121年、鄧太后が死に、安帝が身内と親政する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
121年2月、鄧太后が死に、安帝が親政
春,護羌校尉馬賢召盧匆++心,斬之,因放兵擊其種人,獲首虜二千餘,忍良等皆 亡出塞。 幽州刺史巴郡馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵擊高句麗,高句麗王宮遣 嗣子遂成詐降,而襲玄菟、遼東,殺傷二千餘人。
121年春、護羌校尉の馬賢は、前年に分裂した当煎を、斬って追い出した。
幽州刺史する巴郡の馮煥と、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷らは、高句麗を撃つ。高句麗はいつわって後漢に降り、玄菟、遼東で2千余人を殺傷した。
121年2月、鄧太后は寝こんだ。2月癸亥、天下を赦した。3月癸巳、鄧太后は報じた。大斂の前に、安帝は鄧騭を上蔡侯、特進とした。2月丙午、和熹皇后(鄧太后)を葬った。
初平年間、はじめて蔡邕は、鄧皇后に「和熹」を贈る。安帝の閻皇后、順帝の梁皇后より以下、みな同じパタン。
鄧太后が臨朝してより、水旱は10載。四夷は外侵し、盜賊は內起した。いつも鄧太后は、民の飢えを聞いた。鄧太后は、朝まで眠れず、みずから食事を減らした。天下は平らかにもどり、豊作となった。
安帝は、はじめて親政する。尚書の陳忠は、隱逸および直道之士を薦めた。穎川の杜根、平原の成翊世らである。安帝は採用した。
陳忠は、陳寵の子だ。
はじめ鄧太后が臨朝したとき、杜根は郎中だ。杜根は、鄧太后に上書した。「安帝は年長だ。親政させよ」と。鄧太后は大怒し、殿上で撲殺しようとした。杜根は逃げて、目にウジをわかせ、死んだふりをした。南郡の山中に、15年かくれた。
成翊世は、鄧太后を諌めて、罪をうけた。
2010年の冬休みの初めは、鄧太后に染まった。列伝を読もう。っていうか、鄧禹伝を読もう。分量が多いが、やりたい。
ぼくは思う。内憂と外患は、並列でなく、二者択一だ。外に脅威があれば、内は団結する。外に脅威が去れば、内で紛争する。『資治通鑑』で後漢が該当する。なぜぼくは、これを強調するか。前職での経験のせい。営業部署は、社外で叩かれるため、社内で団結。内勤部署は、社内に敵を見つけて、要らぬ対立をしたがる。当事者として、上司を失脚させ、つぎはぎゃくに、失脚させられた実体験がある。
順帝は、杜根を侍御史に、成翊世を尚書郎とした。ある人が杜根に問う。「杜根は、言いたいことを言って、鄧太后から禍いを受けた。天下に義とされるが、動機を知られない。なぜ鄧太后に直言したのか」と。杜根は言った。「うっかり言っちゃった」と。
2月戊申、清河孝王を孝德皇とした。皇妣の左氏を、孝德后とした。祖妣の宋貴人を、敬隱后とした。はじめ(082年)、長樂太僕の蔡倫は、竇皇后に命じられて、安帝の祖母・宋貴人を誣陷した。安帝は、蔡倫を毒死させた。
121年夏、鄧太后の一族を、ほぼ殺す
己巳,令公卿下至郡國守相各舉有道之士一人。尚書陳忠以詔書既開諫爭,慮言事 者必多激切,或致不能容,乃上疏豫通廣帝意曰:「臣聞仁君廣山藪之大,納切直之謀, 忠臣盡謇諤之節,不畏逆耳之害,是以高祖捨周昌桀、紂之譬,孝文嘉袁盎人豕之譏, 武帝納東方朔宣室之正,元帝容薛廣德自刎之切。今明詔崇高宗之德,推宋景之誠,引 咎克躬,諮訪群吏。言事者見杜根、成翊世等新蒙表錄,顯列二台,必承風響應,爭為 切直。若嘉謀異策,宜輒納用;如其管穴,妄有譏刺,雖苦口逆耳,不得事實,且優遊 寬容,以示聖朝無諱之美;若有道之士對問高者,宜垂省覽,特遷一等,以廣直言之 路。」書御,有詔,拜有道高第士沛國施延為侍中。
