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『後漢書』本紀7、桓帝とは何者か
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3)桓帝のクーデター
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155年 正月、天下に大赦。永寿と改元。
曹操が生まれた年になりました。
2月、司隷と冀州が飢えて、人肉を食べた。州郡に命じて、賑給させた。
王侯・官吏・人民のうち、備蓄のある人から、30%を借り上げて、穀物救済に使った。王侯ではない官吏と人民は、銭で代金を払った。王侯には、新たに納税があるのを待ってから支払った。
6月、洛水が溢れて、鴻徳苑を毀した。津城門が浸水し、人と者が漂流した。南陽郡で大水。司徒・房植を免じ、太常の韓エンを司空とした。
詔した。
「泰山郡と瑯邪郡で、賊に襲われた人は、租税と徭役を免除する。更(兵役の代わりに差し出す税)と、算(人頭税)を3年間ゼロとする」
また詔した。
「水害により、屍骸が流れて失った家族は、郡県で捜索して葬れ。圧死・溺死した人は、7歳以上で1人につき2000銭の見舞金を支給する。住宅が損壊し、食料を失った貧しい人は、1人あたり2石を与える」
巴郡・益州郡で、山が崩れた。
7月、賊を平定できないので、初めて泰山郡と瑯邪郡に都尉を置いた。
南匈奴の左イクケン(王号)である台キ(人名)と、且渠(官号)である伯徳(人名)らが叛いて、美稷(内モンゴル)に侵入した。安定属国都尉の張奐が討って、匈奴を除いた。
156年 霊帝と張昭と董昭が生まれた年です。 正月、初めて中官に3年の服喪を許した。(中官とは、常侍より以下で、宦官のこと)
2月、東海王・劉シン(光武帝の玄孫)が死んだ。
3月、蜀郡属国(治所は漢嘉)の異民族が叛いた。
7月、鮮卑が雲中を寇す。泰山郡の賊・公孫挙らは、青州・兗州・徐州の3州を寇した。中郎将・段熲に討伐させ、斬った。
足かけ3年もの叛乱でした。段熲が片付けました。質帝のときの九江・広陵といい、けっこう鎮圧に時間がかかるようです。
11月、太官(天子の食事係)に右監丞(比六百石)を置く。
12月、洛陽で地震。
157年
正月、天下に大赦。
4月、九真郡の蛮夷が叛き、太守の児式(げいしき)が戦没した。九真都尉の魏朗(列伝57・党錮)が打ち破ったが、蛮夷は再び日南を根拠地として残った。
閏月、日蝕があった。
6月、初めて小黄門(宦官)を、守宮令とした。守宮令は六百石で、天子の紙・筆・墨、尚書の財用の諸物や封泥(書簡を封印する粘土)を司る。
冗従僕射の官を置いた。冗従僕射も宦官が就き、六百石。宦官の冗従(閑職の侍従)を司る。天子が御所にいたら宿営し、宿直で門戸を守る。天子が外出したら、騎馬で従い、御輿を警護する。
役職の説明がややこしいですが、我慢して写しました。桓帝が梁冀を倒すための布石でしょう。勅令の出所と、桓帝の身の安全を固めて、クーデターをやるのです。
洛陽で蝗が発生。
7月、河東郡で地が避けた。
11月、司徒・尹頌が死んだ。
長沙蛮が叛き、益陽に寇した。 司空の韓エンを司徒とし、太常だった北海郡の孫朗(あざなは代平)を司空とした。
158年
3月、初めて鴻徳苑令(六百石)を置く。
5月、公卿以下を大々的に集め、賞賜した。
末日、日蝕があった。洛陽でイナゴが発生した。
6月、天下に大赦して、延キと改元した。
中山郡を分けて、博陵郡を設置し、崇皇の陵墓にした。
大いに雨乞いをした。
7月、雲陽で地が裂けた。大尉・黄瓊を免じ、太常・胡広を大尉とした。
10月、桓帝は広成に校狩(木柵で囲った狩り)をして、ついに上林苑(洛陽西)に達した。
12月、鮮卑が寇した。使匈奴中郎将の張奐が、南単于を率いて、鮮卑を打ち破った。
159年
2月、鮮卑が雁門郡を寇した。阜陵王・劉便が死んだ。蜀郡の蛮夷が、蚕陵を寇し、県令を殺した。
3月、刺史と太守が、3年の喪を行うことを禁止した。
夏、洛陽で大雨が降った。6月、鮮卑が遼東を寇した。
7月、顕陽苑を造って、丞を置いた。
桓帝の皇后・梁氏(梁太后の妹)が死に、懿梁に葬った。
やっと!桓帝の時代のクライマックスが訪れます。長かった(笑) この退屈な苦しみは、すなわち桓帝の憂鬱な日々だったのでしょう。天災や叛乱ばかり書かれているのは、梁冀に対する歴史官の批判だから、あまり鵜呑みにしない方がいいのかも知れない。
