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152年、拘彌国と于窴国が抗争する

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

152年春、西域のドタバタ

孝質皇帝元嘉二年(壬辰,公元一五二年) 春,正月,西域長史王敬為於窴所殺。初,西域長史趙評在於窴,病癰死。評子迎 喪,道經拘彌。拘彌王成國與於窴王建素有隙,謂評子曰:「於窴王令胡醫持毒藥著創 中,故致死耳!」評子信之,還,以告敦煌太守馬達。

152年春正月、西域長史の王敬は、于窴に殺された。
はじめ西域長史の趙評は、于窴で病死した。

胡三省はいう。西域伝と評によれば、趙評は元嘉元年(151年)に死んだ。

趙評の子は、趙評の死体を運び、拘彌をとおる。拘彌王の成國と、于窴王の建は、仲がわるい。拘彌王は、趙評の子に、ウソを言った。「趙評は、于窴に毒殺された」と。趙評の子は、これを信じた。
趙評の子は、後漢にもどり、敦煌太守の馬達に告げた。「父が于窴に殺されました」と。

會敬代為長史,馬達令敬隱核於 窴事。敬先過拘彌,成國復說雲。「於窴國人欲以我為王;今可因此罪誅建,於窴必服 矣。」敬貪立功名,前到於窴,設供具,請建而陰圖之。或以敬謀告建,建不信,曰: 「我無罪,王長史何為欲殺我?」旦日,建從官屬數十人詣敬,坐定,建起行酒,敬叱 左右執之。吏士並無殺建意,官屬悉得突走。

たまたま王敬は、趙評のつぎに西域長史となった。馬達は王敬に、前任の趙評が、于窴に毒殺されたと告げた。
王敬と馬達は、拘彌と于窴との、2国の対立に巻き込まれた。

時成國主簿秦牧隨敬在會,持刀出,曰: 「大事已定,何為復疑!」即前斬建。於窴侯、將輸僰等遂會兵攻敬,敬持建頭上樓宣 告曰:「天子使我誅建耳!」輸僰不聽,上樓斬敬,懸首於市。輸僰自立為王;國人殺 之,而立建子安國。馬達聞王敬死,欲將諸郡兵出塞擊於窴;帝不聽,征達還,而以宋 亮代為敦煌太守。亮到,開募於窴,令自斬輸僰;時輸僰死已經月,乃斷死人頭送敦煌 而不言其狀,亮後知其詐,而竟不能討也。

桓帝は、ゴタゴタに巻き込まれた馬達をやめ、宋亮を敦煌太守にした。宋亮は真相に気づいたが、あとの祭りだ。

あんまり興味がないので、超ザックリ。すみません。出来事だけが、淡々と並んでいる。登場人物を知っていれば、感情移入できるのだろうが。拘彌と于窴って、どこやねん、というレベルの関心。
ともあれ、西域の国が、後漢の赴任者をまきこみ、抗争したことは分かった。


152年夏~、桓帝の母が崩ず

丙辰,京師地震。夏,四月,甲辰,孝崇皇後匽氏崩;以帝弟平原王石為喪主,斂送制度比恭懷皇後。 五月,辛卯,葬於博陵。

正月丙辰、京師は地震した。
152年夏4月甲辰、孝崇皇後の匽氏が崩じた。桓帝の弟・平原王の劉石が、喪主だ。恭懷皇後とおなじに葬送した。5月辛卯、匽氏を博陵に葬った。

胡三省はいう。恭懷皇後とは、和帝の母・梁氏だ。
ぼくは補う。いま死んだのは、桓帝の母です。ところで和帝は、母が梁氏で、皇后が鄧氏だ。梁氏と鄧氏が、和帝でつながる。和帝の父は、章帝。章帝の子から、後漢の王室は横に広がり、牽制が始まる。なにか、あるなあ。


秋,七月,庚辰,日有食之。
冬,十月,乙亥,京師地震。 十一月,司空黃瓊免。十二月,以特進趙戒為司空。

152年秋7月庚辰、日食した。
152年冬10月乙亥、京師は地震した。
11月、司空の黃瓊を免じた。12月、特進の趙戒を司空とした。101202