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『後漢書』本紀7、桓帝とは何者か
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1)少年皇帝の憂鬱
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桓帝は、在位が146年~167年。はじめに『三国演義』に登場する霊帝の1つ前の皇帝です。
在位はけっこう長いのに、いまいち顔が見えてこない。そういうわけで、退屈になるリスクを抱えつつ、本紀を口語訳してみようと思います。ややこしい固有名詞は、ガンガン省略していきますが笑
つまらなくても、見やすい年表が出来ればヨシとしましょう!
楽毅が使えた桓公の例があるように、「桓」の諡号は、国土を広げたというプラス評価で使われます。ろくでもない政治腐敗のイメージが付きまとう、後漢ノ桓帝ですが、なぜそんな名前をもらったのだろうか。解明を出来たらと思っています。
孝桓皇帝、姓名は劉志で、章帝の曾孫である。
『逸周書』諡法解によれば、「桓」とは、敵に勝って遠方まで従えるという文字だ。またあざなは、意だ。
祖父は河間孝王・劉開、父はレイ吾侯・劉翼、母はエン氏。劉翼が死に、劉志が爵位をついで、レイ吾侯となっていた。
146年 梁太后は劉志を呼んで、夏門亭(洛陽城の北面西頭の門)に来させた。梁太后は劉志に、妹(梁氏)を娶わせた。
たまたま質帝が死ぬと、梁太后は兄の大将軍・梁冀とともに、禁中で相談した。
「誰を次の皇帝にすべきだろうか」
閏6月、梁冀に節(竹の柄に旄牛の尾を飾る)を持たせて、王が使う青蓋車に劉志を乗せ、南宮に入らせた。その日、劉志は皇帝になった。
ときに15歳。梁太后は、ひきつづき臨朝した。政治を執ったのは、却非殿(洛陽の南宮にある)である。
7月、質帝を静陵に葬った。
斉王・劉喜(光武帝の兄の5代孫)が死んだ。
桓帝は、高廟(前漢の歴代皇帝)と光武廟(劉秀)に参った。
詔した。
「孝廉に推挙されるような役人は、地方官になって民を養い、不正を禁じ、立派なことを行うべきだ。異民族を教化するときも、この原則に従え。いちいち細かいことを詔で言うのは、地方政治がダラけており、官吏の選抜はチグハグで、弊害があちこちに及んでいるからだ。(質帝時代より)規律を正そうとしても、懲りてない。 淮夷(廬江と広陵の賊)は滅びておらず、出兵の回数が多くて、百姓は徴発に苦しんでいる。役人たちは、疲れた民を恵み、腐敗を一掃して、吉祥を祈ってくれ。 百石以上の官秩を10年以上もらっている人のうち、優れた才能・行動がある人に、人事権を与えよう。収賄した役人の子孫は、推挙してはいけない。いかがわしい請託(情実に訴えて、こっそり頼むこと)は、原因から根絶させよ。廉白で道を守る人のみさおを、伸ばしてやれ。自分のやるべき仕事をやれ。今後の成り行きを、見守っているぞ」
9月、桓帝の祖父の劉開を「穆皇」といい、祖母の趙氏を「穆皇后」といった。桓帝の父の劉翼を「崇皇」といった。 10月、桓帝の母のエン氏を尊んで、「崇博園貴人」とした。「博」は、レイ吾県の地名。貴人は皇后の次位で、金印紫綬を持てる。
147年 正月、日蝕があった。
三公、九卿、校尉(城門・屯騎・越騎・歩兵・長水・射声など)は、桓帝の政治の得失を述べた。 天下に大赦した。 辺境の兵役を1年免除し、男子の爵を2級を上げ、父を継いだ人と郷(県の下部機関)の役人は3級を上げた。配偶者や親を失った人、老人や病人や貧乏人には、5石の粟を与えた。貞淑な女子には布を3匹与えた。災害で40%以上の耕地を失えば、田租を免除した。40%未満の損耗ならば、被害に合わせて田租を減らした。
2月、荊州・揚州で、多くが餓死した。四府(大将軍+三公)の掾(属官)を遣わして、救済した。
沛国で「黄龍が譙に現れた」と報告があった。
4月、洛陽に地震があった。
大将軍以下に、賢良方正の科目へ、直言極諌できる人を1人ずつ挙げさせた。列侯以下に、密封した意見書を出させて、政治へのコメントを集めた。大将軍以下に、至孝篤行の人を1人ずつ挙げさせた。
詔があった。
