表紙 > 人物伝 > 霊帝の軍制改革の欠陥を突いて、後漢から独立・劉焉伝

05) 混血の馬騰と、献帝殺害をねらう

「蜀志」巻1より、劉焉伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

劉焉は董卓と対立せず、息子は長安に健在

時焉子范為左中郎將,誕治書禦史,璋為奉車都尉,皆從獻帝在長安,

ときに劉焉の子・劉範は、左中郎將である。劉誕は、治書禦史である。劉璋は、奉車都尉である。3人の子は、献帝にしたがい、長安にいた。

よく董卓に殺されなかったなあ、と思います。董卓は、袁隗の一族ですら、殺した。袁隗には門生故吏が多いから、復讐が恐いのに。
劉焉の子は、董卓に殺されなかった。ここから、何が云えるか。劉焉は董卓に、表立って敵対しなかったことが分かる。益州平定に、忙殺されていたからだが。


英雄記曰:范(聞)父焉為益州牧,董卓所徵發,皆不至。收范兄弟三人,鎖械於郿塢,為陰獄以系之。

『英雄記』はいう。劉範の父・劉焉は、益州牧となった。董卓は劉焉から物資を徴発したが、劉焉はすべて無視った。董卓は、劉範の兄弟3人を捕まえて、郿塢に鎖でつないだ。

ウソである。袁隗ですら殺した董卓が、どうして、鎖で許してくれるだろうか。また、郿塢の使い方が間違っていると思うし。笑
『英雄記』による、ウソの上塗りである。 つまり、前にみた「董卓が趙謙に命じ、賈龍を説得して劉焉を攻めさせた」という話が浮かないように、作り話をしたのだ。
ぼくは、董卓と劉焉は、交渉がなかったと考えたい。劉焉は、李傕とは対決した。この結果からたぐり寄せ、董卓との対立を、創作したのだ。董卓の敵は、ひとりでも多いほうが、史書が盛りあがるから!


ただ、劉焉の幼子で、別部司馬をつとめる劉瑁だけは、劉焉にしたがって益州にいた。献帝は、劉璋をおくり、劉焉に和解を説いた。劉焉は、劉璋を手元にとどめ、長安に戻さない。

李傕と郭汜は、態度をゆるめ、和解の使者を送りまくった。馬日磾と趙岐である。益州には、当事者の息子である、劉璋を送ったようです。
裴注『典略』はいう。ときに劉璋は奉車都尉だった。劉璋は長安にいた。劉璋は、劉焉が病気だから見舞いたいと願った。劉焉は、劉璋を益州にとどめ置いた。


献帝を殺して正統を否定するため、馬騰と同盟する

時征西將軍馬騰屯郿而反,焉及範與騰通謀,引兵襲長安。範謀泄,奔槐裏,騰敗,退還涼州,范應時見殺,於是收誕行刑。

ときに征西将軍の馬騰は、郿にいて、李傕政権にそむいた。劉焉と劉範は、馬騰につうじた。兵を引いて、長安を襲おうとした。

劉焉は、李傕もろとも、献帝を殺すつもりだ。
ぼくは今回、書きました。劉焉は霊帝から、益州を治める外注契約をとったと。劉焉は霊帝から、牧伯に任命された。
霊帝の軍制は、何進がついだ。だが董卓は、外戚の何氏を根絶やしにして、献帝を立てた。董卓は、霊帝-何進の敵です。つまり劉焉は、献帝を否定することにより、正統の名目がたつ立場にあるのです。
董卓が、後漢を擁護したか壊したか、評価は難しい。しかし董卓が、霊帝-何進の派閥を否定したことは、間違いない。
董卓は、霊帝がつくった軍制の入れ物をついだかも知れない。兵の顔ぶれは、重なるかも知れない。だが、霊帝その人の派閥を否定したことは、動かないと思う(強調のため、同じことを、2回言ってみました)

張範の作戦は、李傕に漏れた。張範は、槐裏へ逃げた。馬騰は李傕に破れ、涼州に逃げた。張範は、殺された。劉誕も殺された。

馬騰と劉範については、「魏志」董卓伝と、范曄『後漢書』劉焉伝にくわしい。 興平元年(194年)馬騰と劉範は、李傕を誅殺するため、5000で挙兵した。失敗して、劉範と劉誕は殺された。
この劉範の行動が「勤皇」なのか「謀反」なのか、『集解』は対立する意見を引いている。ぼくの意見としては、後漢に対しては謀反。劉焉は献帝の正統を否定し、後漢を終わらせ、新しい漢王朝を作ろうとしたのだから。
「献帝のそばから、李傕を除く」なんて、屁理屈たっぷりの、分かりにくい目標ではなかったはずだ。分かりにくいと、遠隔地&混血者&単細胞の馬騰と、うまく連携できない。


