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『後漢書』本紀7、桓帝は何者か 4)黄老世界に逃避行
161年
正月、南宮の嘉徳殿で出火した。丙署(宦官が中宮の別邸を管理する役所)で出火した。大いに疫病が流行った。
2月、武器庫で火災。司徒の盛允を免じて、大司農の种暠(列伝46)を司徒とした。
ろくでもない年明けですが、劉備が生まれた年です。後から雨乞いをするように、この年は乾燥していたようです。だから火事が多い。

3月、157年に設置した冗従僕射を省いた。大尉・黄瓊が死んだ。4月、太常・劉矩(列伝66・循吏)を大尉とした。河間王・劉開の子である劉博を封じて、仁城王とした。
5月、星が心宿(二八宿の1つ)を犯した。原陵(光武帝の墓)の長寿門で、出火した。洛陽に、鶏卵くらいの大きさの雹が降った。桓帝が誅殺をやりすぎ、つまらない小人を寵愛したためだと言う。

6月、京兆郡・扶風郡と涼州で、地震があった。泰山と尤来山が崩れて裂けた。天下に大赦した。 司空・虞放を免じて、前ノ大尉・黄瓊を司空とした。
ケン為属国(治所は朱提)の蛮夷が百姓から掠奪したので、益州太守の山昱が破った。零吾羌と先零羌らが結びついて叛き、三輔を寇した。
7月、洛陽で雨乞いをした。
公卿以下を減俸し、王侯の租税の半分を借り受けた。関内侯(列侯の次位)、虎賁と羽林(ともに近衛兵)、緹騎(執金吾の部下の騎兵)、(五校尉の)営士、五大夫(徭役免除の特権が初めてもらえる位)を値付けして、販売した。
売位売官といえば霊帝の専売特許かと思っていましたが、桓帝のときにすでにやっていました!

9月、司空・黄瓊を免じて、大鴻臚・劉寵(列伝66・循吏)を司空とした。
10月、天竺から使者が来た。南陽・襄城・昆陽で、怪しげな言葉を放って叛乱したが、誅に伏した。先零と沈氐の羌が、并州・涼州を寇した。11月、中郎将・皇甫規が破った。
12月、夫余王が朝貢した。
そのうちローマからの使者が来ると思いますが、桓帝のときは朝貢が盛んですね。だから、国土を広げたという意味の号「桓帝」なのかなあ。
蛮や羌や鮮卑が足しげく「寇す」をやってくれますが、世界的に人口が流動を始めた時代なのかも知れません。だから、中国を利用すべく朝貢も盛んなのです。朝貢と寇掠は、中国にとっては正反対の働きかけですが、実は表裏一体かも!いま気づきました。
桓帝の時代を「梁冀討伐&宦官寵愛」で片付けてはダメですね。

162年
正月、156年に設置した太官の右監丞を省いた。南宮の丙署(宦官の役所)で出火した。
3月、沈氐羌が、張掖郡と酒泉郡を寇した。済北王・劉次が死んだ。
4月、長沙郡で賊がたち、桂陽郡と蒼梧郡を寇した。暴れ馬と逃げ出した象が、宮殿に突入した。
恭陵(安帝の墓)の東闕で出火した。虎賁の掖門で出火した。太学の西門が、ひとりでに壊れた。

5月、康陵(殤帝の墓)の園寝(墓守の詰所)で出火した。長沙郡、零陵郡で賊がたち、桂陽郡・蒼梧郡、南海郡、交趾郡を攻めた。御史中丞・盛修に討たせたが、勝てなかった。
洛陽で地震があった。公卿に命じて、封した意見書を集めた。中蔵府(財政を管理する役所)の承禄署で出火した。
7月、南宮の承善門で出火した。鳥吾羌が、漢陽郡・隴西郡・金城郡を寇したので、諸郡の兵でこれを破った。

8月、詔した。
「虎賁、羽林の近衛兵として、国の寮に住んでいる人のうち、役立たずは給料を50%カットせよ。越冬用のコートは支給するな。公卿以下も、コード代は半減だ」
ガイ県の賊が、長沙の郡県を襲って焼いた。益陽を寇して、県令を殺した。零陵蛮も叛き、長沙を寇した。
瑯邪郡が治まったので、155年に設置した都尉を省いた。

10月、武陵蛮が江陵を攻めた。南郡太守・李粛は、北に逃亡したので、公開処刑された。太常の馮コンを車騎将軍として、武陵蛮を討たせた。 公卿以下の給与と、王侯の租税を国家が借りて、兵糧に当てた。濯龍の宮殿の蔵を開いて、支払った。
11月、馮コンは、武陵蛮を破った。
京兆虎牙都尉(長安に屯す)の宗謙が、収賄で獄死した。テン那羌が、武威郡と張掖郡と酒泉郡を寇した。大尉の劉矩を免じて、太常の楊秉(列伝44)を大尉とした。

記事が、火事と天災と異民族ばかりです。
火事はおそらく放火だろうから、燃えた場所の機能に文句を付けたい人の仕業ですね。宦官、財政に文句があるのは分かりやすい。皇帝の墓の門が燃えるのは、易姓革命を期待してのイタズラとしか思えない。

163年
2月、司徒の种暠が死んだ。
3月、天下に大赦した。衛尉で頴川郡の許クを司徒にした。

4月、康陵(殤帝)を守っている東署で出火した。
殤帝は乳児のまま死んだのに、何度も墓を焼かれて可哀想だ。

5月、鮮卑が遼東属国を寇した。
7月、平陵(前漢ノ昭帝の墓)で出火した。
桂陽の盗賊が、境界を侵した。武陵蛮が復た叛いた。武陵太守・陳奉が戦って、破った。隴西太守の孫羌が、テン那羌を破った。
名が羌の人が、羌族の討伐を命じられるなんて、皮肉だ。きっと気分が悪くなったに違いない。作戦中に、幕営の人たちは、敵のことをなんて呼んだのだろうか。絶対に何人かは、うっかり「(敵の)羌は」と口走って、司令官に恥をかかせたに違いない!

