表紙 > 人物伝 > 霊帝の軍制改革の欠陥を突いて、後漢から独立・劉焉伝

02) 牧伯は、統治のアウトソーシング

「蜀志」巻1より、劉焉伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

牧伯をおきなさい

焉睹靈帝政治衰缺,王室多故,乃建議言:「刺史、太守,貨賂為官,割剝百姓,以致離叛。可選清名重臣以為牧伯,鎮安方夏。」

劉焉は、霊帝の政治が衰え、欠陥があるから、建言した。
「現状の地方官は、官位を売買し、百姓から税金を巻き上げているだけです。だから百姓は、後漢から離反します。金銭に清い重臣を、牧伯に任命しなさい。地方は鎮まるでしょう」

『続百官志』はいう。前漢の武帝は、刺史を13人おいた。刺史の秩禄は600石だった。前漢の成帝(前33-前7)は、刺史を牧に改めた。牧の秩禄は(太守と同じ)2000石とした。後漢の建武18年、牧でなく刺史を12人おいた。
ぼくは思う。成帝は、ほぼ外戚の王氏に政治をあずけた皇帝だ。成帝と同じことをすれば、国が滅びるのは、暗黙の常識のはず。だから光武帝は、牧をやめたはずなのに。劉焉は、それを戻せという。亡国が前提?


牧伯は、霊帝から劉焉への「外注」である

石井仁氏によれば、牧伯の設置は、霊帝の軍制改革のひとつ。今までの州刺史に「使持節、監軍」の権限をくわえて軍政支配を保証し、将軍職を兼任させたと。
ぼくは賛成です。『後漢書』霊帝紀を読めば、牧伯の設置は、西園八校尉と同じタイミング。一連の改革と見ることに、異存はありません。西園八校尉は、首都に戦乱があるという「天の気」に基づいて、置かれたらしい。益州に「天子の気」を見た劉焉と、相関がありそう。

しかしぼくは、牧伯を、霊帝みずからの改革だとは見ない。劉焉への アウトソーシングじゃないかと思う。

霊帝の心配事は、財政です。桓帝が散財したから、霊帝は金儲けに勤しんだ。売位売官は、最高の商売です。材料費ゼロ、倉庫費ゼロ、輸送費ゼロ。利益率が、超たかい。結果、霊帝は潤ったものの、劉焉が言うように、地方の百姓が疲弊した。
霊帝は、洛陽にしか目が行かない人物だ。

蓋勲に「地方の兵を中央に集めたら、地方が手薄になるでしょ」と叱られた。『資治通鑑』で読みました。お茶目だなあ。

霊帝は売位売官でたくわえた資金を、中央軍を編成するため、注ぎ込んだらしい。中央につづき、地方軍を立て直すため、さらに私財を注げば、せっかくの商売がムダになる。まして霊帝は、地方を軽く見ているから、財布の紐は固い。霊帝は困ったはずだ。

霊帝がもうけるため、官位を売る。官位を獲得するため、役人は地方から税金を搾り取る。地方が乱れる。地方を鎮圧するため、霊帝がお金を使う。悲しいスパイラルだ。
霊帝が、地方のことを考えず、商売をしてしまったツケだと思う。霊帝はアホではないのだから、解決策を求めていた。

そこにちょうど、怪しげな外注業者・劉焉が登場!
「霊帝さんの政策は、中央軍の強化において、大成功でした。すばらしい。さすが名君。しかし地方には、ご存知のとおり、課題が残っています。いいえ。心配いりません。持節と監軍の権限を分け与えるだけで、霊帝さんの財布をいためず、地方が鎮まりますよ」
と、営業をかけた。

劉焉の真意は、後漢からの独立だ。牧白=独立した王という構想かも。
漢代は郡国制といいつつ、前漢で呉楚七国の乱が起きたあと、皇族に力はない。秦代の郡県制と、ほぼ同じだと聞いています。まして劉焉は、前漢の皇族だから、後漢ではろくな領地がない。


霊帝は、牧伯の設置を認めた。「権限」というのは、皇帝だけが独占して販売できる、原価ゼロの商品。霊帝は、喜んで売りつけただろう。これで地方が鎮まれば、お得すぎる。

あとで裴注『続漢書』にある。牧伯としての、給与支給はない。前任の官位を据え置きで、肩書きと仕事だけが増えた。霊帝が、いかにシビアに人件費をケチったか、分かる。
劉焉は、べつに後漢からの俸禄がほしいのではない。後漢に公認されて、なかば独立することに狙いがある。だから、霊帝が喜びそうな制度を売り込んだのだ。しめしめと。