英雄記曰:范從長安亡之馬騰營,從焉求兵。焉使校尉孫肇將兵往助之,敗於長安。

『英雄記』はいう。劉範は長安から去り、馬騰の陣営に逃げこんだ。劉範は、父の劉焉に、兵を求めた。劉焉は、校尉の孫肇を送った。だが孫肇は、長安で敗れた。

『華陽国志』はいう。治中従事をつとめる広漢の王商は、長安の攻撃を、きつく諌めた。劉焉が王商を無視したから、作戦が漏れ、劉範と劉誕は殺されたのだ。
ぼくは思う。王商が騒ぐから、漏れたのではないのか。王商の話から、劉焉が「李傕を殺し、献帝を助ける」を目標としていないことが分かる。王商のような、ありがちな「極諌」の士は、皇帝を攻めるときにしか、出てこない。相場で決まっている。笑
劉範の敗因が「情報漏洩」ならば、献帝の正統を認める人が、1人以上、劉範の周囲にいたことが分かる。1人いるだけで、劉範が不利になるのだから、割に合わない戦いだよなあ。皇帝殺しって。


野望に敗れた劉焉の最期、豪族争いの再発

議郎河南龐羲與焉通家,乃募將焉諸孫入蜀。時焉被天火燒城,車具蕩盡,延及民家。

議郎をつとめる河南の龐羲は、劉焉と縁つづきだ。

劉璋の長子・劉循は、龐羲の娘を妻とした。劉璋伝にある。
龐羲は、巴西太守となった。人士を好んだ。鄧芝伝にある。

劉焉の孫たちをあつめて、龐羲は蜀に入った。
ときに劉焉は、落雷で綿竹城を焼かれた。こしらえた高級車は、燃え尽きた。民家にも延焼した。

文章家が、興奮してきて、演出を過剰にしたのかな。天命を失った劉焉に、追い討ちがかかりましたよ!と。直後に死ぬから、余計に都合がいい。
陳寿『三国志』は、曹操を正統とする。そのため、献帝を正統とする。献帝にたて突いた人は、たて突いた事実すら隠されて、陰に陽に、つめたい仕打ちを受けるはずだ。劉焉が、それである。
実際は、李傕との情報戦争に負けて、敗退しただけですが。
綿竹の火災。「合理的」に解釈するなら、劉焉は、自棄になって、みずから焼き捨てたのでしょう。で、延焼した。迷惑だ!


焉徙治成都,既痛其子,又感祅災,興平元年,癰疽發背而卒。州大吏趙韙等貪璋溫仁,共上璋為益州刺史,詔書因以為監軍使者,領益州牧,以韙為征東中郎將,率眾擊劉表。

劉焉は、州治を成都にうつした。子を失った痛惜と、天からの叱責により、興平元年(194年)背中にデキモノができて死んだ。

曹仁や曹休も、敗戦すると、背中になにかデキる。自殺じゃなかろうが、よく分からない死因である。まえに書いたように、劉焉は、150年代から官界にいたようだし、老齢だったかも?

州の大吏である趙韙らは、劉璋の性格がおだやかだから、益州刺史に祭り上げた。詔書がくだり、劉璋を監軍使者とし、益州牧を領させた。

『華陽国志』では、趙韙は州帳下司馬である。
ほかに、治中従事の王商も、劉璋を支持した。王商は、許靖伝の注釈にある。っていうか『集解』は書かないが、さっき劉焉が献帝を攻めることを諌めたのが、王商でしたね。
李傕政権は、周囲に対してやさしい。劉璋は、父と同じ地位につけた。おそらく李傕に、益州まで遠征する余力がなかったのだ。だから軽々しく「牧」を与えた。
趙韙は劉璋を「刺史」にしか、推薦していないことに注意。趙韙は劉璋に、牧伯(監軍の権限)まで与えたくはなかったか。

趙韙は征東中郎將となり、兵をひきいて劉表を撃った。

劉表は、劉焉の死をチャンスだと思い、益州を攻めたらしい。ルートはどこから?


英雄記曰:焉死,子璋代為刺史。會長安拜潁川扈瑁為刺史,入漢中。荊州別駕劉闔,璋將沈彌、婁發、甘寧反,擊璋不勝,走入荊州。璋使趙韙進攻荊州,屯朐。上蠢,下如振反。

『英雄記』はいう。劉焉が死に、劉璋が刺史になった。長安から、潁川の扈瑁が、益州刺史として漢中に赴任した。

陳寿本文で、長安の李傕は、頼んでもいないのに、劉璋を牧伯にしてくれた。しかし『英雄記』では、代わりの刺史を送り込んできた。ムリに整合させ、「扈瑁が追い返されたので、李傕は、劉璋を追認した」と読む必要はないだろう。っていうか、扈氏って誰?

荊州別駕の劉闔は、劉璋を攻撃した。劉璋の部将である、沈彌、婁發、甘寧は、劉璋に反した。劉闔たちは、劉璋に負けた。荊州に逃げた。劉璋は、趙韙を荊州に進ませ、朐ジュンにとどめた。

甘寧は、あの甘寧です。朐ジュンという地名は、分かりにくいらしい。


おわりに

劉焉は、地方をおろそかにするという、霊帝の軍制改革の欠点を突いて、益州で独立しました。霊帝の死後は、劉焉王朝を建国しようとしました。でも、献帝を支持する人に秘密をバラされて、失敗しました。失意で&寿命で、死にましたとさ。
「蜀志」は、劉璋伝につづきます。100709