「州郡の長官は、強迫して役人を辞めさせてはならない。30万銭以上の贈賄している役人を見逃せば、それを長官の罪とする。自分の勝手で役人を任命すれば、殺人と同じように棄市(公開処刑)とする」
また詔があった。
「質帝の陵墓を作る労役が、年をまたがり、大事業となった。墓の建設に従事する罪人は、よく働いている。近ごろ雨が降らず、濃い雲が出ても散ってしまうのは、罪人の働きに報いないことが原因か。彼らを減刑し、刑期を6ヶ月短縮せよ」
この月、阜陵王・劉代の兄で、勃遒亭侯の劉便を立てて、阜陵王とした。劉便は光武帝の玄孫で、阜陵王・劉恢の子である。
6つの郡国で、地が裂けて、水が湧き井が溢れた。梁太后が摂政し、梁冀が李固・杜喬を無実の罪で殺したからだと言われる。
霊芝(草)が、中黄蔵府(禁中の金庫係の役所)に生えた。
6月、大尉・胡広を罷免し、大司農・杜喬を大尉にした。
7月、渤海王・劉鴻が死んだ。桓帝の弟で、レイ吾侯の劉悝を渤海王とした。 後から謀反の事件を起こす人です。
8月、皇后に梁氏(梁太后の妹)が立った。
9月、洛陽で地震があり、大尉・杜喬を罷免した。
10月、司徒・趙戒(あざなは志伯、蜀郡の人)を大尉とした。司空・袁湯を司徒とした。前ノ大尉・胡広を司空とした。 袁湯は、袁紹と袁術の祖父です。
11月、済陰郡で「五色の大鳥が、己氏(邑の名)に現れた」と報告があった。梁冀の専権を批判する、鳳凰による凶兆である。
天下の死罪一等を免じて、辺境を守らせた。
清河国の劉文が叛いて、国相の謝暠を殺した。清河王・劉蒜を天子に立てようとしたが、事前に発覚して誅せられた。
前ノ大尉・李固と杜喬が、獄死した。
陳留郡の盗賊・李堅が皇帝を称したが、誅に伏した。
148年 正月、桓帝は元服した。天下に大赦した。
河間王・劉建と、渤海王・劉悝に、100斤ずつ黄金を賜った。彭城王・劉定らには、50斤ずつ賜った。公主(娘)、大将軍以下の臣下、四姓(外戚の樊・郭・陰・馬)、梁氏と鄧氏の小侯、諸夫人(列侯の妻)には、それぞれ布を与えた。80歳以上の老人には、米・酒・肉を賜った。90歳以上には、布2匹、真綿を3斤加えた。
元服の時点で、すでに娘がいたのですね。別にいいけど、だったらちゃんと皇子を遺してほしかったと思います。
3月、桓帝は皇太后に従って、梁冀の府に行幸した。
白馬羌、広漢属国に攻め込み、長吏を殺した。益州刺史は、板楯蛮を率いて、白馬羌を討った。
のちの蜀の足かせ&主力になる異民族たちです。
4月、桓帝の弟の劉顧を平原王として、父の祀りを任せた。父の夫人(桓帝の母ではない)の馬氏を尊んで、「崇園貴人」とした。穂が付いた稲が、大司農の蔵に生えた。吉祥である。
桓帝が弟に親孝行をさせたから、勝瑞なのか?
5月、北宮の後宮にある徳陽殿と左エキ門で火事があった。桓帝は北宮から、南宮に移った。
6月、清河国を改めて、甘陵国とした。安平王・劉得(桓帝の叔父)の子である経侯・劉理(桓帝の従弟)を立てて、甘陵王とした。
7月、洛陽で洪水。河東郡で、木連理(2本の木の枝が、1つに連なる吉祥)があった。
10月、長平郡の陳景は、「黄帝子」と号して、官僚組織を作った。南頓郡の管伯は「真人」と称して、陳景とともに挙兵を狙ったが、誅に伏した。いずれの称号も、神仙のニュアンスを含む。
黄巾のさきがけですね。
■おぼえがき
これといった桓帝の動きは見えませんが、梁冀がおおい被さっているからでしょう。
災害がめちゃめちゃ多く、その救済に回っているだけです。後手後手の政策ですが、あまり意味がなさそう。大赦が多いのも、乱世の予感ですね。大赦でもしないと、誰も後漢に従ってきてくれない。
「淮夷」と呼ばれた、九江・広陵あたりの賊乱は、いちおうは終息したのでしょうか。
これだけ金銭をバラ撒いたら、国庫がカラになるのは道理で、霊帝が商業主義(っていうか商売)に走る理由が分かる気がします。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
『後漢書』本紀7、桓帝とは何者か
1)少年皇帝の憂鬱
2)旱・水・蝗・日蝕・地震
3)桓帝のクーデター
4)黄老世界に逃避行
5)桓帝期=曹操の版図
6)皇子殺害の勅令?
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