03) 隴を得て、蜀を望んでみる
劉曄のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きしながら、抄訳します。自分でも注釈します。
漢中を得て、蜀を攻めなさい
太祖征張魯,轉曄為主簿.既至漢中,山峻難登,軍食頗乏.太祖曰:「此妖妄之國耳,何能為有無?吾軍少食,不如速還.」便自引歸,令曄督後諸軍,使以次出.曄策魯可克,加糧道不繼,雖出,軍猶不能皆全,馳白太祖:「不如致攻.」遂進兵,多出弩以射其營.魯奔走,漢中遂平.
曹操が張魯を征つとき、劉曄は主簿に転じた。
この1行で、劉曄が曹操に重用されていないことが分かる。揚州を出てからの劉曄の記録がなく、年代が飛んでいるから。
「機密の仕事ばかりしていたから、記録がないのだ」は、理由にならない。だって、曹操が張魯を降すのは、215年だ。15年以上も機密をあずかって働いて、官位が第7品相当のままか? しかも定員4人の仕事だよ。曹操の相談に1人で乗るには、適さないポジションだ。
ぼくらは裴注の『傅子』に、ミスリードされてはいけない。劉曄は、揚州で陳策を降してからは、15年以上、手柄がない。
魯粛が、赤壁までずっと無位無官だったのに似てる?
漢中にきた。山峻は登りにくい。軍食はひどく乏しい。曹操が言った。
「ここ漢中は、妖妄之國だ。どうにもならん。食料が少ない。速く還るのがベストだ」
曹操はみずから撤退を率いた。曹操は劉曄に、後ろの諸軍を率いさせた。劉曄は、食料の補給がつながらず、もし漢中を出ても、軍に損害が出ると思った。馬を飛ばして、曹操に言った。
「攻撃するのが、ベストです」
劉曄は兵を進めて、張魯の軍営を弩で射た。張魯は逃げ、ついに漢中は平定できた。
盧弼が見るに、張魯伝の裴注に載っている。(ぼくも確認しました)
曄進曰:「今舉漢中,蜀人望風,破膽失守,推此而前,蜀可傳檄而定.劉備,人傑也,有度而遲,得蜀日淺,蜀人未恃也.今破漢中,蜀人震恐,其勢自傾.若小緩之,諸葛亮明於治而為相,關羽、張飛勇冠三軍而為將,蜀民既定.必為後憂.」
太祖不從,[一]大軍遂還.曄自漢中還,為行軍長史,兼領軍.
劉曄は、進みでて述べた。
「蜀に布告して、平定しましょう。劉備は人傑ですが、行動が遅い。蜀を得て、日が浅い。蜀の人は、まだ劉備を頼っておりません。いま漢中を破り、蜀の人は恐れています。いま蜀を取らないと、諸葛亮が統治し、関羽と張飛が軍を率い、蜀が安定します。あとで必ず憂いとなります」
曹操は、劉曄を却下した。
『集解』では、諸学者が、蜀取りの賛否を争ってます。
曹操は大軍を戻した。劉曄は漢中から還ると、行軍長史となり、領軍を兼ねた。
中領軍は1人。禁中の兵を掌握する。建安4年、曹操が領軍を置いた。延康年間(220年のみ)に、中領軍が置かれた。漢の北軍中候と同じポストだ。
傅子曰:居七日,蜀降者說:「蜀中一日數十驚,備雖斬之而不能安也.」太祖延問曄曰:「今尚可擊不?」曄曰:「今已小定,未可擊也.」
『傅子』がいう。
劉曄が蜀取りを述べてから、7日たった。ある人が言った。
「漢中を曹操さまが取り、蜀では1日に数十回のパニックがあります。劉備が、パニックした人を斬っても、安定しません」
曹操が劉曄に聞いた。
「今から撃ってみても、いいかな」
「だめです。蜀はすでに、安定しつつあります。曹操さまは、好機を逃しました」
何焯はいう。曹操は、赤壁を思い出して、蜀攻めを躊躇した。のちに劉曄は、曹丕に呉攻めを勧めるが、同じ話の焼き直しだ。
…と『集解』がコキおろすように、ただの小説でしょう。
孟達の裏切りを見抜く
延康元年,蜀將孟達率降.達有容止才觀,文帝甚器愛之,使達為新城太守,加散騎常侍.曄以為「達有苟得之心,而恃才好術,必不能感恩懷義.新城與吳、蜀接連,若有變態,為國生患.」文帝竟不易,後達終于叛敗.
延康元年(220年)蜀將の孟達が、軍を率いて、魏に降った。
孟達の容止が才觀なので、文帝はとても孟達を愛した。孟達を新城太守とし、散騎常侍を加えた。
曹丕は、房陵郡、上庸郡、西城郡の3郡を割いて、新城郡とした。孟達に、西南(蜀)への対応を任せた。
劉曄は、考えた。
「孟達は、曹丕さまの恩を感じていません。新城郡は、吳と蜀とつながっています。国のために患いをなすでしょう」
曹丕は、孟達を新城太守から変えなかった。のちに孟達は、劉曄のいうとおり、謀反した。
傅子曰:初,太祖時,魏諷有重名,自卿相以下皆傾心交之.其後孟達去劉備歸文帝,論者多稱有樂毅之量.曄一見諷、達而皆云必反,卒如其言.
『傅子』がいう。
はじめ曹操のとき、魏諷は重んじられ、高官と交流した。のちに孟達が、劉備を去って、曹丕に帰順した。「孟達には、樂毅の器量がある」と多くの人が称えた。
劉曄は、魏諷と孟達をチラッと見ただけで、謀反すると見抜いた。果たして、劉曄の予想したとおりになった。
次回、曹丕や曹叡のとお付き合い。