劉焉の綿竹、袁術の南陽はアクセスしやすい
劉焉と袁術を、もっとも関わらせたら、どうなるか。
今回は、妄想です。
梁冀政権とのからみ
劉焉伝から、気になる記述をひろいます。
まず袁術の祖父の代。結論:つながりは、なし。
焉少仕州郡,以宗室拜中郎,後以師祝公喪去官。
裴松之によれば、祝公は祝テンのこと。劉焉は、祝テンの喪に服して官を去った。つまり、よほど官界で恩人だったと推測できる。
祝テンが司徒となるのは、159年。梁冀が殺されたタイミングだ。梁冀が殺されて出世するのだから、祝テンは梁冀の敵対者だったと推測できる。
袁術の祖父・袁湯は、梁冀の協力者だった。つまり、劉焉と袁湯が同じ派閥だったとは思えない。もっとも、袁逢は「梁冀の片腕」というほどではない。「劉焉と袁氏が対立した」とまで、いう必要はない。
州牧を設置するときの、からみ
居陽城山,積學教授,舉賢良方正,辟司徒府,曆雒陽令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常。
祝テンは159年に、すぐ死んだ。もし祝テンに、親なみに3年の喪をすする。劉焉は、もっとも早ければ162年に復帰。このあたりに袁氏の司徒がいたら、妄想はふくらむ。しかし、該当なし。
焉睹靈帝政治衰缺,王室多故,乃建議言:「刺史、太守,貨賂為官,割剝百姓,以致離叛。可選清名重臣以為牧伯,鎮安方夏。」
劉焉が霊帝に、州牧の設置を建策したのは、『資治通鑑』によれば188年3月ごろ。このとき執政は、大将軍の何進。袁術と袁紹の親玉である。また叔父の袁隗は、同年8月に後将軍。翌年4月に太傅。
劉焉の建策に対して、袁隗が発言権を持っていたことは、推測可能。劉焉は、建策を採用してもらうため、根回しをしたかも知れない。
劉焉が益州に入るときの、からみ
劉焉は、益州牧になったが、赴任できなかったらしい。裴注の『漢靈帝紀』によれば、
焉受命而行,以道路不通,住荊州東界。
とある。劉焉はしばらく、荊州にいた。
劉焉が益州にいけた要因の1つは、南陽や三輔の兵を、味方にしたからだ。外から連れてきた兵をつかって、現地勢力を駆逐した。
劉璋伝の裴注『英雄記』で、時系列がまったく分からないですが、こんな記述があります。
先是,南陽、三輔人流入益州數萬家,收以為兵,名曰東州兵。
袁術が荊州の南陽に入るのが、189年末あたり。劉焉が荊州の境目でグズグズしている時期に、袁術と劉繇は、勢力を接したかも知れない。袁術は、背後の益州に味方を配置するため、いくらか南陽の兵をプレゼントしたかも知れない。このとき南陽は豊かだから、少しは余裕があったでしょうし。
袁術は劉焉を、皇帝に推戴しようとした?
劉焉伝の本文にあります。劉焉は、天子の振る舞いを始めた。
焉意漸盛,造作乘輿車具千餘乘。
同じことが、200年ごろの劉表伝にもある。
敗れた人を、歴史家が筆をつかって責めるとき、「傲慢にも天子を気どるから、滅びたんだよ」と、表現する方法があると思います。劉焉や劉表についても、同じかも知れない。しかし、今回はこの記述を鵜呑みにしてみます。
すると、何が見えるか。
袁術は劉焉を、皇帝に推戴しようとしたのでは?
