表紙 > 漢文和訳 > 「劉曄伝」:『三国志集解』を横目に、陳寿と裴注の違いをぶつける

02) 劉協の正統性を、見定める

劉曄のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きしながら、抄訳します。自分でも注釈します。

鄭寶に味方して皇帝を目指すか

揚士多輕俠狡桀,有鄭寶、張多、許乾之屬,各擁部曲.寶最驍果,才力過人,一方所憚.欲驅略百姓越赴江表,以曄高族名人,欲彊逼曄使唱導此謀.

揚州には、輕俠狡桀な人士が多かった。

ちくま訳は「軽はずみな男伊達、ずるがしこい荒くれ」だ。だが、風土が特別に腐っていたんじゃなかろう。治安が混乱したから、親分たちが頼られたんだろう。揚州に、第3勢力が誕生する土壌だ。

鄭寶、張多、許乾らがいた。彼らは部曲をひきいた。

『集解』がいう。劉曄伝と魯粛伝に、鄭寶が出てくる。巣湖で1万人以上を率いた。

鄭寶は、もっとも驍果で、才力は人に勝った。鄭寶たちは、百姓をつれて長江を南に渡ろうとした。

鄭寶は、まるで賊みたいに書かれる。百姓を、強制送還みたいに書いてある。違うだろう。中原から避難した、群雄の候補なんだ。

劉曄は、高族名人である。

ちくま訳「高貴な家柄の名士」
『集解』いわく、劉曄は宗室から出た。蒋済と胡質は、ともに揚州の名士だ。

鄭寶は、劉曄にせまって、この謀略に参加させようとした。

原文「此謀を唱え導かしめんと欲す」とある。ただの南渡が「謀」か?
力の強い人が、劉氏を推戴する。よくあるパターンだ。つまり鄭寶は、劉曄の一族を皇帝にしようとした。まだ本家の阜陵王が健在なら、皇帝はそちら。劉曄は藩屏。完璧なる、ぼくの妄想だが。鄭寶が、董卓や袁紹と同じことを考えたとしても、不思議ではない。


曄時年二十餘,心內憂之,而未有緣.會太祖遣使詣州,有所案問.曄往見,為論事勢,要將與歸,駐止數日.

ときに劉曄は、20余歳。劉曄は、鄭寶の誘いを心中に憂い、どうしようか決められなかった。

劉曄は、同郷の魯粛に「ともに、鄭寶に従おう」と誘っている。のちに劉曄は、鄭寶を見限る。劉曄伝と魯粛伝で、劉曄の意見が矛盾する。
ぼくは史家のミスだと思わない。劉曄ははじめ、鄭寶に味方するつもりだった。魯粛への手紙は、本当だろう。劉曄は迷っていた。

曹操の使者が、揚州にきた。劉曄は曹操の使者と、事勢を論じた。劉曄は、曹操に帰順すべきだと思い、使者を数日とどめた。

論じた事勢とは何か。穏やかでないから、わざとボカしてあるが、「後漢の、正しい皇帝は誰か」だろう。
董卓が据えた劉協に、人々を納得させる正統性があるか。もし劉協がダメなら、同族・阜陵王が南で自立して、世を治めねばならない。
劉曄は話してみて、阜陵王を立てるより、曹操が助ける劉協を支持した。ちなみに曹操が劉協を拾ったのは、196年です。同じころか。


寶果從數百人齎牛酒來候使.曄因自引取佩刀斫殺寶,斬其首以令其軍,云:「曹公有令,敢有動者,與寶同罪.」曄撫慰安懷,咸悉悅服,推曄為主.

鄭寶は、数百人を率いて、曹操の使者をもてなした。

鄭寶は、曹操の使者を、早く帰らせたかったのだろう。

劉曄は、みずから佩刀を取り、鄭寶の首を斬った。劉曄は、鄭寶が連れていた軍に伝えた。
「曹操さまの命令だ。動けば、鄭寶と同罪だ」
劉曄は、鄭寶の軍を懐けた。みな悦んで、劉曄に服した。劉曄は、主君に推戴された。

阜陵王がいたら、阜陵王が主君のはず。この事件は、阜陵王が死んだ後だったのかな。阜陵王が死んだから、劉曄は身の振り方を迷っていたか。
すると、鄭寶の申し出は「劉曄さんが皇帝にならないか」となる。

劉勲に兵を預けたのに、孫策に敗れる

曄観漢室漸微,己為支屬,不欲擁兵,遂委其部曲與廬江太守劉勳.勳怪其故,曄曰:「僕宿無資,而整齊之,必懷怨難久,故相與耳.」
時勳兵彊于江、淮之間.孫策惡之.勲興兵伐上繚,策果襲其後.勳窮踧,遂奔太祖.

