01) 劉曄の祖先を『後漢書』で知る
劉曄のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きしながら、抄訳します。
『集解』の全訳でないことは、ご容赦ください。学術研究者ではなく、ファンにとって興味深い事実は、漏らさずに書くつもりです。どうしても主観で取捨選択してしまいますが。
陳寿の本文と、裴注『傅子』を比較をやります。
陳寿で劉曄は、君主と意見を違えてでも、天下の形勢を予言する。
『傅子』で劉曄は、君主と意見を合わせて、迎合しまくる。卑怯者。
この違いを味わい、違いが生まれた原因も探ります。
『三国志』を読み始めたつもりが
劉曄字子揚,淮南成徳人.漢光武子阜陵王延後也.
劉曄は、あざなを子揚という。淮南郡の成徳県の人だ。
王先謙がいう。九江郡は、三国の魏と呉が分割した。呉は廬江郡に含め、魏は淮南郡と呼んだ。
後漢の光武帝の子、阜陵王・劉延の後裔である。
以下、せっかくだから『後漢書』の劉延伝を抄訳。
『後漢書』の劉延伝より
二十八年就國.三十年,以汝南之長平、西華、新陽、扶樂四縣益淮陽國.
建武28年(52年)劉延は、淮陽国にいった。
建武30年(54年)、汝南郡の長平県、西華県、新陽県、扶樂県の4つを増やして、淮陽國とした。
延性驕奢而遇下嚴烈.永平中,有上書告延與姬兄謝弇及姊館陶主婿駙馬都尉韓光招姦猾,作圖讖,祠祭祝詛.事下案驗,光、弇被殺,辭所連及,死徙者甚.有司奏請誅延.顯宗以延罪薄於楚王英,故特加恩,徙為阜陵王,食二縣.
劉延の性格は、驕奢だった。臣下を、嚴烈に待遇した。
永平年間(58年-75年)劉延が図讖をつくり、呪詛していると上書された。つるんでいた劉延の近親は、殺された。連座して死んだ人は、とても多かった。
劉延を殺せと上奏された。だが明帝は、楚王・劉英よりも罪が軽いので、死を免除した。劉延は阜陵王に移された。半分の2県だけを食んだ。
劉延を憎む人が、劉英の事件をヒントにして、でっち上げたか。
延既徙封,數懷怨望.建初中,復有告延與子男魴造逆謀者,有司奏請檻車徵詣廷尉詔獄.肅宗下詔曰:「王前犯大逆,罪惡尤深,有同周之管、蔡,漢之淮南.經有正義,律有明刑.先帝不忍親親之恩,枉屈大法,為王受愆,下莫不惑焉.今王曾莫悔悟,悖心不移,逆謀內潰,自子魴發,誠非本朝之所樂聞.朕惻然傷心,不忍致王于理,今貶爵為阜陵侯,食一縣.獲斯辜者,侯自取焉.於戲誡哉!」赦魴等罪勿驗,使謁者一人監護延國,不得與吏人通.
阜陵王に移っても、劉延は怨まれた。ふたたび劉延は、反逆を訴えられた。章帝が詔した。
「劉延の罪は、重い。前漢の淮南王と同じだ。
私の父・明帝は、親族を罰することに忍びず、法を枉げて、劉延を許した。私だって、親族を罰したくない。
いま劉延を阜陵侯にランクダウンし、当初の25%である1県だけを食ませよ。連座はさせない。劉延1人だけを罰しよう」
章和元年,行幸九江,賜延書與車駕會壽春.帝見延及妻子,愍然傷之,乃下詔曰:「昔周之爵封千有八百,而姬姓居半者,所以楨幹王室也.朕南巡,望淮、海,意在阜陵,遂與侯相見.侯志意衰落,形體非故,瞻省懷感,以喜以悲.今復侯為阜陵王,增封四縣,并前為五縣.」以阜陵下溼,徙都壽春,加賜錢千萬,布萬匹,安車一乘,夫人諸子賞賜各有差.明年入朝.
