表紙 > 人物伝 > 霊帝の軍制改革の欠陥を突いて、後漢から独立・劉焉伝

03) 益州の董扶がもつ由緒ある学閥

「蜀志」巻1より、劉焉伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

牧伯は「皇族による、地方の建て直し」ではない

出為監軍使者,領益州牧,封陽城侯,當收儉治罪;

劉焉は洛陽をでて、監軍使者となり、益州牧を領した。

『華陽国志』はいう。漢帝は、郤倹をめして、刑を加えようとした。劉焉を監軍使として、益州牧にした。
ぼくは思う。つまり劉焉の「監軍」とは、郤倹を逮捕するための権限か。益州刺史を捕まえる権限なのだね。
章懐注はいう。任安は、監北軍使者となった。

劉焉は、陽城侯に封じられた。

劉焉が、潁川郡にいたときの地名だ。なぜ、故郷でもない地域に封じられたのか。可能性は2つ。まず、陽城は潁川ではなく、江夏郡に同じ地名がある。つぎに、劉焉は潁川郡に、ただならぬ縁故がある。
後者のほうが、話が盛り上がりそうだから、後者でいいや。笑

劉焉は、郤倹をつかまえて、罪を治めた。

潘眉はいう。霊帝が「郤倹をつかまえろ」と命じただけで、実現していない。なぜなら郤倹は、馬相に殺されてしまったから。郤正伝には、盗賊に殺されたとある。
どちらにせよ、益州を治める方針が転換された。霊帝の手足として、金を巻き上げる人では、益州は治まらない。劉焉が、いかに治安の悪い土地を、腕1本でまとめるか。経営の手腕が、期待されている。


續漢書曰:是時用劉虞為幽州,劉焉為益州,劉表為荊州,賈琮為冀州。虞等皆海內清名之士,或從列卿尚書以選為牧伯,各以本秩居任。舊典:傳車參駕,施赤為帷裳。

續漢書はいう。このとき、劉虞は幽州に、劉焉は益州に、劉表は荊州に、賈琮は冀州に、牧として赴任した。

『後漢書』に賈琮伝がある。東郡の人。交趾の叛乱を鎮め、黄巾でも功績あり。合浦太守、冀州刺史。
ぼくは思う。たまたま劉虞と劉焉が任命されたが、皇族だから優先して選ばれたのではない。ただ有能な役人として、選ばれただけだ。劉焉の官歴は、華々しい。その証拠に、冀州牧に賈琮、豫州牧に黄琬がついた。霊帝は「皇族を用いた、王朝の建て直し」を狙ったのではない
さらに。劉焉は前漢の皇族で、劉虞は後漢の皇族である。血筋が違うし、劉焉と劉虞が交流した記録がない。劉虞は北の人で、劉焉は南の人だ。一枚岩ではない。また劉表は、下にあるとおり、霊帝によって牧に封じられたのではない。
ちなみに。のちに劉表は、荊州牧になるものの、劉焉とは不仲。もし霊帝が「皇族が協力すれば、地方が固まるはず」という構想したなら、暗君率が100%である。そんなことは、ないのだ。笑

劉虞らは、みな海内で清名之士である。列卿や尚書から、選出された。もとのサラリーのまま、牧伯となった。舊典どおり、3匹の馬がひく、赤い幕の車にのった。

たとえば。いままで1つの部門を管轄していて、年収900万。新たに3つの部門の責任を負ったのに、年収900万。もともと「それなり」に年収が高いから、仕事を増やしても文句はないだろ、と。雇用者の理屈。


臣松之按:靈帝崩後,義軍起,孫堅殺荊州刺史王叡,然後劉表為荊州,不與焉同時也。

裴松之はいう。劉表は、劉焉と同時の任命ではない。孫権が、荊州刺史の王叡を殺したあと、任命された。

趙一清はいう。『後漢書』は、太僕の黄琬が、豫州牧になったとする。劉表の記述はない。劉表伝を見れば、李傕と郭汜が、劉表を荊州牧にしたとある。裴注にくわしい。
ぼくは、趙一清と同じ認識です。にしても、劉表が就任したタイミングは、分かりにくい。古代の史家すら、間違えるほど。


漢靈帝紀曰:帝引見焉,宣示方略,加以賞賜,敕焉為益州刺史。前刺史劉雋、郤儉皆貪殘放濫,取受狼籍,元元無聊,呼嗟充野,焉到便收攝行法,以示萬姓,勿令漏露,使癰疽決潰,為國生梗。焉受命而行,以道路不通,住荊州東界。