121年夏4月、高句麗と鮮卑が、遼東を寇した。蔡諷は追擊し、新昌で戰歿した。遼東の功曹掾と兵馬掾も、陣没した。
4月丁巳、安帝の嫡母・耿姬を、甘陵(劉慶の陵)の大貴人とした。
4月甲子、樂成王の劉萇が、驕淫で不法だから、蕪湖(廬江)侯に貶めた。
4月己巳,公卿から郡國の守相まで、有道之士を1人ずつ挙げさせた。この命令が、物議をかもすリスクがある。尚書の陳忠は、安帝の意図をくみとり、上疏した。「いま安帝は、杜根、成翊世らを、新たに用いた。有道之士に、きちんと耳を傾ける準備がある」と。約束どおり、沛國の施延が採用され、侍中となった。
汝南の薛包は、父の後妻にいびられたが、孝をやりとげた。財産の分配で、モメなかった。安帝は、薛包を侍中とした。
おさない安帝は、聡明だった。ゆえに鄧太后は、安帝を立てた。だが成長し、安帝は不德がおおい。鄧太后は、濟北王と河間王の子を、京師に集めて教育した。河間王の子・劉翼(桓帝の父)は、容儀は美しい。鄧太后は劉翼を奇とし、平原懷王を嗣がせ、京師にとどむ。
乳母の王聖は、鄧太后が安帝を廃し、劉翼を立てると見た。王聖は、中黃門の李閏、江京と、つるむ。安帝は、鄧太后に忿懼を懷く。鄧太后が死ぬと、安帝は、鄧氏を一掃した。みな殺され、鄧隲は帰国させられた。
5月丙申、平原王の劉翼を、都郷侯に貶め、河間にかえす。劉翼は賓客を謝絕し、閉門した。だから、安帝に殺されず。
121年夏、硃寵が、鄧氏を名誉回復する
はじめ鄧皇后た立つとき。太尉の張禹、司徒の徐防は、司空の陳寵ともに、鄧皇后の父・鄧訓を追封したい。陳寵は、前例がないから、反対した。ゆえに陳寵の子・陳忠は、鄧氏のもとで、志を得ず。鄧隲らが敗れ、陳忠は尚書となった。しばしば上書して、陳忠は鄧氏への怨みを晴らした。
大司農する京兆の硃寵は、鄧隲の無罪をいい、肉袒・輿櫬して上疏した。「鄧太后は、善政をした」と。陳忠は、硃寵を劾奏した。硃寵を免官し、田裡に帰した。
鄧隲の無罪をいう人が多い。安帝は、鄧隲らを北芒に改葬し、鄧氏の從昆弟らを、京師にもどす。
鄧太后の自負を、濃厚に引きつぎ、エスカレートさせたのが、つぎの梁冀。
121年夏、楊震が、安帝の身内を攻撃
帝以江京嘗迎帝於邸,以為京功,封都鄉侯,封李閏為雍鄉侯,閏、京並遷中常侍, 京兼大長秋,與中常侍樊豐、黃門令劉安、鉤盾令陳達及王聖、聖女伯榮扇動內外,競 為侈虐;伯榮出入宮掖,傳通姦賂。
安帝は、嫡母の耿氏、祖母の宋氏、皇后の閻氏を、高位につけた。ここにおいて、内寵は初めて盛んだ。
安帝は、宦官の江京と李閏らと、乳母の王聖、王聖の娘・王伯榮を、取り立てた。內外を扇動し、競って侈虐した。
震上疏曰:「經制,父死子繼, 兄亡弟及,以防篡也。伏見詔書,封故朝陽侯劉護再從兄瑰襲護爵為侯;護同產弟威, 今猶見在。臣聞天子專封,封有功;諸侯專爵,爵有德。今瑰無佗功行,但以配阿母女, 一時之間,既位侍中,又至封侯,不稽舊制,不合經義,行人諠譁,百姓不安。陛下宜 鑒鏡既往,順帝之則。」
司徒の楊震が、順帝と乳母をとがめた。安帝は乳母に、楊震の上疏を見せた。乳母は、楊震に忿恚を抱いた。
尚書する廣陵の翟瑰は、上疏した。「竇氏と鄧氏は、皇帝を弄んだ。だがいま閻氏は、漢室の歴史で、もっともひどい。ゼイタクをやめよ。安帝は、忠貞之臣をもとめ、佞諂之黨を殺せ」と。安帝は、省みず。
