172年、曹節と王甫が、竇太后の死体をいびる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
172年春、胡広と侯覧が死ぬ
172年正月、霊帝の車駕は、原陵ゆく。司徒掾する陳留の蔡邕は、言った。「私は聞きます。古代は、墓を祭らずと。朝廷には、上陵の礼があり、損ずべきという。今日の威儀を見ると、上陵の礼の、本意が分かる。後漢の明帝は、至孝で惻隱だった。易えずに奪うと。煩わしい礼でも、省くなというのは、これを言及したものだ」
172年3月壬戌、太傅の胡廣が薨じた。82歳だ。胡広は、四公をした。30余年で、6帝につかえた。禮任はきわめてすぐれ、1年よりながく離職せず、すぐに昇進した。
ぼくは思う。初就職で、司空になったのでは、なかろう。31年よりも長いはず。安帝を含む「六帝」と、矛盾するじゃん。ところで。日本のサラリーマンは、40年弱働く。もちろん人間の寿命はが、後漢と現代日本じゃちがうけど。つまり、日本のサラリーマンがふつうに働く期間に、安帝から霊帝まで、皇帝が代わったのか。後漢って、短いなあ。
胡広は、天下の名士を辟した。故吏の陳蕃と李鹹は、どちらも三公になった。
知識があり、文章がうまい。京師の人はいう。「分からなければ、胡広に聞け。バランスのよい回答が聞ける」と。
ただし胡広は、ときに媚びたから、天下に軽んじられた。
172年5月己巳、天下を赦して、熹平と改元した。長樂太僕の侯覽は、專權で驕奢したから、印綬を没収された。自殺した。
172年六月、京師は大水した。
172年夏、竇太后が死に、宦官は死体を暴きたい
竇太后の母が、比景で死んだ。172年6月癸巳、竇太后も雲台で死んだ。宦官は、竇氏に怨みが積もる。太后の死体を城南の市舎においた。数日して、曹節と王甫は、貴人の禮殯で弔おうとした。霊帝は反対した。「竇太后は、私を皇帝に立てた。貴人でなく、皇后として弔え」と。竇太后を、皇后として弔った。
曹節らは、竇太后を、馮夫人とセットで葬りたい。
霊帝は朝堂で、竇太后をどこに葬るか、話し合う。中常侍の趙忠が、議題をセットした。
太尉の李鹹は病身をおして、杖で出勤する。李鹹は、妻子に言った。「もし竇太后を桓帝とセットにできなければ、私は生きて還らない」と。
数百人は、曹節に反対しない。趙忠は言った。「竇太后は、桓帝とセットにしない。決まった」と。廷尉の陳球が、趙忠に反対した。「竇太后は、良家の出身で、臨朝した。桓帝とセットにすべきだ。馮貴人は、陵墓を暴かれ、骸骨をさらした。ここに竇太后を葬るな」と。
ぼくは思う。曹節は、竇太后の死体をあばくつもりだ。桓帝とセットにされたら、さすがに、あばけない。だから、桓帝と竇太后を、別にしたい。
趙忠が、陳球を笑った。陳球は言った。「陳蕃と竇武は、冤罪だった。竇太后が幽閉された。私は心を痛めた。天下は憤歎した」と。
ところで。原文にある、趙忠の議長ぶりがおもしろい。宦官は、発言者にイチイチ、からかいを入れながら、話し合いを仕切ったらしい。
李鹹が言った。「私は、陳球と同意見だ」と。公卿より以下は、みな陳球に同意した。曹節と王甫は、言った。「桓帝の梁皇后は、桓帝とべつに葬った。竇太后も、梁太后とおなじだ。桓帝とセットにするな」と。李鹹は言った。「後漢の章帝の竇皇后と、安帝の閻皇后は、悪逆をした。だが、つぎの和帝と順帝は、竇皇后と閻皇后を、章帝や安帝とべつにしかなかった。まして竇太后は、霊帝をたて、正しい政治をした。桓帝とセットがよい」と。霊帝は、竇太后を桓帝とセットにした。
