表紙 > 人物伝 > 霊帝の軍制改革の欠陥を突いて、後漢から独立・劉焉伝

01) 宦官の都を去り、潁川で学ぶ

「蜀志」巻1より、劉焉伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

これを書く目的:史料を詳しく追った劉焉伝

今までに劉焉については、2回書いたことがあります。
劉焉は馬騰とむすび、劉協を殺して皇帝即位を狙ったという話。

3年前に書きました。ひそかに献帝討伐、劉焉伝

綿竹の劉焉は、南陽の袁術とむすび、長安を包囲したかもという話。

どちらも、劉焉伝に即して書いていません。劉焉というネタが魅力的だったから、遠巻きに眺めただけ。そこで今回、史料をくわしく参照しながら、書きます。
指摘事項としては、以下4つです。
 ● 荊州南部の田舎出身で、西方異民族の扱いもできる、辺境人
 ● 宦官の朝廷に倦み、潁川郡で、後漢への敵愾心を教育された
 ● 霊帝の軍制改革の欠点をねらい、益州を外注契約で請け負った
 ● 霊帝-何進の否定者・董卓が立てた、献帝を認めない
それでは、さっそく本題の史料へ。

前漢の魯恭王の後裔

劉焉字君郎,江夏竟陵人也,漢魯恭王之後裔,章帝元和中徙封竟陵,支庶家焉。焉少仕州郡,以宗室拜中郎,後以師祝公喪去官。

劉焉は、あざなを君郎という。

趙一清はいう。『後漢書』は「君郎」とする。陳寿と同じ。
銭大吉はいう。『華陽国志』は「君朗」とする。陳寿とちがう。
ぼくは思う。ぼくの本名は「朗」の字を使います。頻繁に「郎」と混同されます。字義はほぼ同じだし、どちらでもいいと思います。笑

江夏郡の竟陵県の人だ。前漢の、魯の恭王の後裔である。

『漢書』景帝の子・13人の王の列伝はいう。景帝には14人の男子がいた。程姫は、魯共王の劉余をうんだ。はじめ淮陽王となり、のちに魯王となった。孔子の旧宅をこわし、壁から古文の経伝を見つけた。

後漢になり、章帝の元和年間に、竟陵にうつされた。

元和とは、西暦84年-87年。
『漢書』諸侯王表はいう。王莽のとき、魯王の劉ビンは、魯公におとされた。王姓を与えられた。(迷惑なことである。笑)
『後漢書』光武帝紀はいう。建武13年(47年)劉氏の137人が、地位を復活した。魯恭王の後裔は、このとき侯に封じられた。章帝のとき、竟陵に封じられた。しかし、封地の場所は記されていない。
すでに建武2年、光武帝の兄の子・劉興が魯王になっている。ダブるのはおかしいから、竟陵は魯国ではないはずだ。
范曄『後漢書』はいう。城陽恭王の劉シが、建武11年に死んだ。永平5年、劉シの嫡子・劉平が、竟陵侯に封じられた。竟陵に2つの系統の皇族がいるのは、おかしい。この劉焉伝が、誤りなのだろうか。


献帝の正統を否定するのは、前漢の皇族である

劉焉伝の『集解』注によれば、前漢の皇族は、光武帝の子孫(後漢の皇族)に圧迫されています。記録の上で、領地がどこか分からなくなるほど、肩身がせまい。これを読み、思い至りました。
 ● 献帝を否定し、新しい皇帝になりたがるのは、前漢の皇族だ。
 ● ぎゃくに後漢の皇族は、つつましく献帝をまもる。

ここで、うっかりヒートアップして、先週、独立したページを作成。
劉焉と劉表は、帝位を称した:キーワードは「前漢の皇族」

光武帝・劉秀は、前漢の景帝の子孫です。初代の劉邦との近さ(血筋の貴さ)で見るなら、後漢皇帝と劉焉では、同じ条件です。後漢がダメなら、劉焉は、むりに後漢を維持せず、自前の王朝を作ればよい。