ぼくは、安帝を弁護したいが、身内を高位にあげたのは、「曲筆」しにくい事実だろう。「閻皇后の執政が短いから、歴史家に責められた」と言いにくい。また范曄は、「後漢は宦官が滅ぼした」という認識をもつ。宦官の悪行は、増幅されるかも。だが、乳母の悪行は、増幅されない。安帝のアンバランスな人事は、事実なんだ。
安帝の朝廷の人事は、きわめて狭い身内だけで、運営された。だから(と因果づけて良いのか、自信がありませんが)、袁氏がオモテに出てこない。安帝、つまらんなあ。『資治通鑑』を読む前、安帝をよく知らないから、興味があった。でも読んでみれば、宮城谷『三国志』の範囲を出るものでない。ガッカリ。
121年秋、安帝は馮魴の孫と、10日飲む
燒當羌忍良等,以麻奴兄弟本燒當世嫡,而校尉馬賢撫恤不至,常有怨心,遂相結, 共脅將諸種寇湟中,攻金城諸縣。八月,賢將先零種擊之,戰於牧苑,不利。麻奴等又 敗武威、張掖郡兵於令居,因脅將先零、沈氐諸種四千餘戶緣山西走,寇武威。賢追到 鸞鳥,招引之,諸種降者數千,麻奴南還湟中。
121年秋7月己卯、建光と改元し、天下を赦した。
7月壬寅、太尉の馬英が薨じた。
校尉の馬賢は、燒當羌の後継に、恩を売れない。8月、金城、武威、張掖を攻められた。李賢は、諸羌を降した。燒當羌は、湟中にひいた。
121年7月甲子、さきの司徒の劉愷を、太尉とした。はじめ、清河相の叔孫光は、ワイロの罪で、子の代まで禁錮された。
いま居延都尉の范邠も、ワイロの罪を犯す。朝廷は、子の代まで禁錮したい。ひとり劉愷だけ、反対した。「『春秋』で、善善は子孫におよび、惡惡は本人にとどめる」と。尚書の陳忠も賛成したので、本人だけ禁錮とした。
戊子,帝幸衛尉馮石府,留飲十許日,賞賜甚厚,拜其子世為黃門侍郎,世弟二人 皆為郎中。石,陽邑侯魴之孫也,父柱尚顯宗女獲嘉公主,石襲公主爵,為獲嘉侯,能 取悅當世,故為帝所寵。京師及郡國二十七雨水。
鮮卑は、居庸關を寇した。121年9月、雲中太守の成嚴が、鮮卑に敗れた。鮮卑は、烏桓校尉の徐常を、馬城にかこむ。度遼將軍の耿夔と、幽州刺史の龐參は、廣陽、漁陽、涿郡から、兵を発した。鮮卑は、かこみを解いた。
9月戊子、順帝は、衛尉の馮石の役所で、10日ばかり飲んだ。馮氏の子弟に、官爵をバラまく。馮石は、陽邑侯の馮魴の孫だ。父の馮柱は、章帝の獲嘉公主をめとる。馮石は、公主の爵をつぎ、獲嘉侯となる。安定に寵された。京師および郡國27で、雨水あり。
121年冬、三年喪をやめる
尚書令示殳諷等奏,以為「孝文皇帝定約禮之制,光武皇帝絕告寧之典,貽則萬世, 誠不可改,宜復斷大臣行三年喪。」尚書陳忠上疏曰:「高祖受命,蕭何創製,大臣有 寧告之科,合於致憂之義。建武之初,新承大亂,凡諸國政,多趣簡易,大臣既不得告 寧而群司營祿念私,鮮循三年之喪以報顧復之恩者,禮義之方,實為雕損。陛下聽大臣 終喪,聖功美業,靡以尚茲。《孟子》有言:『老吾老,以及人之老;幼吾幼,以及人 之幼,天下可運如掌。』臣願陛下登高北望,以甘陵之思揆度臣子之心,則海內鹹得其 所。」時宦官不便之,竟寢忠奏。庚子,復斷二千石以上行三年喪。
121年冬11月己丑、郡國35で地震あり。
鮮卑が玄菟を寇した。
尚書令の[示殳]諷らは、三年喪を辞めろと言った。「文帝も光武帝も、三年喪をやめた」と。尚書の陳忠は上疏して、三年喪の継続を言った。陳忠は却下され、11月庚子、ふたたび二千石以上は、三年喪をやめた。
121年12月、高句麗と濊貊が、しばしば玄菟を攻めた。この歳、高句麗王が死んだ。玄菟太守の姚光は、高句麗を攻めたい。だが陳忠は、「高句麗王の死に浸けこむのは、義じゃない」と言った。安帝は、陳忠をもちいた。101229