『漢靈帝紀』はいう。霊帝は劉焉に面会し、益州刺史にした。
「劉焉さん。前任の益州刺史だった劉雋、郤儉は、財物をむさぼった。益州の治安がヤバいから、よろしく」
劉焉は出発したが、益州への道路が通じない。劉焉は、荊州との東境にとどまった。

『集解』は、誤りが多いとして、サジを投げた。
ぼくは思う。あれだけ牧伯の設置について、議論させておいて、「劉焉を益州刺史にした」と書かれては、徒労感がたっぷりだ。霊帝が劉焉に、直接に言葉をかけるシーンを、書きたかっただけだろう。「ありそうな」セリフを創作して。
しかし、益州に入れなかったというのは、面白い。霊帝の使者を拒むとは、この時点ですでに、後漢から独立しているじゃないか。劉焉は、ゼロから益州を平定しなおす覚悟で、赴任したのかも。
益州に「攻めこむ」ため、劉焉が南陽で兵を募ったとか、妄想すると面白いですね。故郷の江夏郡からも、人を募ったとか。


劉焉を益州に招いた、董扶のがわの事情

扶亦求為蜀郡西部屬國都尉,及太倉令會巴西趙韙去官,俱隨焉。

董扶は、蜀郡の西部属國都尉となった。

『続漢志』『百官志』はいう。建武6年、諸郡の都尉をはぶいた。ただ辺境の郡にだけ、都尉と属国都尉をおいた。蜀郡は辺境だから、都尉と属国都尉が設置された。
『後漢書』西南夷伝はいう。前漢の武帝のとき、天漢四年、沈黎郡を蜀郡にあわせ、蜀郡の西部とした。西部に2人の都尉をおいた。霊帝のとき蜀郡属国を、漢嘉郡とした。
盧弼はいう。蜀郡西部都尉は、漢嘉郡に置き換えたはずなのに、いま董扶は着任した。なぜか。もともと都尉は2人いた。1人の管轄地域は漢嘉郡となり、もう1人の管轄地域は、西部都尉のまま、残っていたのだ。
ぼくが確認したいのは、蜀郡は、平時においても都尉が置かれるほど、軍事的に緊張したフロンティアだということ。学者の董扶が、わざわざ自ら望み、軍官のポジションに就くほど、治安が悪い。

太倉令をつとめる巴西の趙韙は、官位を去り、劉焉にしたがった。

『続百官志』はいう。太倉令は、定員1名。郡国の物資を管理する仕事で、大司農の部下である。
銭大昕はいう。『華陽国志』には「會」の文字がない。余計な文字だろう。ぼくは訳から、はぶきました。
ネタバレをしますと。劉焉の死後、三男の劉璋をえらぶのは、この趙韙だ。劉表への攻撃を担当する。のちに益州の利害を代表してか、劉璋にそむく。つまり、在地の超有力者ということだ。
いま劉焉は、在地の豪族に、治安回復を期待されたことが分かる。期待したから、趙韙は(あまり価値のない)霊帝から授かった職務を捨てた。


陳壽益部耆舊傳曰:董扶字茂安。少從師學,兼通數經,善歐陽尚書,又事聘士楊厚,究極圖讖。遂至京師,遊覽太學,還家講授,弟子自遠而至。

陳壽の記した『益部耆舊傳』はいう。

『集解』は書名にたっぷり注釈するが、また後日!

董扶は、あざなを茂安という。『歐陽尚書』のプロだ。

『漢書』芸文志、儒林伝を参照。歐陽氏による研究書。董扶が学問にすぐれ、学問がらみで、人脈が豊かなことを確認できれば、今日の目的は達成です。劉焉を益州に迎えたのは、一大学閥の人脈なんだと。

