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『後漢書』本紀7、桓帝は何者か
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2)旱・水・蝗・日蝕・地震
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149年 3月、彭城王・劉定(明帝の曾孫)が死んだ。
5月、詔があった。
「天は人民を作ったが、天が直接治めることはできない。だから『君』を立てて、人民を治めさせた。君主の政治が正しければ、吉祥が天文に現れる。政治が秩序を失うと、凶兆が天文に現れる。最近は、日蝕があり、陽光が暗くなったから、朕は懼れて、くつろぐヒマがない。古典には、日蝕があれば徳を修め、月食があれば刑を修めろと書いてある。
むかし3代章帝は、前漢の強制移住を緩和した。だから建初(76年-84年)に、受刑者を故郷に帰らせ、奴婢に落とされた人を庶民に戻した。朕も同じように務めよう。
126年(順帝即位)から今年までに、連座した親族や、死刑を減じて辺境守備に生かされた人を、本籍地に帰せ。しかし財産を没収して奴婢にされた人は、対象外とする」
6月、大将軍以下に、賢良方正で、直言極諌できる気骨のある人を、1人ずつ挙げさせた。
順帝陵の寝廟の建物が、震動した。
罪を減じたことのお礼なのか?今になって、順帝の時代の判決に口を出した恨みなのか?
7月、北地郡の廉県に肉の雨が降った。 『続漢書』によれば、肉はヒツジの肺に似ていて、手ぐらいの大きさだった。『洪範五行伝』には、「法律を棄てれば、羊禍や赤祥がある」とある。肉の雨は、梁冀が李固・杜喬を冤罪で殺したから降ったのだ。
『後漢書』の注は、何でも梁冀のせいにするが、降ってきた肉は、桓帝が刑を20年以上を遡って緩めたせいじゃないのか。
8月、ホウキ星があった。洛陽が洪水。
9月、また地震があった。詔して、死罪以下の人と逃亡者を減刑した。5つの郡と国で、山が崩れた。
10月、大尉・趙戒を罷免した。司徒・袁湯を大尉とし、大司農で河内郡の張歆(あざなは敬譲)を司徒とした。
11月、詔があった。
「朕は政治のコツが分からず、災害は連発し、三光(日・月・星辰)は暗くて、陰陽は逆さまだ。寝ても眠れず、起きては嘆き、頭痛がひどい。 洛陽の下賎な役人の家では、死体と枕を並べている(埋葬する余裕がない)。郡県の無数の道路でも、同じ惨状である。周ノ文王は野ざらしの死体を弔ったが、当世はその故事とまるで違う。 家族がいても、貧しくて葬る金がなければ、死人1人に3000銭を与える。喪主には布3匹を与える。もし親族がいなけば、官有の空き地で葬り、姓名を記して祀れ。労役に就いている罪人が病気になれば、医薬を施せ。死ねば、手厚く埋葬せよ。自活できない流浪民には、規定量の穀物を与えろ。州郡の役人は見回りをして、我が民を安らげよ」
これは大変だ。 いくらか修辞は入っているだろうが、桓帝は心身症を発病してしまった。人民が苦しんでいることを嘆いている、というポーズを取ろうと思ったら、もっと派手な表現をすればいい。でも桓帝の詔は、わりに地味です。だから真実味がある。他の詔で、こんな内容は知らないし。梁冀のカゲで、まだ10代の桓帝は苦しんだんだね。
150年 正月、天下に大赦し、和平と改元した。
詔した。
「先年順帝は、子孫を設けて家系を成り立たせることなく死んだ。沖帝と質帝は早世した。この王朝は永年、皇帝の血統を重んじ、良い後継に恵まれることを願い、三公に相談し、占卜を参考にしてきた。 すでに朕という明哲を皇帝に迎えて、帝王の事業を定めた。天と人は協和し、万国は全て寧いだ。朕はもう元服を終えた。これまで政治を梁太后に任せていたが、四方の盗賊たちは静まらない。だから親政をして、天下を安静にしよう。幸い股肱の臣が優秀で、陳景・管伯(神仙の叛乱)を防いでくれたから、民は和らいだ。天下全土が、近きも遠きも1つとなった。 遠い事例では周公が成王に政治を返上したように、近い事例では閻皇后が安帝に政治を返上したように、この佳き日に朕は政務を執ろう。各庁の長官は力を合わせ、金すら断つほどの団結をせよ。太平の世を成そう。朕はそれを望んでいる」
150年の区切りに(笑)桓帝の一大決心!官渡ノ戦まで、あと50年…
2月、扶風郡の妖賊・裴優がみずから皇帝を称したが、誅に伏す。
皇太后・梁氏が死んだ。
3月、桓帝は北宮(後宮)に戻った。
順烈皇后(梁太后)を葬った。
5月、桓帝の母に皇后の称号を贈った。