8月、車騎将軍の馮コンを罷免した。
10月、桓帝は広成苑で校猟をして、函谷関、上林苑に行った。
よく出てくる地名です。函谷関が好きなのかなあ。呂布が出るぞ…
11月、司空の劉寵を免じた。南海郡で、賊が境界に寇した。
12月、衛尉の周景(列伝35)を司空にした。
この周景は、あの周瑜の従祖父です!ちなみにこの年は、荀彧が生まれました。未来の王佐が、種まきされた年です。
164年
正月、沛王・劉栄(光武帝5代の孫)が死んだ。
3月、コ県に隕石が落ちた。
4月、梁王・劉成(明帝の曾孫)が死んだ。
5月、洛陽に雹が降った。
7月、趙王・劉乾(光武帝の叔父・劉良の玄孫)が死んだ。野王県の山上に、龍の屍骸があった。荊州刺史・度尚は、零陵と桂陽で、盗賊と蛮夷を大いに平定した。

10月、桓帝は南方を巡って狩りをした。章陵県に達し、光武帝の旧居を祀り、園廟(光武帝の祖先の墓)を参った。太守と県令以下に、賜り物があった。雲夢沢に行き、漢水に到った。戻って新野県に行き、湖陽公主と新野公主(ともに光武帝の姉)、魯哀王(光武帝の兄)、寿張敬侯(光武帝のおじ・樊重)の廟を祀った。
護羌校尉の段熲は、当煎羌を破った。
12月、桓帝の車駕は、洛陽に戻った。
165年
正月、中常侍の左ワンを苦県に行かせ、老子を祀らせた。苦県は陳国にあり、老子の故郷である。
渤海王・劉悝が謀反したので、降格して癭陶王とした。癭陶県は、鉅鹿郡にある。
末日、日蝕した。公、卿、校尉に、賢良方正を推挙させた。

2月、南宮の嘉徳署に龍が現れた。千秋万歳殿で出火した。太僕である左称が、罪によって自殺した。
皇后の鄧氏が廃せられた。河南尹の鄧万世(皇后の叔父)と、虎賁中郎将の鄧会(皇后の兄の子)は、獄死した。
護羌校尉の段熲が、カン姐羌を破った。
3月、天下に大赦した。
4月、安陵(前漢ノ恵帝)の守署が出火した。郡国の諸所の祀堂を毀した。桓帝は黄老に傾倒し、他の信仰を迫害した。
済陰郡、東郡、済北で、黄河が清むという凶兆があった。濁っているべき河が透きとおるのは、陰陽の逆転であり、諸侯のなかから帝位を狙う人が出ることを表す。

5月、155年に設置した泰山都尉を廃した。大尉の楊秉が死んだ。
6月、コウ氏で地が裂けた。桂陽郡で、胡蘭と朱蓋らが復た離反し、郡県を攻め落として、零陵郡を寇した。零陵太守・陳球(列伝46)が防いだ。中郎将の度尚は、長沙太守の抗徐(あざなは伯徐、丹陽郡の人)を遣わして、胡蘭と朱蓋を斬らせた。
蒼梧太守の張叙は、賊に捕えられた。桂陽太守の任胤は、敵に背を向けて逃げた。臆病さを咎められ、張叙と任胤は公開処刑された。
地方官の資質として、戦の上手さが求められるようになりました。敵に捕縛されたり逃亡したりすると、公開処刑をされるのだから、たまらん(笑)後漢末に地方官は群雄へと変わるが、土台は桓帝の時代にできたね。

閏月、南宮の長秋宮にある和歓殿において、鉤楯署(苑を司る役所)、掖庭署、朔北署から出火した。
6月、段熲が当煎羌をコウ水のそばで破った。
7月、太中大夫の陳蕃を大尉とした。
8月、初めて郡国で田の所有者に、畝ごとに10銭の税金を課した。
土地税は今までなかったようで。
9月、洛陽で地震があった。
10月、司空の周景を免じて、太常の劉茂(あざなは叔盛、彭城郡の人)を司空とした。貴人の竇氏を皇后とした。
渤海の妖賊の蓋登らが、「太上皇帝」と称した。5コの玉印を造った。玉印は「皇帝信璽」「皇帝行璽」と書かれていて、あと3コには文字がなかった。璧を22コ、珪を5コ、 鉄券(功臣に与える鉄製の割符)を11コ造った。官僚機構を組み立てたが、みな誅に伏した。
『続漢書』が注に付いているから、それを付け足してみました。えらく詳細にまで、蓋登政権?のことが残っているものです。河北で独立国を志向するということで、黄巾の先輩ですね。

11月、徳陽殿の西閤殿(天子の日常生活空間)と、黄門の北寺(宦官の役所)で出火した。延焼して、広義門と神虎門(どちらも洛陽西門)も燃えて、人を焼き殺した。中常侍の管覇を苦県に行かせて、老子を祀らせた。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
『後漢書』本紀7、桓帝とは何者か
1)少年皇帝の憂鬱
2)旱・水・蝗・日蝕・地震
3)桓帝のクーデター
4)黄老世界に逃避行
5)桓帝期=曹操の版図
6)皇子殺害の勅令?