172年秋、司隷校尉の段熲、張奐を屈服させる
有人書硃雀闕,言:「天下大亂,曹節、王甫幽殺太后,公卿皆屍祿,無忠言者。」 詔司隸校尉劉猛逐捕,十日一會。猛以誹書言直,不肯急捕。月餘,主名不立;猛坐左 轉諫議大夫,以御史中丞段熲代之。熲乃四出逐捕,及太學游生系者千餘人。節等又使 熲以它事奏猛,論輸左校。
172年秋7月甲寅、桓思皇后(竇太后)を、宣陵に葬った。
硃雀門に書かれた。「天下は大乱した。曹節と王甫は、竇太后を幽殺した。公卿に、忠言する人はいない」と。司隸校尉の劉猛は、1ヶ月余り、犯人を捕えず。劉猛は、諫議大夫に左遷された。
劉猛にかえて、御史中丞の段熲を、司隷校尉とした。段熲は、太学生を1千余人つないだ。曹節は段熲をつかい、劉猛を輸左校した。
司隸校尉の王寓は、宦官をたよる。王寓は、太常の張奐を、司隷校尉にしたい。張奐は拒んだ。ついに王寓は、著漢を禁錮にした。張奐はかつて段熲と、羌族の討伐を競ったことがある。張奐と段熲は、不仲だ。段熲が司隷校尉となると、張奐を敦煌におくり、殺すつもりだ。
ぼくは補う。敦煌は、170年冬に、涼州刺史の孟佗が、疏勒を討てなかった。治まらない。漢族は住めない。ぼくは思う。宦官派の人は、孟佗も段熲も、一本調子に攻めるだけ。ものすごくコストをかけるわりに、治安が悪化する。曹操の烏桓征伐は、おなじ流れにいないかなあ。対する袁氏は、梁冀派の流れをくみ、異民族と折り合う。
張奐は、段熲に哀願した。張奐は、敦煌にゆかず。
はじめ魏郡の李暠は、司隸校尉となった。李暠は、旧怨があるから、扶風の蘇謙を殺した。李暠は大司農に遷ったあと、蘇謙の子・蘇不韋は仇討ちして、李暠の妻子を殺し、李暠の亡父の首をさらした。李暠は、憤死した。蘇不韋は、仇討ちを果たし、父の蘇謙に報告した。
さて張奐は、蘇謙と仲がよい。段熲は李暠と仲がよい。段熲は(政敵の)蘇不韋を司隸從事にした。蘇不韋は病だとして、司隷校尉の段熲に仕えず。段熲は、蘇氏の一門60余人を殺した。
172年冬、渤海王と陽明皇帝の謀反
渤海王の劉悝は、癭陶侯におちた。劉悝は、中常侍の王甫に頼んだ。「5千万を送るから、渤海国に戻せ」と。桓帝の遺詔のおかげで、劉悝は渤海王にもどった。王甫のおかげでないから、劉悝は、王甫に支払わず。中常侍の鄭颯と、中黃門の董騰は、劉悝に通じる。
172年10月、王甫は段熲をつかい、鄭颯と董騰を捕えた。王甫は拷問して、鄭颯と董騰に、劉悝の大逆を証言させた。劉悝は自殺した。劉悝の妃妾11人、子女70人、伎女24人、傅や相が殺された。王甫ら12人は、列侯になった。
十二月,司徒許栩罷,以大鴻臚袁隗為司徒。 鮮卑寇并州。 是歲,單于車兒死,子屠特若屍逐就單于立。
172年11月、會稽の妖賊・許生が、句章で起兵した。許生は、陽明皇帝を名のり、1万人の兵がいる。揚州刺史の臧旻と、丹楊太守の陳寅は、許生を討った。
172年12月、司徒の許栩をやめ、大鴻臚の袁隗を司徒とした。
ぼくは思う。袁紹も袁術も、袁隗に冷たい。袁隗を洛陽に残して、出奔してしまう。董卓から逃げる。袁紹も袁術も、宦官がキライだ。叔父の袁隗を、快く思っていなかったかも。
鮮卑が并州を寇した。この歳、單于の車兒が死んだ。子の屠特若屍逐就單于が立った。101211