表紙 > 漢文和訳 > 「劉曄伝」:『三国志集解』を横目に、陳寿と裴注の違いをぶつける

04) 曹丕と曹叡に、やたら反発する

劉曄のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きしながら、抄訳します。自分でも注釈します。

夷陵の戦いをめぐって、大穴を当てる

黃初元年,以曄為侍中,賜爵關內侯.詔問群臣令料劉備當為關羽出報吳不.曄獨曰:「關羽與備,義為君臣,恩猶父子.」

黃初元年、劉曄は侍中となった。関内侯の爵位を賜った。

『集解』がいう。漢魏革命の勧進に、名を連ねた。
鮑勛伝に、劉曄の議論がある。劉曄は「狩猟は、音楽よりすばらしい」と言った。狩猟が好きな曹丕に迎合しただけのエピソード。鮑勛は、曹丕を諌めて音楽をほめた。鮑勛いわく「劉曄は、へつらって不忠です」

曹丕は、劉備について諮った。劉備は関羽の敵討ちをするため、呉を攻めるかと。
劉曄は「劉備と関羽は、表向きは君臣ですが、父子の関係でした」と述べた。のちに劉備は、劉曄だけが予想したとおり、呉に出撃した。

『演義』では義兄弟だが、劉曄は「父子」という。


呉悉國應之,而遣使稱藩.朝臣皆賀,獨曄曰:「無内臣之心久矣.」備軍敗退,吳禮敬轉廢,帝欲興衆伐之,曄以為「必難倉卒.」帝不聽.

呉は劉備に、全力で応戦した。呉は魏に向け、藩屏を称した。
朝臣は、みな祝った。劉曄だけが言った。「孫権は、ながく魏の臣下でいる奴ではありません」

呉は、親友の魯粛がいた国。むかし故郷で進路を迷っていたとき、50%の確率で、劉曄が行った国だ。特別な思いがあるのかな。

劉備を破ると、呉は礼敬を、かなぐり捨てた。曹丕は怒り、呉を討とうとした。劉曄は言った。「曹丕さまは、必ず攻めあぐねます」と。
曹丕は劉曄を却下して、呉を攻めた。

傅子曰:帝曰:「人稱臣降而伐之,疑天下欲來者心,必以為懼!孤何不且受吳降,而襲蜀之後乎?」
對曰:「蜀遠吳近,又聞中國伐之,便還軍,不能止也.

『傅子』が750字の注釈をつける。ちくま訳で3ページ弱。
しかしこの本は小説だ。小説だから名言が多く、悔しいが面白い。しかし、新しい事実を1つも伝えていない。今回は曹丕の名言だけ訳し、あとは省略。

『傅子』がつたえる。曹丕が劉曄にいった。
「人が臣従して降った。それを討伐すれば、天下で魏に降ろうと思っている人は、必ず懼れてしまう。

小説に真剣に突っこむのは、大人げないが。
魏から見て、呉以外のライバルは、蜀。優しくしても、蜀が降るわけない。
話題に出てこない、異民族でも想定したのか。うまくないなあ。

呉の降伏を受け入れ、蜀の後方を襲ってはどうか?」
劉曄は答えた。
「蜀は遠く、吳は近いです。中原の軍が蜀を討伐すると聞けば、蜀は撤退します。中原の軍は、征伐をうまく切り上げられません

曹操に従軍したときと、劉曄の発言が矛盾しないか?
ただ、劉曄は曹操に、蜀に布告&圧迫して降伏させることを勧めた。蜀に攻め込むことは、勧めていない。こう考えれば、矛盾はない。か。


五年,幸廣陵泗口.會群臣,問:「權當自來不?」曄曰:「超越江湖者在於別將.」大駕停住積日,權果不至,帝乃旋師.云:「卿策之是也.當念為吾滅二賊,不可但知其情而已.」

黄初五年、曹丕は廣陵郡の泗口に行った。
曹丕は郡臣に聞いた。「孫権は自ら来るだろうか」
劉曄が答えた。
「長江や洞庭湖を渡ってくるのは、孫権でなく、別の将軍でしょう」
曹丕は足止めを食った。孫権は来ない。曹丕は撤退した。曹丕は、劉曄に言った。
「劉曄の策は、いつも正しい。劉曄は、わが魏のため、呉蜀の2賊を滅ぼしてくれ。ただ敵の心情を悟るだけでは、魏の役に立たない

言われましたね! いつも正しいことを言うのに、君主に受け入れられない。魯粛と孫権の関係性を思い出させます。

明帝の祖先への敬意を、否定する

明帝即位,進爵東亭侯,邑三百戶.詔曰:「其令公卿已下,會議號諡.」
曄議曰:「大魏發跡自高皇始.以為追尊之義,宜齊高皇而已.」
尚書衛臻與曄議同,事遂施行.

