表紙 > 漢文和訳 > 「劉曄伝」:『三国志集解』を横目に、陳寿と裴注の違いをぶつける

05) 西晋の傅玄による、ウソ文書

劉曄のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きしながら、抄訳します。自分でも注釈します。

劉曄の子供が、司馬氏に敵対する

子ウ嗣.少子陶,亦高才而薄行,官至平原太守.

劉曄の子・劉ウが嗣いだ。幼子の劉陶も高才だったが、行動が軽薄だった。平原太守にまで昇った。

周寿昌がいう。劉陶の記録は、文末がおかしい。おそらく劉陶は、刺殺された。罪により死刑になったのではない。
…さあて、キナくさい。司馬氏に遠慮して、陳寿が刺殺を隠したか? でも実は読者に気づかせるため、不自然に書いたのか? 曹髦のときと同じ。


王弼傳曰:淮南人劉陶,善論縱橫,為當時所推.

王弼傳がいう。

何邵は、王弼伝を書いた。鍾会伝の注釈にある。王弼は、いつも劉陶と語り、劉陶に言い負かされた。何邵のことは、何キ伝と荀彧伝の注釈に見える。

淮南人の劉陶は、よく縱橫を論じた。当時の人に、学識を推薦された。

さんざん褒めて、いきなり記録が途絶える。怪しいパタン。

傅玄による、劉陶の悪口

傅子曰:陶字季冶,善名稱,有大辯.曹爽時為選部郎,鄧颺之徒稱之以為伊呂.

『傅子』がいう。劉陶は、あざなを季冶という。名声を称えられ、べらべら喋った。

ちくま訳は「雄弁家」だが、「大弁あり」をぼくなりに訳してみた。

劉陶は曹爽から、選部郎に任じられた。
鄧颺のような連中は、劉陶を「伊尹や呂尚のようだ」とほめた。

曹爽は、司馬氏の敵。『傅子』を書いてる傅玄は、司馬氏の与党だ。曹爽の一味である劉陶を見下し、悪意を持っている。
傅玄は、悪意の証拠に「鄧颺之徒」なんて書いてる。鄧颺も曹爽の仲間だ。


當此之時,其人意陵青雲,謂玄曰:
「仲尼不聖.何以知其然?智者圖國;天下群愚,如弄一丸于掌中,而不能得天下.」
玄以其言大惑,不復詳難也.謂之曰:

曹爽が栄えたとき、劉陶の心意気は(調子に乗って)青雲より高かった。劉陶は、私(傅玄)に言った。

ちくま訳は、夏侯玄とする。ちがう。筆者の傅玄だ。
『集解』も夏侯玄としているが、どうして夏侯玄が唐突に出てくるものか。

「孔子は聖人ではない。なぜか。智者は国を図る。群愚は、丸を手のひらで転がすようにする。だから、天下を取れないのだ」
私(傅玄)は大いに惑った。詳しく劉陶を批難しようにも、まるでワケが分からないからだ。

ぼくの翻訳が悪いのではない。傅玄が悪意を持って、劉陶の発言を、ワケノワカラナイモノに仕立てている。だから、むしろ分かってはいけない。


「天下之質,變無常也.今見卿窮!」爽之敗,退居里舍,乃謝其言之過.

劉陶は、さらに私(傅玄)に言った。
「天下の性質は、つねに変化する。決まった形がない。いまにキミは、困窮するぞ」

セリフを文字どおり読めば、司馬氏と、その与党たちへの当てつけか?
でもこのとき司馬懿は、隠居させられている。わざわざ「傅玄くんは、困窮するぞ」なんて言わなくても、司馬氏は下火である。創作に違いない。

曹爽が敗れると、劉陶は謹慎した。私(傅玄)に言い過ぎたことを、謝ってきた。

これを夏侯玄で読むと、意味が取れない。傅玄の自己述懐だ。
勝者に追従した傅玄が、かつての政敵を、やり込めて喜んでいる図だ。

司馬師が、劉陶を殺す

干寶晉紀曰:毋丘倹之起也,大將軍以問陶,陶答依違.大將軍怒曰:「卿平生與吾論天下事,至于今日而更不盡乎?」乃出為平原太守,又追殺之.

干寶の『晉紀』がいう。
毋丘倹が司馬氏に反乱した。司馬師は、劉陶に作戦を問うた。劉陶の答えは、一貫しなかった。

「陶答依違」は、ちくま訳では「はっきり答えなかった」
違うところに依ったんだから、一貫しなかったと、訳しました。

司馬師は怒り、劉陶に言った。
「あなたと私は、いつも天下のことを論じている。だがどうして、今日のような非常事態に、ちゃんと論じないのか

なぜか。劉陶は、司馬師じゃなくて、毋丘倹に共感したから。
じつは司馬師は、劉陶の真意を見抜いていたとか。わざと劉陶が困る質問をして、動揺する様子を、確かめたんじゃないかな。曹爽の与党を、司馬師が本気で頼るとは思えない。

地方に左遷され、劉陶は平原太守となった。追って殺された。

毋丘倹が反乱したのは、淮南だ。劉曄の根拠地である。後漢のとき、劉陶の家が、代々治めた。
妄想。毋丘倹と劉陶が通じていた。毋丘倹は、劉陶をシンボルに担ごうとした。可能性はないかな。父の劉曄が、回避した役回り。
司馬氏の反対勢力は、3たび淮南で挙兵する。司馬師はこれを見抜き、早々と劉陶を殺したのかも。

傅玄の悪意を知り、劉曄の逸話を読むと

つかれたので翻訳はやりませんが、、
裴注『傅子』には、劉曄の有名な話が載っています。いちばん有名なんじゃないかな。
明らかに劉曄(子の劉陶も)を、貶めるために書いてある。

あるとき曹叡が、蜀討伐を考えた。

曹爽が漢中を攻めたときを、イメージしてる話か。

臣下の全員が反対した。劉曄だけが、蜀討伐に賛成した。
劉曄は外に出ると、じつは反対だと言った。
曹叡の寵臣は、劉曄が矛盾しているので、不審がった。寵臣は、曹叡とグルになって、劉曄の意見を問い詰めた。矛盾がバレると劉曄は、そのたびに、もっともらしい言い訳をつけた。劉曄は、ついに自分でもワケが分からなくなって、憂死した。

死に様をダサくするなんて、いかにも小説。
この逸話を読み「劉曄、ダサい」と判断するなら、傅玄の思う壺だ。

おわりに

劉曄は、混沌とした揚州にいた。群雄に担がれ、皇帝を名乗る道もあった。皇帝を名乗るために、人材と土壌は、整っていた。だが劉曄は、献帝を擁した、保守的な曹操が勝つことを見抜いた。
劉曄は、つねに洞察がヒットした。同郷の友人、魯粛に近い。
ただ、あまりに洞察が的確なので不気味がられた。君主から距離を置かれた。活躍の場が限られた。これも、魯粛と同じ。

劉曄の子・劉陶は、司馬師や傅玄と敵対した。傅玄は『傅子』を書いて、劉陶の家の悪口をたくさん書いた。
「君主と意見を違えて、正解を出しまくる」
という劉曄のキャラを、
「君主と意見を合わせて、迎合しまくる」
というキャラに改めた。正反対だ。
陳寿の本文と、裴松之の注釈を、なんとなく混ぜこぜにしてはいけない。違いをつき合わせてこそ、立体的な劉曄が見えます。100408