董扶は、楊厚から圖讖を習って、マスターした。

楊厚は、秦ヒツ伝がひく『益部耆旧伝』にみえる。范曄『後漢書』に楊厚伝がたつ。楊厚は、あざなを仲桓という。益州の広漢郡の新都県の人。祖父の楊春卿は、図讖が得意だった。漢兵をひきいて、公孫述の蜀を平定した。楊春卿は、自殺した。・・・時代が合うのか?
楊春卿の子(楊厚の父)は、楊統という。楊統は、楊厚に云った。「父の喪中に、私は先祖から、図讖の秘術を教わった。漢家のために、図讖を活用しろ」と。楊厚は幼いうちから、図讖を学んだ。楊統が死ぬと、郷土の人は楊統を「文父」と呼んで、廟を建てた。
ぼくは思う。
なんか神秘がかってますが。公孫述の時代から、蜀地方に伝わる図讖を、董扶が継いでいたという話。
董扶が「天子の気が、益州にある」といい、劉焉が招かれた。劉焉ならば(公孫述にできなかった)蜀での独立ができるという、作為的な建国神話が、漏れ伝わったか。もしくは劉備のとき、つくられた神話か。
楊統のセリフに「漢家のため」とあるが、後漢のためではなさそう。なぜなら、後漢のために働いた楊春卿は、自殺に追い込まれた。つまり益州の図讖は、後漢に代わる「漢王朝」を建てろと、暗に訴えているのか。劉焉王朝もしくは劉備王朝を、神秘的な予言によって、支援しているのだ。

董扶は、洛陽の太学にいった。弟子が遠くからあつまった。

『後漢書』方述伝はいう。董扶は綿竹の人だ。同郷の任安と、名声を等しくした。任安は、楊厚に学んだときの同窓だ。
ぼくは思う。劉焉はのちに、綿竹に州治をおく。董扶や任安を中心とした、学問の人脈に、支配を支えられた証拠だろう。


永康元年,日有蝕之,詔舉賢良方正之士,策問得失。左馮翊趙謙等舉扶,扶以病不詣,遙於長安上封事,遂稱疾篤歸家。前後宰府十辟,公車三徵,再舉賢良方正、博士、有道皆不就,名稱尤重。大將軍何進表薦扶曰:「資游、夏之德,述孔氏之風,內懷焦、董消複之術。方今並、涼騷擾,西戎蠢叛,宜敕公車特召,待以異禮,諮謀奇策。」於是靈帝徵扶,即拜侍中。在朝稱為儒宗,甚見器重。求為蜀郡屬國都尉。扶出一歲而靈帝崩,天下大亂。後去官,年八十二卒於家。始扶發辭抗論,益部少雙,故號曰(致止)〔至止〕,言人莫能當,所至而談止也。後丞相諸葛亮問秦宓以扶所長,宓曰:「董扶褒秋毫之善,貶纖芥之惡。」

永康元年(167年)日食した。賢良方正な人士をあげ、日食を議論させた。左馮翊の趙謙らは、董扶をあげた。

『後漢書』趙典伝はいう。趙典は、あざなを仲経という。蜀郡の成都のひと。趙典の兄の子は、趙謙である。趙謙は、あざなを彦信という。初平元年(190年)黄琬に代わって太尉となった。
ぼくは思う。趙謙は、董卓に任用された、益州人だ。『英雄記』では、董卓が趙謙に命じ、劉焉を攻めさせた。この記述はつじつまが合わないが(後述)益州の人脈につらなり、中央に通じた人だとは、確認したい。

董扶は、何度も何度も、お召しを断った。
大将軍の何進は、董扶を推薦した。
「并州と涼州は、騷擾しています。西方異民族は、後漢に従いません。特別待遇でもいいですから、董扶のアイディアを借りましょう」

西方異民族の抑えとして、益州の人材を用いる。霊帝&何進政権の考え方が面白い。益州の人なら、フロンティアの人(田舎者)だから、異民族との付き合いが得意だろうと。

霊帝は、董扶を侍中にした。董扶は洛陽で「儒宗」と呼ばれて、尊敬をうけた。だが董扶は、蜀郡の屬國都尉を望んだ。

地方を軽んじる霊帝政権に、董扶は愛想を尽かし、故郷に帰りたがった。劉焉のような、①役人として有能で、②後漢の体制に反発し、③劉氏だから王朝を建てられる人材は、董扶にとって魅力である。

董扶が洛陽を去って1年。霊帝が死に、天下は大いに乱れた。董扶は82歳で、家で死んだ。董扶に議論でかなう人はいなかった。
諸葛亮は秦宓に、董扶の長所を聞いた。秦宓のこたえ。
「董扶は、小さなことでも褒め、小さなことでも責めます」

何焯はいう。趙岐『孟子注』に、孔子の性質として、まったく同じ文がある。恵棟はいう。謝承『後漢書』は、李咸の上奏を載せる。「春秋の義では(以下同じ文)」
ぼくは思う。中国の知識人なら、全員がご存知の、定型文だ。諸葛亮は、秦宓から何も新しい情報を得られていない。それより、諸葛亮が、占領地の旧名士として、董扶のことが気になったことが重要でしょうね。


次回、董扶に助けられ、劉焉が益州平定戦をやります。