表紙 > 読書録 > 上谷浩一氏の3論文を読み、霊帝&董卓を改革と捉える

02) 後漢中平六年の政変

上谷浩一氏の3本の論文を要約します。自分の復習用。
論文があつかう時系列に、順にやります。
「後漢政治史における鴻都門学-霊帝期改革の再評価のために-
「後漢中平六年の政変の構図-外戚何進の「西園軍」掌握の意味するもの-
「董卓事跡考-「霊帝期改革」論の視点から-

呉匡や張璋をふくむ直属部隊

何進が殺され、宦官が全滅した兵乱を、中平六年の政変という。
霊帝の軍制改革でつくられた西園軍が、後漢の洛陽を滅ぼした
これが、この論文の結論です。

『後漢書』何進伝はいう。何進の周囲に、袁紹、袁術、逢紀、何顒、荀攸らがいた。袁紹は何進に「竇武とちがい、宦官を倒せる」と説得した。清流の復権工作だ。
何進は大将軍となり、左右羽林と、五営士をひきいた。

中央の正規軍は、皇帝をまもる虎賁と羽林、洛陽城内の執金吾、宮城門内の衛尉、宮城外周の五校尉、洛陽城門の城門校尉がいる。

くわえて何進は、呉匡や張璋らの直属部隊がいた。率先して兵乱を起こしたのは、この部隊だ。霊帝が中平五年につくった西園軍である。

霊帝が私費でつくった、地方に優越する中央軍

西園軍が設立された、経緯について。霊帝は黄巾の余波をみて、中平五年に西園軍をつくった。

185年、冀州の黒山賊。涼州の北宮伯玉。186年、荊州の趙慈。187年、涼州で韓遂と馬騰と王国。幽州で張純と張挙。鮮卑や諸蛮。

188年8月、西園八校尉をおいた。霊帝は無上将軍、何進は副将軍。実戦の経験がゆたかな、屯騎校尉の鮑鵠をむかえた。
西園軍についての、先行研究。
 岡崎文夫:何進が、西園軍の設置を計画した
 鎌田重雄:霊帝のポケットマネーで、西園軍を維持した
 大庭脩:上軍校尉の蹇碩は、大将軍の何進を支配した
 石井仁:募兵を主体とする強大な常備軍、維持費が足りずに崩壊
     (蹇碩は監軍で、三国時代の軍制のさきがけ)
 窪添慶文:地方の軍事力に対抗して、中央軍を設置

西園軍は、じっさいに地方への軍事行動を実施。上軍別部司馬の趙瑾が、巴郡の板楯蛮をうつ。下軍校尉の鮑鴻が徐難の黄巾をうつ。張楊伝にある「八関都尉」にあるように、再強化をした。

劉弁&何進 vs 劉協&霊帝&蹇碩

西園軍は、蹇碩が監軍の機能をもち、何進すら統括した。
なぜ発案者の何進は、蹇碩の下に甘んじ、軍の人事がねじれたか。
霊帝が、劉協を後継者にしたかったから。
霊帝は、劉協の母・王美人が、何皇后に殺されたのを哀れんだ。霊帝は、外戚の何進&劉弁をおさえるため、蹇碩に西園軍を任せた。

霊帝の死後、何進は蹇碩を倒して、西園軍を吸収した。
何進は、都尉の毋丘毅や劉備をおくり、何進は募兵を強化した。これが、中平六年の兵乱の中核となる。

西園軍は、何進を殺した報復として、宦官を滅ぼした

なぜ宦官は、何進が西園軍を吸収することを許したか。
理由は2つ。
まず宦官が、一枚岩でないから。蹇碩は十常侍にふくまれず、新たに霊帝の寵愛をうけた人。張讓や趙忠らと、対立した。

『資治通鑑』にある。宦官とむすんだ驃騎将軍の董重は、宦官を見殺しにした。なぜか。宦官が一枚岩ではないから。董重と董太后をたすける宦官と、何進と何太后をたすける宦官に分裂していた。

つぎに、何進は宦官・郭勝が擁立した外戚だから。宦官は、何進をコントロールした。何進を通じて、宦官は清流を取りこんだつもりだった。宦官の読みが甘かったため、袁紹は何進を説得した。

何進が宦官に殺されると、西園軍は宦官に復讐した。西園軍は、何進との個人的な結びつきが強かった。

募兵を暴走させてはいけない

霊帝-蹇碩-何進の募兵部隊が暴走し、後漢を崩壊させた。
末崎澄香「中国中世の士大夫-三国西晋政治史と清談家」『東洋の知識人』1995はいう。曹操や劉備は、最後まで前線で戦った。募兵部隊がはなれ、統制が弱まるのを避けたから。曹操は、夏侯淵や曹仁の地位を固定しなかった。
曹魏の監軍機構は、西園軍の暴走を反面教師にした。

川勝「曹操軍団の構成について」はいう。募兵にある、門生故吏や任侠の結合は、個別の人間関係に左右される。「恩人の上司にも、変わらぬ忠誠を誓う」という発想はない。尽くすのは、恩人に対してだけ。だから、募兵を統御するのは、むずかしい。

暴走した西園軍による、中平六年の政変は、董卓の入洛を招きます。

つぎ最終回。董卓を、霊帝の後継者だと見なす話です。