表紙 > 人物伝 > 霊帝の軍制改革の欠陥を突いて、後漢から独立・劉焉伝

04) 馬相に代わり、綿竹で天子に

「蜀志」巻1より、劉焉伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

劉焉が招かれたのは、益州の天子・馬相を倒すため

是時涼州逆賊馬相、趙祗等於綿竹縣自號黃巾,合聚疲役之民,一二日中得數千人,先殺綿竹令李升,吏民翕集,合萬餘人,便前破雒縣,攻益州殺儉,又到蜀郡、犍為,旬月之間,破壞三郡。相自稱天子,眾以萬數。

このとき涼州に逆賊がいた。馬相、趙祗らである。

潘眉はいう。『後漢書』では、益州の賊だ。涼州は、誤りだ。
ぼくは思う。「このとき」というのが、いつなのか分からない。
おそらく董扶が、劉焉を益州にさそう前に、馬相が蜂起していた。史書では、横に並べて2つの文を書けない。だから叛乱が起きたのが、劉焉の任命より、あとみたいになっているが。
さきに、董扶の故郷・綿竹を中心に、益州が後漢から離反した。離反をうけ、あとから、監軍の権限をもつ予定の劉焉を招いた。劉焉は、馬相討伐という仕事を理解した上で、南陽の兵をつれて、赴任した。前後&因果関係は、こちらが正解だろう。

馬相らは、綿竹で、みずから「黄巾」を号した。労役で疲れた民たちを、あつめた。1日や2日で、馬相は数千人にふくらんだ。まず馬相は、綿竹県令の李升を殺した。役人も人民も、馬相に集まった。1万人をこえた。馬相らは雒県をやぶった。

『郡国志』はいう。益州の広漢郡の雒県だ。益州刺史も、雒県を治所とした。ぼくは思う。さくら剛氏が述べていた、横山光輝の漫画で「雒城、落城」というギャグが記される地である。

馬相らは、益州刺史の郤倹を殺した。

周寿昌はいう。まえに劉焉は、郤倹の罪を治めたとある。きっと益州は遠方だから、劉焉が郤倹を捕まえていない。郤倹は、賊に殺されたのだ。
恵棟は『華陽国志』をひく。中平2年(185年)涼州の黄巾・馬相と趙祗らは、綿竹で民をあつめ、刺史の郤倹を殺した。以下省略。
ぼくは思う。馬相が立ったのが185年なら、劉焉が牧伯を述べた188年より先だ。ストーリーがくつがえる。つまり董扶は、劉焉をこう説得したのだ。
「あなたが提案した牧伯は、すばらしい。みずから交州牧になるのも、いいでしょう。しかし私の故郷・益州は、馬相が天子をなのり(後述)後漢から独立した状態が続いている。益州刺史が死んだままです。霊帝政権は、涼州だけでなく、益州まで放棄するつもりだ。益州を助けてください。いま劉焉さんが、益州を回復すれば、切り取り放題です。すでに後漢が、諦めた土地ですからね」
となれば、劉焉が「郤倹の罪を治めようと」赴任したという記述は、郤倹その人を罰するという意味でない。霊帝の忠実な政策実現者・郤倹が、作り出してしまった益州の叛乱を、収拾しようという意味だ。

馬相は、蜀郡、犍為にいたった。10日や1ヶ月やそこらで、3つの郡の役所が破壊された。破壊されたのは、広漢、蜀郡、犍為である。

原文もちくま訳も「郡が破壊された」とあるが、哲学の命題かと思えるほど、抽象的である。おそらく「郡」を破壊したとは、役所の建物を壊したという意味だろう。

馬相は、みずから天子を名乗った。馬相の兵は、1万人を数えた。

沈家本はいう。范曄『後漢書』では、10余万人である。郡を3つも壊したのだから、『三国志』のように1万人で収まるはずはない。10余万人が正しいだろう。
董扶がはじめ劉焉に述べた「益州に天子の気」とは、馬相を意識したか。馬相ですら、天子を名乗り、後漢から平定されることがない。まして劉焉さんなら、益州の学者人脈も支持しますから、正真正銘の天子になれますと。天子を名乗る人(馬相)を倒せば、天子になれる。これは、項羽と劉邦が約束した、道理なのだ。笑