章和元年(87年)章帝が、九江郡に行幸した。劉延に、書物と車駕を与え、壽春で会見した。章帝は、劉延の妻子と会った。妻子をあわれみ、詔した。
「むかし西周が諸侯1800を封じたとき、皇族は900だった。いま南方を視察したら、皇族が衰退している。西周のように、君主を助けさせるには、皇族が弱りすぎだ。いま劉延を、阜陵王に復活させ、4県をプラスし、合計で5県を食ませる」
劉延は、寿春に移った。88年、入朝した。
立五十一年薨,子殤王沖嗣.永元二年,下詔盡削除前班下延事.
沖立二年薨,無嗣.和帝復封沖兄魴,是為頃王.永元八年,封魴弟十二人為鄉、亭侯.
魴立三十年薨,子懷王恢嗣.延光三年,封恢兄弟五人為鄉、亭侯.
恢立十年薨,子節王代嗣.陽嘉二年,封代兄便親為勃亭侯.
代立十四年薨,無子,國絕.
建和元年,桓帝立勃亭侯便親為恢嗣,是為恭王.立十三年薨,子孝王統嗣.立八年薨,子王赦立;建安中薨,無子,國除.
立つこと51年間、劉延は薨じた。
劉延の子、殤王・劉沖が嗣いだ。永元二年(90年)劉延の前科を、リセットされた。劉沖は立つこと2年で、薨じた。後嗣なし。
和帝は、劉沖の兄・劉魴に継がせた。頃王である。永元八年(96年)劉魴の弟・12人を郷侯や亭侯に任じた。
劉魴は、立つこと30年で薨じた。劉魴の子、懷王・劉恢が嗣いだ。延光三年(124年)劉恢の兄弟5人を、郷侯や亭侯に封じた。
劉恢は、立つこと10年で薨じた。劉恢の子、節王・劉代が嗣いだ。陽嘉二年(133年)劉代の兄、劉便親が亭侯に封じられた。
劉代は、立つこと14年で薨じた。子がなく、国は断絶した。
建和元年(147年)に桓帝は、劉便親に劉恢を嗣がせた。恭王である。立つこと13年で、劉便親は薨じた。
子の孝王・劉統が嗣いだ。立つこと8年で、劉統が薨じた。
子の劉赦が立った。建安年間に、薨じた。子がないので、国は除かれた。
劉曄のつれている兵は、劉勲を強くした。曹操(後漢)の下で、劉曄の近い親戚は活躍しない。どちらも、劉曄が本家をまとめた証拠か。
『三国志』に戻りまして
父普,母脩,產渙及曄.渙九歲,曄七歲,而母病困.臨終,戒渙、曄以「普之侍人,有諂害之性.身死之後,懼必亂家.汝長大能除之,則吾無恨矣.」
劉曄は、父を劉普といい、母を脩という。
母は、劉渙と劉曄を産んだ。
兄の劉渙が9歳、劉曄が7歳のとき、母が病死した。母が遺言した。
「お前たちの父・劉普の侍人は、諂害之性があります。
劉曄は、形勢を見抜くのがうまいが、母ゆずりかな。
私は懼れます。私が死ねば、侍人は必ず家を乱すでしょう。大人になったら、侍人を除きなさい。侍人を除いてくれれば、私は恨みが残らない」
曄年十三,謂兄渙曰:「亡母之言,可以行矣.」渙曰:「那可爾!」曄即入室殺侍者,徑出拜墓.舍內大駕,白普.普怒,遣人追曄.曄還拜謝曰:「亡母顧命之言,敢受不請擅行之罰.」普心異之,遂不責也.汝南許劭名知人,避地揚州,稱曄有佐世之才.
劉曄が13歳のとき、15歳の兄に言った。
「亡き母の遺言を、実行しましょう」
兄は「できるわけない」と言ったが、劉曄は侍人を殺害し、母の墓前に参った。父の劉普は怒った。劉曄は戻り、父に謝った。
「亡き母の遺言でした。1人で勝手にやった罪ならば、受けます」
劉普は感心して、劉曄を責めなかった。
汝南郡の許劭は、有名だった。許劭子将は、揚州に避難した。許劭は、「劉曄には、佐世之才がある」と言った。