曹叡が即位すると、劉曄は東亭侯に進んだ。邑三百戶。

『集解』が明帝紀にリンクを貼る。
『世語』がいう。劉曄だけが曹叡と先に会った。コメントした。「始皇帝や前漢の武帝のたぐいだが、資質がちょっと足りない」
宮中の機密を知るキャラは、裴注だけが形づくってる。

曹叡は詔した。「曹氏の祖先につける、諡号を話し合え」
劉曄は言った。
「曹氏の歴史は、宦官・曹騰さまから始まります。曹騰さまより前の人に、諡号してはいけません

曹叡は、できるだけ代を遡って、号を付けたかっただろう。陳寿の本文で、劉曄はいちいち逆らう人だ。
裴注では「君主に迎合する人」みたいに描かれている。陳寿の本文と正反対なのが、面白い。この列伝が終わるころには、なぞが解けます。

尚書の衛臻も、劉曄と同意見だった。施行された。

229年だ。『集解』は、明帝紀の注『通典』に詳しいとするが、ぼくにはどこにあるのか分からない。

新しく立ち上がった組織の弱さ

遼東太守公孫淵奪叔父位,擅自立.曄以為:不如因其新立,有黨有仇,先其不意,以兵臨之,開設賞募,可不勞師而定也.

遼東太守の公孫淵が、叔父の位を奪って、自立した。劉曄は、考えた。
新たに自立した勢力では、敵も味方も、混ざり合っている。不意をついて攻め、魏に降伏するメリットを言いふらしましょう。力攻めしなくても、平定できます」

揚州の陳策を、この作戦で降した。劉備の益州についても、同じことを言った。次の段でも言われるが、劉曄は新しい組織の不安定を見抜く。そこを狙えば倒れるのだと、こだわる。
劉曄が、揚州で鄭寶を見限り、もっとも保守的な献帝を支持した理由が、このあたりにありそうだ。まして自分で新王朝を狙うなんてね。やるわけない。


曄在朝,略不交接時人.或問其故,曄答曰:「魏室即阼尚新,智者知命,俗或未咸.僕在漢為支葉,於魏備腹心,寡偶少徒,於宜未失也.」

劉曄は朝廷にあって、あまり人と交際しなかった。ある人が、なぜ交際しないか聞いた。劉曄が答えた。

理由を答えたのが実話だとしたら、浅はかだよね。人と交際しない理由は、黙っておかねばならんのだ。質問者もまた「交際相手」の1人だ。「ああ。そんな風に思って、私と接しているのか」と、ドン引きされる。

劉曄は言った。
「魏室は禅譲を受けました。智者は、天命が魏にあると知っています。しかし俗人は、天命の在り処を知りません。私は漢の皇族です。魏に対して、複雑な気持ちです。私があまり人と交際しない理由は、筋が通っているでしょう」

意味が分からん! ちくま訳では、漢の皇族と、魏の腹臣という矛盾した立場のせいにする。ぼくは「備腹心」を、上のように読んでみました。
「私は俗人だから、献帝から曹丕への禅譲に納得がいかん」か?
「誰かが漢の復活を願い、私を担いだら面倒だ」か?
ちなみに『集解』で劉咸キンは、劉曄の友達が少ない理由を暴く。劉曄は、曹操や曹丕と、よく意見が違った。だから重く用いられなかった。劉曄が、わざと他人と距離を置かなくても、仲良くなれなかった、と。


太和六年,以疾拜太中大夫.有閒,為大鴻臚,在位二年遜位,復為太中大夫,薨.諡曰景侯.

太和六年、病気のため、太中大夫になった。大鴻臚を2年やった。また太中大夫。劉曄は、薨じた。「景侯」と贈られた。

漢じゃなくて、魏の「侯」で良いよね?

次回、劉曄の「へつらい」の理由が分かります。