州從事賈龍素領兵數百人在犍為東界,攝斂吏民,得千餘人,攻相等,數日破走,州界清靜。

州從事の賈龍は、私兵を数百人を率いて、犍為郡の東の境界にきた。

陳寿に「私兵」のニュアンスはない。でも『華陽国志』には「家兵」と書いてある。つまり賈龍も、部曲をもった在地豪族なのだ。

賈龍は、役人と人民を、千余人あつめた。賈龍は馬相らを攻めた。数日で馬相を敗走させた。益州の境界は、清浄となった。

綿竹に「都」をおき、後漢からの独立をうかがう

龍乃選吏卒迎焉。焉徙治綿竹,撫納離叛,務行寬惠,陰圖異計。張魯母始以鬼道,又有少容,常往來焉家,故焉遣魯為督義司馬,住漢中,斷絕穀閣,殺害漢使。焉上書言米賊斷道,不得複通。

賈龍は、劉焉を綿竹にむかえた。

何焯はいう。後漢の益州刺史は、雒県におかれた。だが郤倹が殺されたので、綿竹にうつった。免官は、西漢都尉の治所だった。
ぼくは思う。劉焉が天下に野心を持っているうちは、綿竹を拠点とします。中原へのアクセスを諦めると、成都に引っ込みます。

劉焉は、敵対者をてなずけ、ひそかに「異計」を図った。

『華陽国志』はいう。このとき、南陽や三輔から、数万家が蜀に避難した。劉焉は、どんどん招きいれ、東州兵と呼んだ。
ぼくは思う。劉璋伝がひく『英雄記』に、東州兵の話がある。『英雄記』だけだと怪しいが、『華陽国志』にも書いてあるなら、東州兵は、間違いないだろう。
「異計」とは、後漢からの独立である。云うまでもない。笑

張魯の母は、鬼道をつかって、若くみえた。張魯の母は、つねに劉焉の家に出入りした。劉焉は、張魯を督義司馬にして、漢中にとどめた。

新しい権力者・劉焉への、付け届けだろう。
後日やりたいが、張魯は、宗教者ではなさそうだ。道教の教祖の地位を、武力で奪い取った、世俗的な領主みたいで。
張魯の母子は、劉焉の後ろ盾をえて、漢中で勢力を張りたいだけでは? 劉焉としても、与党を益州にバラ撒きたいから、好都合である。

劉焉は張魯に、谷閣を断絶させた。

潘眉はいう。谷閣とは、斜谷と閣道だ。
盧弼は『三秦志』を引いて、地理を説明してくれる。ぼくが指摘したいのは、いま道を壊しても、長安との連絡は絶えないということ。
すぐ下の文で劉焉は、息子を長安に送り込んで、献帝を殺そうとしている。劉焉の野心に照らせば、長安へのアクセスが重要である。あくまで道を壊したのは、パフォーマンスだ。

張魯に、漢の使者を殺害させた。劉焉は上書した。
「米賊が、道を断ちました。後漢の朝廷と、もう連絡が取れません」

この上書を、どうやって送ったのか、問い詰めたい。笑


在地の豪族を、東州兵で抑えこむ

又讬他事殺州中豪強王咸、李權等十餘人,以立威刑。犍為太守任岐及賈龍由此反攻焉,焉擊殺岐、龍。

また劉焉は、他のことにコジツけ、益州の豪強である、王咸や李權ら、10余人を殺した。劉焉の威刑を、益州の豪族に思い知らせた。

『益部耆舊雜記』はいう。李權は、あざなを伯豫という。臨邛長となった。子の李福は、犍為の楊戲が記した『輔臣贊』にみえる。
盧弼が書名の注釈をしていますが、はぶきます。
ぼくは思う。劉表が荊州に赴任したときも、在地豪族を55人殺した。やり方は同じである。劉焉と劉表を、比較するのは面白そう。前漢の景帝の子孫で、血筋も同じだし。