大将軍の梁冀は、乱を謀った。
8月、桓帝は前殿に出て、司隷校尉・張彪に詔して、兵を率いて梁冀の屋敷を囲ませ、
大将軍の印綬を返還させた。梁冀とその妻は、みな自殺した。衛尉の梁淑(梁冀の親従)、河南尹の梁胤(子)、屯騎校尉の梁譲(叔父)、越騎校尉の梁忠(親従)、長水校尉の梁戟(親従)ら、父方・母方の親族が数十人、みな誅に伏した。
大尉・胡広は連座して罷免された。司徒・韓エンと司空・孫朗は獄に下った。だが彼ら三公は、長寿亭で止まって、死一等を減じられ、爵位を返上することで保釈された。
鄧氏を皇后に立てた。梁皇后(梁冀の妹)を葬った懿陵を廃して、貴人の墓とした。(貴人は皇后の下位)
詔した。
「梁冀は、姦暴で、王室を濁乱した。質帝は聡明で鋭敏で、幼いときから才能豊かだった。しかし梁冀は、心に忌畏を抱いて、質帝を毒殺した。私の母は、朕にとって無二に親しくて尊い人であるが、梁冀は母が洛陽に入ることを遮ってしまった。朕は母子の愛を裂かれ、養育してくれた恩を返せなかった。梁冀の禍・害・罪は、日ごとに多かった。 歴代皇帝の霊と、中常侍の単超・徐コウ・具エン・左ワン・唐衡と、尚書令の尹勲(列伝57・党錮)らが、梁冀に憤慨して策略を設け、朝廷の内外の心を1つにした。彼らは、たちまち凶暴悪逆の人を晒し首にした。これはまことに社稷の幸いで、臣下の力だ。 慶びと褒賞を分かち合って、忠勲に報いよう。5人の宦官を県侯とし、尹勲ら7人を亭侯とする」
桓帝は、古くからのなじみで、私的な結びつきのある人に、多くの爵位を与えた。
大司農・黄瓊を大尉とした。光禄大夫で中山郡の祝恬(あざなは伯休)を司徒とした。大鴻臚で梁国の盛允(あざなは伯代)を司空とした。初めて秘書監(六百石)の官を置いた。
10月、桓帝は長安に行幸した。未央宮に行った。高廟(前漢皇帝たちの廟)を祀った。
11月、前漢皇帝の11陵に事が有った(凶兆カ)。中常侍の単超を車騎将軍にした。
12月、桓帝は長安から戻った。長安の民に、1人あたり10石の粟を賜った。園陵(陵墓を守っている人)には、5石ずつ賜った。道中の3県では、3石ずつ賜った。
焼当(族名)ら8種の羌が叛いて、隴右を寇した。護羌校尉の段熲が、羅亭で羌を打ち破った。天竺国から、使者がきた。
160年
正月、天下に大赦した。車騎将軍・単超が死んだ。
閏月、焼当羌らが叛いて、張掖郡に寇した。護羌校尉・段熲が、積石で打ち破った。白馬県令の李雲(列伝47)が直諌し、獄死した。
4月、上郡で甘露が降った。5月、漢中で山が崩れた。
6月、司徒の祝恬が死んだ。 7月、司空・盛允を司徒として、太常・虞放(あざなは子仲、陳留郡の人)を司空とした。
長沙蛮が、郡の境界を寇した。
9月、泰山郡・瑯邪郡の賊・労丙(人名)らが復た叛き、百姓を襲った。御史中丞の趙氏に節を持たせて、督戦して討たせた。
詔があり、特定の職務がない官は、臨時の措置として俸禄の支給を停止した。豊作の年に、もとに戻す(支給再開する)こととした。
仕事をしなくても、お金をもらってた人がいたのだね。いいなあ。そして、今まで福祉に力を入れてきた桓帝ですが、ついに国庫がヤバいことを暴露しました。
11月、日南の蛮族が、民を率いて郡に降伏した。勒姐羌(族名)が、允街(地名)を包囲したが、段熲が破った。
泰山の賊、叔孫無忌(人名)が攻めてきて、都尉・侯章を殺した。12月に中郎将・宗資を遣わして討たせた。 武陵蛮が、江陵を寇した。車騎将軍・馮コン(列伝28)が討ち、全て降伏・離散させた。荊州刺史・度尚(列伝28)が長沙蛮を討ち、平定した。
列伝28は、周辺民族を攻めた人ばかり載ってるのか。手元に無いので、また今度確かめます。
次の年も、三国志ファンにとっては忘れられない年です。155年に曹操が生まれ、そして161年には、、、
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
『後漢書』本紀7、桓帝とは何者か
1)少年皇帝の憂鬱
2)旱・水・蝗・日蝕・地震
3)桓帝のクーデター
4)黄老世界に逃避行
5)桓帝期=曹操の版図
6)皇子殺害の勅令?
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