劉備の帝号は、劉焉と劉表のパクりだ
劉焉伝を『集解』とともに読んでいて、気づいたことです。
献帝を否定し、新しい皇帝になりたがるのは、前漢の皇族だ。
ぎゃくに後漢の皇族は、つつましく献帝をまもる。
おなじ「皇族」でも、前漢の皇族と、後漢の皇族はちがう。この視点を『三国志』の読解に持ち込みたい。これを書きます。
前漢の皇族は、後漢では不遇だった
前漢の劉氏の子孫は、後漢で不満をためていたかも知れない。
劉焉は、前漢の皇族だ。劉焉伝につけられた『集解』の注釈では、劉焉の家が、後漢のとき、どこに封じられていたか、よく分からないと書いてあった。史料が整合しないから。
劉焉の祖先は、前漢のとき魯王だった。王莽のせいで魯公に降格し、さらに王姓を名乗らされた。後漢になって、家が復興された。竟陵に封じられた。だが史料上、後漢の皇族と、任地が重なる。おかしい。
正確なことが伝わらない。また、ろくに史料に残らないくらいだから、肩身が狭かったと思われる。
魯王のポジションは、劉秀の兄の子の家系に、譲り渡してしまった。
日本史の例で恐縮ですが。
前漢と後漢の劉氏の関係は、家康以前に分岐した松平氏と、家康以後の徳川氏に似てる。家康以後のほうが、ポジションが高い。全国の領地は限られている。家康の子孫に、優先して振られる。
しかし、両者の待遇は、まるで違う。家康から見て「自分の子供が、いちばんかわいい」というロジックである。笑
前漢の皇族・劉焉は、さながら松平氏である。
いちおう皇族として待遇されながらも、後漢の皇族より、肩身がせまい。自己認識としては、後漢の藩屏というより、「後漢に取って代わられた側」という気持ちが強いか。
後漢で盛んなのは、劉秀の子孫ばかりだ。
献帝を守る後漢皇族、無視する前漢皇族
三国志の幕開けは、
「董卓が立てた劉協の、正統性を認めるか否か」
という争いだ。
もし劉協を否定するならば、代わりの劉氏が必要だ。
代わりの劉氏を見つける方法は、2つある。
1.後漢の皇族から見つける
2.後漢の皇族以外から見つける
前者は、後漢皇帝の直系が絶えたとき、たびたび行われてきたこと。たとえば質帝や桓帝である。
後者は、光武帝・劉秀の子孫でない人を、皇帝にすること。ひらたく言い換えれば、前漢の皇族を皇帝にして「前漢-後漢-さらに新しい漢」という、3度目の建国をする方法。2度目の中興である。
前者(後漢の皇族から、つぎの皇帝を見つけること)は、後漢の体制内で行うことだ。派手なことはできない。
たとえば、帝位を辞退した劉虞は、後漢の皇族だった。劉虞は、後漢の藩屏としての気持ちが強かったと思う。だから、おそらく董卓に疑問を持ちつつも、劉協と対決しなかった。劉虞のひかえめな性格も、対決を回避した理由だろうが。
陳王の劉寵は、後漢の藩屏として、モチベーションが高かった。袁術に対抗した。劉寵は、後漢の皇族である。今回のぼくの指摘に沿う例だ。
『後漢書』袁術が殺した、弩兵が巧みな皇族の列伝
もうひとり。
他人から担がれるのを嫌い、兵を持たなかったのが劉曄。劉曄は光武帝の子孫で、献帝を支持する立場だ。自分が帝や王を称さない。すすんで曹操の臣下になった。魯粛を、曹操に仕えさせようとした。
「劉曄伝」:『三国志集解』を横目に、陳寿と裴注の違いをぶつける
後者(後漢の皇族以外から、つぎの皇帝を見つけること)は、後漢は滅びたという認識をふむ。派手で過激である。
劉表も劉焉も、野心たっぷりで割拠する。彼らは、前漢の皇族であって、後漢の身内ではない。後漢の維持に、積極的ではない。
おなじ劉姓のなかで、「革命」をやりかねない。
劉繇は、袁術との対立から「献帝の味方」に見なされがち。しかし、もし献帝を助けたいなら、関中からいちばん遠い揚州で、戦っている場合ではない。献帝の命すら、危ないのにね!
劉繇は、前漢の皇族だ。今回のぼくの指摘に沿わせ「劉繇は、献帝のサポートには消極的だ」と言い切れるか。後日再考。
陳寿は、劉焉や劉表の「僭号」を隠したか
陳寿「魏志」は、献帝の正統を主張する。なぜなら、献帝から禅譲してもらった、曹丕を肯定するためです。
「魏志」が意図的に書き漏らしたかも知れないが、劉焉や劉表が、皇帝を自称していた可能性はある。劉焉が「天子の気」に引かれて益州に行ったとか、劉表が「天子の楽団」を設けたとか書いてある。これは陳寿が、劉焉らの即位を仄めかしていると思う。
「蜀志」で先主伝の前に、劉二牧伝があるのも、不自然であやしい。
陳寿は魏晋の同時代人だから、あまり突っこんだことは書かない。わざとらしい言葉をつかって、備忘用のタグをつける。
「憂薨」した荀彧は、自殺か?(三国志街道の集いより)
陳寿の心の声としては、
「皆さんがご存知のことだから、とくに書きません。でも、気づいてくださいね。これは、ああいうことでしたよね」
と。陳寿の時代は、公然の秘密が知られていただろうが、ぼくら後世のファンには、分からん。迷惑なことである。
劉焉や劉表も、上に書いたように、備忘用のタグがついている。つまり、献帝が長安附近をウロウロしているとき、
すでに後漢は滅びたと見なされ、代わりの皇帝に立ったのだ。と思う。
もし、これを陳寿が書けば、
「献帝の正統を否定したのに、劉焉や劉表は、すぐに天罰を受けていない。もしかして献帝の正統は、危うかったのでは?」
と、読者に印象を与えかねない。実際そのとおりなのだが(そのとおりだからこそ)陳寿は、はぶいた。
袁術だけが浮いたように見えるが、違うはずだ。おそらくね。笑
劉備は「前漢の皇族」という型を採用し、即位した
劉備は、ウソにせよ、前漢の皇族を名乗った。
『典略』は劉備を、後漢の皇族とするが、握りつぶされた感がある。劉備は、後漢の献帝に代わった。皇帝となった。
「献帝が生きているのに、劉備が帝位を称するなんて、変だね」
という批判が、当時の敵味方&ぼくらファンの間から出る。諸葛亮たちは、この批判を予想して、献帝が死んだというデマを採用した。
だが、本質的なところでは、劉備の即位に問題はない。だって劉備は、後漢でなく、前漢の皇族として、新しい漢を建てたのだ。劉秀の下に接続したのでなく、横に並んだのだ。
劉備の即位は、唐突ではない。同じ前漢の皇族である、劉焉や劉表が、すでに試みたことだった。
(陳寿の祖国愛も、とうぜん手伝ったのでしょうが)
以上です。後漢時代に、前漢皇族が不遇だったこと。前漢皇族は、遠慮なく献帝を否定したこと。陳寿は、前漢皇族(劉焉や劉表)の即位を、隠したかも知れないこと。劉備は前漢皇族として、後漢に代わり、蜀漢を建てたこと。これらを書きました。
ひとくくりに「劉氏」とせず、前漢と後漢、どちらの皇族かを確かめることは、『三国志』の読解に有効だと思います。100630