犍為太守の任岐と、劉焉を綿竹にまねいた賈龍は、叛いて劉焉を攻めた。劉焉は、任岐と賈龍を殺した。

『華陽国志』によれば、任岐と賈龍は、初平2年(191年)に叛いた。劉焉は、東州兵をつかって、平定した。
もともと賈龍は、馬相を倒したから、劉焉に役立った。だが劉焉は、地元の豪族に、担がれることを好まない。学問の人脈を頼りたい。
もっとも、言葉のトリックに気をつけねばならない。豪族も学者も、現地の有力者という意味で、本質的な違いはない。違いをあげるなら、ぼくが学者と書いた人は、中央の政界&全国の知識人に、人脈があることか。
潁川の人士につながる、劉焉である。学問のバックグラウンドがない「強い」だけの勢力を、低く見たかもしれない。


英雄記曰:劉焉起兵,不與天下討董卓,保州自守。犍為太守任岐自稱將軍,與從事陳超舉兵擊焉,焉擊破之。董卓使司徒趙謙將兵向州,說校尉賈龍,使引兵還擊焉,焉出青羌與戰,故能破殺。岐、龍等皆蜀郡人。

『英雄記』はいう。劉焉は、董卓の討伐に加わらず、益州を保った。

董卓が洛陽で破れ、長安に入ったのが191年4月。劉焉と賈龍が戦ったのと、同時期である。
「保州自守」は、劉焉だけでなく、劉表も云われたこと。皇帝のために戦わず、自分勝手だと。だが、劉焉や劉表を見れば分かるが、1州を平定するのも大変なんだ。外に出る余力はない。サボりではない。

犍為太守の任岐は、将軍をみずから称した。任岐は、従事の陳超とともに、劉焉を攻めた。劉焉は、任岐と陳超を破った。
董卓は、司徒の趙謙を益州にいかせ、校尉の賈龍を説得し、劉焉を攻撃させた。劉焉は、青羌の兵をつかい、賈龍を殺せた。任岐も賈龍も、蜀郡の人である。

この『英雄記』はウソです。っていうか、『英雄記』は調査が甘いから、ウソがバレてしまう。
盧弼がいう。趙謙が司徒になったのは、董卓の死後だ。矛盾する。
『後漢書』献帝紀はいう。董卓は初平3年(192年)4月に、王允に殺された。6月に王允は、李傕に殺された。前将軍の趙謙は、王允の代わりに司徒になった。ほら、合わない!
ぼくは思う。趙謙は、董扶を推薦した人物だ。在地の豪族を支援し、劉焉を攻撃するのは、おかしい。
おそらく『英雄記』を書いた人が、「董卓が、名士を脅して高官につけた。名士を脅して、董卓に敵対する勢力を攻めさせた。だが董卓は、失敗した」という話を作りたかったのだ。おそまつ。


天子をマネていると、李傕派の劉表にチクられる

焉意漸盛,造作乘輿車具千餘乘。荊州牧劉表表上焉有似子夏在西河疑聖人之論。

在地豪族をつぶし、劉焉の意気は、いよいよ盛んになった。高級車を、千余台もつくった。荊州牧の劉表は、上表した。
「劉焉は、天子を気どっています」

劉表は、董卓から荊州刺史に任命された。李傕から、荊州牧の位をもらった。劉表は、董卓や李傕と近いのだ。
董卓(李傕)-劉表と、劉焉-袁術の同盟が、関中の南で競い合うという絵が描ける。袁術は南陽から、劉焉を支援したか。
思考実験「袁術と劉焉の同盟」を、史料から読めないか


次回、最終回。劉焉が、献帝を殺そうとします。