劉曄が観るに、漢室は衰微している。劉曄は皇族だから、兵を持ちたいと思わなかった。

何焯がいう。曹氏が劉氏に代わるのは、もっと後だ。この時点で、衰微しているとは言えない。劉曄があとから、言葉を飾ったのだ。
ぼくは違うと思う。漢室の衰微は、明らかだ。また兵を持っていると、鄭寶のときのように、劉曄を皇帝(でなくてもシンボル)に推戴する人が出てくる。リスキーだ。だから、戦乱の主役になるのを避けた。

劉曄は、もと鄭寶の軍を、廬江太守の劉勲にあずけた。劉勲が怪しみ、理由を聞いた。劉曄が答えた。
「私は資がない。資がないくせに、兵に命令していれば、恨みを買う。だから劉勲さんに、兵を譲ったのさ」

胡三省がいう。「資」とは、名位のことだ。
ちくま訳は「資力」となっている。ぼくが思うに、ここでは財産だけの意味じゃなく、君臨する大義名分を指すのだろう。

このとき劉勲は、長江と淮水の間で、強かった。孫策は劉勲を悪んだ。

列伝を中略してます。孫策は劉勲をだまして、上繚を攻めさせた。劉曄だけは孫策の作戦を見抜いたが、劉勲は飛び出してしまった。

劉勲は、上繚を攻めている留守を、孫策に襲われた。劉勲は、曹操を頼って逃げた。

揚州の風土を見抜き、曹操に助言をする

太祖至壽春,時廬江界有山賊陳策,衆數萬人,臨險而守.先時遣偏將致誅,莫能禽克.太祖問郡下,可伐與不?曄曰:「策等小豎,因亂赴險,遂相依為彊耳.今天下略定.先開賞募,大兵臨之,令宣之日,軍門啟而虜自潰矣.」太祖笑曰:「卿言近之!」
太祖還,辟曄為司空倉曹掾.[一]

曹操は寿春に到った。ときに廬江郡の境界には、陳策という山賊がいた。陳策は、数万人を率いて、険阻な土地で守った。曹操は、陳策を捕らえられない。
曹操は郡臣に、方法を聞いた。劉曄が答えた。
「陳策はガキです。世の乱れを頼り、険阻な地に閉じこもっているから、強いだけです。いま天下は、ほぼ定まりました。さきに褒賞を約束し、降伏を呼びかけなさい。つぎに大軍を送れば、陳策の軍は、みずから潰れるでしょう」

劉曄は、保守的です。みずから新しい権力を立てず、献帝=曹操に従った。
劉曄は、自分の性質を投影し、陳策の軍もまた、権力に弱いと見た。

曹操は笑った。
「劉曄さんの発言は、これに近いなあ」

何に近いんだろう。ちくまでは「発言は、適切だ」でした。ぼくは、曹操自身の意見と近い、んだと思う。違うかなあ。

曹操は凱旋し、劉曄を司空の倉曹掾とした。

定員1名。比300石。第7品。曹操がおいた。


傅子曰:太祖徵曄及蔣濟、胡質等五人,皆揚州名士.每舍亭傳,未曾不講.而曄獨臥車中,終不一言.後一見太祖止無所復問,曄乃設遠言以動太祖,太祖適知便止.若是者三.太祖已探見其心矣,坐罷,尋以四人為令,而授曄以心腹之任;每有疑事,輒以函問曄,至一夜數十至耳.

『傅子』がいう。
曹操は、劉曄、蒋済、胡質ら5人を招いた。5人とも、揚州の名士だ。移動中の休憩のたび、いつも曹操は5人と話した。
だが劉曄は、車中でひとり横になり、何も言わない。のちに曹操が同じことを劉曄に聞くと、劉曄は遠言を設けて、曹操を感動させた。

君主と1対1で話すのは、魯粛と同じ。宴会の後、孫権に呼び止められて、2人きりで喋った。さすが魯粛と劉曄は、竹馬の友だ。逸話が似る。

同じことが、3回あった。曹操は、劉曄がだまっていた理由を知った。

ちくま訳では「むやみに座談させるべきでない」という劉曄の意見を、曹操が知ったと書いてある。どうしてそういう訳になるのか、よく分からない。

のちに劉曄以外の4人は、県令になった。だが劉曄だけは、心腹之任を与えられた。 曹操は迷うたびに、劉曄に封書で質問した。1夜のうちに、曹操から10通も届いた。

ちくま訳「7、8度」となってる。「十に至るを数う」なのに、減らした?


次回、じつは曹操に疎んじられていると判明!