梁冀の妹が死にました。桓帝は外から入ってきた皇帝だから、母が皇后(皇太后)にはなれなかった。でも、邪魔な梁太后が死んだので、母を皇后位にできた。主導権が、梁氏から離れつつあります。
7月、梓潼郡で山が崩れた。
11月、天下の死罪一等を減じて、辺境を守備させた。
151年 正月、洛陽で伝染病。光禄大夫に医薬を持たせ、視察をさせた。
天下に大赦し、元嘉と改元した。
2月、九江郡・廬江郡で疫病が大流行。
河間王・劉建(章帝の曾孫)が死んだ。
4月、安平王・劉得(桓帝の叔父)が死んだ。
洛陽が日照。
任城国・梁国が飢えて、民は人肉を食べた。
司徒・張歆が罷免され、光禄勲(九卿のひとつ、宮殿の門戸宿営を掌る)の呉雄が司徒となる。
7月、武陵蛮が叛いた。 10月、司徒・胡広を罷免。
11月、洛陽に地震。
閏月、任城王・劉崇(光武帝の玄孫)が死んだ。
太常(九卿のひとつ、礼儀祭祀を掌る)だった黄
瓊を司空とした。
152年 正月、西域将兵長史の王敬が、于テン国に殺された。(長史は大将軍の幕僚だが、大将軍を置かないときは将兵長史と呼ぶ)
洛陽に地震。
4月、崇皇后エン氏(桓帝母)が死んだ。常山王・劉豹(明帝5代の孫)が死んだ。
5月、崇皇后を博陵に葬った。
7月、日蝕があった。
8月、済陰郡の句陽県で、黄龍が現れた。金城郡の允街県で、黄龍が現れた。
黄色は、火徳の漢朝の次の王朝の色です。それにしても、済陰郡は怪異が多いですね。
10月、洛陽で地震。
11月、司空の黄瓊が罷免された。
12月、趙戒を司空とした。右北平太守の和旻が、収賄で獄死した。
153年 2月、張掖郡で白鹿が現れた。
3月、桓帝は鴻池(洛陽の東20里)に行幸した。
5月、天下に大赦し、永興と改元。
済南王・劉広(光武帝の玄孫)が死に、子がいないので国が除かれた。
7月、32の郡国にイナゴの害が発生。黄河が氾濫した。百姓は飢えて、数十万戸が道路に流浪した。冀州がもっとも飢饉がひどかった。各地に命令し、生活困窮者に金品を施し、いたわりの気持ちをかけて落ち着かせた。
10月、大尉の袁湯を罷免し、太常の胡広を大尉とした。司徒・呉雄と、司空・趙戒を免じた。太僕の黄瓊を司徒として、光禄勲の房植を司空とした。
三公に新顔はあまり登場しません。漢朝よ滅べ!と言わんばかりの災害ばかり起きるから、責任を負わせて罷免しているが、そうそう人はいないのでローテーションをやってるみたいです。
11月、詔して死罪の一等を減じて、辺境を守らせた。
この年、武陵太守の応奉(列伝38)が、叛乱した蛮族を招き誘って、降伏させた。
154年 正月、天下に大赦。
3月、刺史と太守に、3年の服喪を再び許した。
洛陽に地震。
公、卿、校尉に、賢良方正で直諌できる人を1人ずつ挙げさせた。
詔して言った。
「近ごろ、星辰は軌道が狂い、大地は振動している。災異が警告したことを見逃してはならない。己を戒めて政治を行い、不徳を少しでも補えればと望む。車や衣服に過剰な装飾をする人がいれば、取り外させよ。郡県は倹約を方針とし、古くからの命令を守り、永平年間(明帝)を模範とせよ」
6月、彭城の泗水が増水して、逆流した。司隷校尉と各刺史に詔した。
「イナゴと洪水のせいで、五穀は実らず、人民は食糧の備蓄をなくした。災害を受けた郡国ではカブラを植えて、食の足しにせよ」
洛陽にイナゴ。東海郡のク山が崩れた。
9月、日蝕。詔した。
「朝廷の政治は、中道を失い、日照り・洪水・イナゴの害がはびこって、百穀を損耗した。日蝕が起き、飢饉はしきりに襲ってくる。害を被らなかった郡県は、飢饉を救済するために、増産せよ。天下は一家に同じだ。助け合って荒廃を防げば、国の宝となるだろう。郡国に酒の販売を禁じ、祭祀用の酒だけをわずかに作らせよ」
大尉・胡広を罷免し、司徒・黄瓊を大尉とした。
閏月、光禄勲の尹頌を司徒とした。天下の死罪一等を減じて、辺境を守らせた。
蜀郡の李伯は宗室と称して、太初皇帝を名乗ったが、誅に伏した。
11月、上林苑(洛陽西)で桓帝は、木柵で囲んだ狩をした。函谷関まで行き、道の途中にいた90歳以上の老人に、それぞれ銭を支給した。
泰山郡や瑯邪郡の賊・公孫挙が叛逆して、長吏を殺した。
次は155年です。三国志にとって、いちばんの画期となる年です。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
『後漢書』本紀7、桓帝とは何者か
1)少年皇帝の憂鬱
2)旱・水・蝗・日蝕・地震
3)桓帝のクーデター
4)黄老世界に逃避行
5)桓帝期=曹操の版図
6)皇子殺害の勅令?
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