肯定しつつ否定するものだから。矛盾して当然だ。

のちに董卓と儒家官僚は、対立した。董卓が、常備軍を維持するため、暴走を始めたからだ。

募兵部隊をひきいつつ、儒家官僚となじむ

董卓は、募兵部隊の維持と、儒教官僚との共闘を、両立できなかった。軍事と行政を両方できたのは、曹操だ。董卓が末期になる191年、荀彧は曹操に協力を始めた。

要約し終わっての感想

今回は、上谷氏の論文を読んだだけです。疑問や反論を提出するには、到っておりません。
つぎから、ぼくが史料を読むときに、反映させてゆきます。なかで気づいたことがあれば、検証を試みます。

霊帝を改革者と位置づけ、董卓と曹操をその後継者とする。考えてみたいと思います。100713