正確な系図はないが、霊帝や献帝より、劉焉のほうが上の世代かも知れない。後漢の皇帝は早死にするからね。それならば、劉焉のほうが、より劉邦に近くなる。貴くなる。

脱線おわり。史料に戻りましょう。

後漢の南の国境を知る男、洛陽に愛想を尽かす

支庶家焉。焉少仕州郡,以宗室拜中郎,後以師祝公喪去官。

劉焉の家系は、傍流であった。

文末の「焉」はなんだろう。ただの「。」代わりの用法か。しかし劉焉伝で、わざわざこの字を使わなくてもいいじゃん。
『御覧』は『荊州記』をひく。鄭城の崗の南に、劉長沙の墓がある。劉焉の父の墓である。その南に、漢の魏郡太守だった黄香の墓がある。
ぼくは思う。劉焉の父は、長沙太守だったか。
長沙といえば、後漢ではフロンティアである。南の不服従民の制圧を、劉焉は子供時代に体感した? 劉焉が「交州牧になりたい」と云うが、長沙と交州は、水路でつながっている! 益州牧にせよ、不服従民との対決が必至だ。後漢の国境を、劉焉はリアルに知っていた。

劉焉は、わかくして州郡に仕えた。宗室なので、中郎になった。

荊州と江夏郡とに仕えたのですね。
范曄『後漢書』劉焉伝は、「郎中」とする。銭儀吉はいう。漢の制度では、宗室は400石の役人になった。中郎は比600石で、郎中は比300石だ。(秩禄を値切られる理由はないから)中郎が正しいだろう。
羅振玉は『御覧』をひき、「中郎」が正しいとする。

のちに教師の祝公が死んだので、劉焉は喪に服し、退職した。

裴松之はいう。祝公とは、司徒の祝恬である。
『後漢書』桓帝紀はいう。延熹2年(159年)8月、光禄大夫をつとめる中山の祝恬は、司徒になった。延熹3年(160年)6月、司徒の祝恬は死んだ。
章懐注にいう。祝恬は、あざなを伯休という。盧奴の人だ。
ぼくは思う。同郷でない、北方人の祝恬に、劉焉はいつ勉強を教わったか。中郎のとき、洛陽に出たときだろうね。
劉焉が洛陽にいたとき、後漢の滅亡を予想したはずだ。梁冀が専横した。159年、梁冀が倒れたら、宦官が五侯になった。祝恬の死は口実で、ただ宦官の朝廷に愛想を尽かしただけかも? 「師が死んだから、官職を去る」は、一般的じゃない気がする。親の喪なら、退職は必須だが。


居陽城山,積學教授,舉賢良方正,辟司徒府,曆雒陽令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常。

劉焉は洛陽を去り、陽城山にいた。

『漢書』地理志はいう。潁川郡の陽城である。
『後漢書』党錮伝はいう。李膺は郷里にのがれ、陽城の山中にいた。陳寔も、陽城にいた。李膺も陳寔も、潁川郡の人である。
ぼくは思う。
潁川は、のちに名士&貴族のメッカとなる。桓帝や霊帝を好まず(ときには皇帝を殺そうとして)独自の世論を形成する人たちだ。劉焉は、親世代?の李膺や陳寔と交わり、桓帝や霊帝を批判する者として、政治的主張をインストールされたか。
劉焉の年齢は、いくつか。160年に職を去った。袁紹のひと周り、曹操のふた周りくらい年長か。同年代には、荀爽(荀彧の叔父、128ー190)がいたかな。ならば194年、劉焉は、寿命で死んだことになる。

学問をやり、賢良方正に挙げられた。司徒府に召された。雒陽令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常を歴任した。

『集解』にとくに注釈はなし。
のちに劉焉が、益州に連れ込んだ「東州兵」は、南陽の民が母体だった。南陽郡とのつながりを、指摘したくなりますね。


次回は、名場面です。州牧の設置をいいます。