皆さんのイメージと一致しませんが、最後まで董卓と執念深く戦ったのは、袁術です。曹操は、いちど自爆したけれど、あれはモノの数に入りません。長安に遷都したあとも、董卓は洛陽で頑張っていたが、袁術&孫堅が洛陽から追いはらった。
袁術の政治方針は「董卓&劉協を認めない」です。劉協は、董卓が劉弁を殺して立てた皇帝だ。認められない。
袁術が、正義をかかげて董卓と戦うためには、皇帝の代替案が必要です。それが劉焉だったのでは、ないかと。袁術が洛陽を出奔し、荊州を握りつつ、劉焉と協調したのは、上で妄想したとおり、この時期です。一致しなくはない。
袁隗&袁紹は、皇帝の代替案を劉虞とした。以前にこのサイトで書きましたが、のちに袁紹は、劉表を皇帝の代替案としたかも知れない。曹操-劉協を否定するために。代替案を用意するのは、よくある話なのです。
劉表は、劉焉が気に食わない。羨ましくもある。「袁術の支援を受けて、皇帝を狙いやがって。いいなあ」と。だから、献帝にチクッた。劉焉伝にあることです。
荊州牧劉表表上焉有似子夏在西河疑聖人之論。
劉表は、劉焉-袁術のラインを崩したい。袁術の南陽郡は、漢中郡を経由して、綿竹の劉焉とつながることができる。劉表は、この関係をジャマすべく、袁術を追い出したのだ。
劉表にとって南陽は、中原への入り口。番犬である、張繍や劉備を置いたのも、南陽郡だ。
劉焉の献帝殺害プランに、袁術は参加できず
194年3月、馬騰や韓遂と、劉焉の子供たちが結んで、李傕&郭汜を攻めた。時期は『後漢書』献帝紀で特定しました。
劉焉伝より。
時征西將軍馬騰屯郿而反,焉及範與騰通謀,引兵襲長安。範謀泄,奔槐裏,騰敗,退還涼州,范應時見殺,於是收誕行刑。
外側から馬騰が長安を攻め、内側から劉焉の子供たちが応じる。何をしたかと言えば、李傕&郭汜といっしょに、献帝を殺す作戦だろう。
劉協を否定するには、死んでもらうのが、もっとも早い。
もし袁術が、関中にアクセスできる土地にいたら、絶対に手助けをしたはずだ。だが惜しいことに、1年前の193年3月に、袁術は寿春に入ったところだ。とても長安を伺える場所にいない。
もともと袁術が南陽を出発したのは、河南を制圧するためだった。
もし成功すれば、長安の献帝は、西から馬騰、南から劉焉、東から袁術に、挟み撃ちをされた。献帝は確実に滅び、劉焉が皇帝になり、袁術が大手柄をあげていたかも知れない。
しかし、一翼をになう袁術が、曹操に負けたので(バカだなあ)劉焉たちは、計画が頓挫した。
いま194年4月のクーデターは、劉焉の子から秘密が漏れたから、破れかぶれで戦ったものだ。つまりこれより以前から、作戦があったことを示す。南陽にいたころ袁術が、参加していたかも知れない。
劉焉の最期
劉焉は、綿竹が落雷で燃えたからといい、成都にうつった。
綿竹から成都へ移った理由は、何か。関中や荊州へのアクセスを、放棄したんじゃないか。献帝を倒す野心を、諦めた証拠ではないか。
袁術との連携は、無残に失敗したのでした。
「南陽-綿竹」から「寿春-成都」へ。絶縁にひとしい。
劉焉は落胆し、すぐに死んだ。
だいたい見ていると、益州から天下を望むことは、単独ではできません。公孫述の失敗例があります。のちに諸葛亮も失敗しました。劉焉も、この地勢は分かっていたっぽい。だからはじめ「交州牧になりたい」と言い出したのだ。
劉焉が献帝打倒に失敗し、落胆して死ぬほど期待したとしたら、益州の外に、協力者がいたことを想定していいと思う。馬騰がいるが、そこまで期待できない。もっと中央への太いパイプであるはず。
話はズレるが、袁術と馬騰、韓遂が結びついていたと考えるのは、突飛ではない。だって袁術は、匈奴とすら同盟していた。
袁氏の基本方針は、異民族との協調である。袁紹は烏丸とむすんだ。さらに昔、袁氏の祖・袁安も、異民族を尊重した。
劉焉が期待した協力者は、「隣接」した袁術だった。
桓帝のときの渤海王、陳王も皇位争い。皇族として国を擁すれば、治世ですら野心を持つ。まして乱世ならね。劉焉の野望は、ありふれたものだ。
ぼくの中の袁術のイメージが、やっと全土に及んできた。それにしても、ひどい妄想であることは、認識しております。笑 100602