ビジネスでは、
外注先が、独自にノウハウを獲得して、やがて競合となるリスクは、つねに付きまとう。だから、なにを外注し、なにを自社生産するか決めるときは、値段だけでなく、政策による見極めが重要になる。
いま霊帝は、アウトソースを選んだ。自分で初期投資しなくていいし、固定費を抱え込まなくてもいい。このメリットに飛びついた。

劉焉に対して霊帝は、「後漢王朝の不利益になることはしません」と誓わせればいい。約束が守られる範囲で、劉焉は霊帝にとって、忠実な「下請け業者」となるだろう。

発注元の霊帝vs下請けの劉焉。バトルが始まったら面白かったのだが、この勝負は、霊帝の子の代に持ち越しになる。

ぼくは下世話なことを書きましたが。
『集解』がひく考察では、牧伯を建言した劉焉は「憂国の心」でなく「狼拠の策」をもっぱら抱き、、とか、中国史っぽく書いてある。笑


霊帝の方針では地方は治まらない

焉內求交阯牧,欲避世難。 議未即行,侍中廣漢董扶私謂焉曰:「京師將亂,益州分野有天子氣。」焉聞扶言,意更在益州。會益州刺史郤儉賦斂煩擾,謠言遠聞。

劉焉は、ひそかに交趾牧をねらった。劉焉は、世難を避けたい。

前ページで書きました。故郷の江夏は、交州に通じる。
さて劉焉は、潁川で名士と交わった。
現状に不満をもつ知識人は、体制破壊に走るか、隠逸君子を気取るか、2つの道がある。アウトドアとインドアだから、見かけは正反対だ。しかし根っこは共通である。容易に転じる。たとえば諸葛亮は、劉備に招かれなければ、引きこもって終わった。
劉焉が、交州牧になって逃げちゃうか、益州牧になって天下を狙うかは、気分次第である。キャラは矛盾しない。

劉焉が交趾牧に決まるまえ、侍中をつとめる広漢の董扶は、こっそり劉焉に云った。

『集解』はいう。董扶と仁安は、学問によって、ひとしく名声があった。のちの劉焉伝の注釈や、秦ヒツ伝がひく『益部耆旧伝』にある。

「益州の星宿の分野に、天子の気があります」

ここで董扶が云った「天子」は、漠然とした一般名詞でない。天子を自称する馬相という人が、すでに益州にいる。それを念頭に、董扶は発言していると思う。詳細後述。

劉焉は董扶に聞いて、益州牧をのぞんだ。

このころ益州刺史の郤倹は、税金をおもく課し、悪評が聞こえた。

裴松之はいう。郤倹は、郤正の祖父である。
ぼくは思う。郤倹は河南郡の人。つまり中央の官僚だ。郤倹は、ただの強欲ではない。霊帝の方針「地方が疲弊していいから、とにかく国家の財政再建を」に忠実だったのではないか。霊帝への不満がある地域こそ、劉焉が入り込む余地がある。劉焉は、目ざとい。
蛇足ですが。『漢晋春秋』はいう。郤正は劉禅をともない、洛陽に降伏した。劉禅が「楽しいなあ」というから、「故郷が恋しいと言いなさい」と諌めた。司馬昭に突っこまれた。
郤氏は、益州土着でなく、中央に帰りたい人なのかな。


而並州殺刺史張壹,涼州殺刺史耿鄙,焉謀得施。

郤倹が、ひどいだけではない。並州では、刺史の張益が殺された。梁州では、刺史の耿鄙が殺された。

『華陽国志』は、張益を張壹とする。『後漢書』は、張懿とする。司馬懿の諱を避けたのだろう。銭儀吉はいう。劉備の皇后の兄・呉懿でも、司馬懿の諱が避けられている。潘眉はいう。司馬氏の諱は、必ずしも避けられていない。ただの写し間違いだ。
盧弼はいう。梁州は涼州の誤りだろう。漢代に梁州はない。
耿鄙のことは、馬超伝がひく『典略』にある。耿鄙が不正な官吏を用いたため、王国や、テイ族・羌族が耿鄙を殺した。州郡は乱れたので、兵が募集された。馬騰が応募したと。
『後漢書』はいう。中平四年、涼州刺史の耿鄙は、金城の韓遂に大敗して殺された。耿鄙を殺した人がちがう。
ぼくは思う。刺史が殺されたのは、霊帝の政策の失敗を意味する。地方から、税金も軍隊も取り上げて、中央に集中させた。その反動で、刺史が殺された。牧伯の設置は、これを補う目的がある。

劉焉が提案した、牧伯は、許可された。

霊帝の思惑とはべつに、劉焉は自立への道を歩みます。さらに、後漢末から三国の分裂の原因となる。劉焉さんも、予想しない展開だろう。笑


次回、劉焉が益州に赴任します。