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『後漢書』本紀7、桓帝は何者か
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5)桓帝期=曹操の版図
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老子狂いは、桓帝が後漢の行く末を諦めてしまったことを表すのでしょう。逃避的な意味での「なるようになるわ」です。 桓帝の小さな頭では捉えられない、異民族の動きがある。ある民族は朝貢して機嫌を伺い、ある民族は攻めてくる。「奴らはどうしたいんだ。どういう背景があるのだ。考えるのも面倒だ」と。 揚州・荊州・益州・涼州・幽州あたりの周辺地域では、寇掠が耐えない。すなわち、後漢の実質的な国土が縮小し始めた。荊州なんて、のちに魏領となる北辺以外はガイコクですよ。
というより、鄴を落としたときの曹操領と、このときの後漢領は、ほぼイコールかも知れない。名のある群雄が地方にいないから気づかないが、後漢はそれほどに狭い。 桓帝本紀に書いてある戦場の地名が、曹操やのちの魏の外征先と同じだ。いま気づきました!
曹操は烏桓の北伐に長い年月をかけた。そんなことが出来たのは、「董卓以後、旧漢領の再統一」という性急に片付けるべき戦いから、「漢領の拡大」という、ゆったり時間をかけられる新しい命題に転換したからでしょう。 営業目標に対し、100%の達成はしていて、あとはどれだけ上に積めるかだ。着地点は任意でいい。
北伐で曹操は、切ない漢詩を作る。まるで老人のような。あのとき曹操は、もう墓碑に「漢ノ将軍」と書き残すという夢は達成していた。焦りはなかった。赤壁撤退も漢中放棄も、挫折ではないね。
脱線しましたが、、、
そんなとき心に優しいのは、己の存在より皇帝を重んじる宦官と、逃げ場を用意してくれる老子だ。 前年の暮れに光武帝を祀っているが、あれは始祖に断りを入れに行ったに違いない。「ごめんね、国を保てなかったけど、祟らないでね」と。洛陽に戻った翌月に、初めて宦官を老子の祭に行かせているのが、シンボリックな行動だと思います。
166年
正月、日蝕があった。公、卿、校尉、郡国に命じて、至孝な人を推挙させた。
沛国の戴異は、黄金の印で文字が刻まれていないものを拾った。広陵の人である龍尚とともに、井戸を祭って、符書(予言書)を作って、「太上皇」と称した。しかし誅に伏した。
詔した。
「ここ連年、作物は実らず、人民は飢えている。さらに洪水・旱魃・流行病の苦しみもある。盗賊がよく出て、南州(長沙・桂陽・零陵など)で多い。災難と怪異や日蝕は、天からの譴責である。政治を乱したのは朕のせいで、警告を受け取った。そこで大司農は、今年の税の取立てをやめて、前年の未納分もチャラにせよ。天災や盗賊のある郡では、租税を徴収しない。それ以外の郡では、来年から税は半分だ」
桓帝の詔に出てくる、盗賊がとくにヒドい地域は、のちに劉備が初めて拠って立つ場所です。劉備は、長江以南で手が出しにくい場所から、再スタートした。桓帝以来、地方に威令が届かない。その弱点までも忠実に継承した、漢の為政者・曹操を泣かせた。
3月、洛陽に火光がふらふらと現れたので、人は驚いて騒いだ。司隷・豫州で飢えて死ぬ人は、40%から50%に及んだ。死人の出た家は、断絶した。三府の掾(三公の属官)を遣わせて、救済させた。陳留太守の韋毅は、収賄罪で自殺した。
4月、済陰郡、東郡、済北郡、平原郡で、黄河が清んだ。司徒の許クを免じた。
5月、太常の胡広を司徒とした。
6月、南匈奴および烏桓と鮮卑は、辺縁の9郡を寇した。
7月、沈氐羌は、武威郡と張掖郡を寇した。詔して、武猛な人を推挙させた。ノルマは、三公が2人ずつ、卿と校尉は1人ずつだった。大尉・陳蕃を免じた。黄帝と老子を、濯龍宮に祭った。使匈奴中郎将の張奐に、南匈奴・烏桓・鮮卑を討たせた。
今までは「賢良方正」「直諌できる」が求人広告のキャッチコピーでした。でも勇猛な人を募ってしまった。いよいよ末期症状です。
9月、光禄勲の周景を大尉とした。南陽太守の成シンと、太原太守の劉質は、そしりで陥れられて公開処刑された。小黄門(宦官)の趙津が法を犯したので、劉質は拷問して殺した。宦官たちはこれを怨み怒り、復讐をしたのだ。司空の劉茂を免じた。
大秦(ローマ)国王の安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)が、象牙・犀角・玳瑁(タイマイ)を献じた。
12月、洛城のそばの竹や柏が、枯れて損なわれた。光禄勲で汝南の宣ホウ(あざなは伯応、東陽亭侯)を司空にした。南匈奴と烏桓が、民衆を率いて張奐に降伏した。
司隷校尉の李膺ら200余人が、そしりを受けて党人だと呼ばれ、獄に下って名前が王府のブラックリストに載った。
「太学の遊士を私的に囲い込み、諸郡の生徒と交際して悪さを企み、競い合って徒党を組み、朝廷の批判をして、世情・人身を惑わしております」というのが、宦官が李膺らを誣告した言葉だ。 有名な、第一次党錮ノ禁です。 宦官は己の利害に照らして、李膺らが邪魔だったのだね。桓帝にしてみれば、もう安楽の世界に逃げ込んでいるのに、いちいち現実に引き戻して、理想を語る人たちがウザかったのでしょう。だから、誣告だと知っていて黙認したのか。第一次では、死人は出てない。ほんの厄介払いのつもりだ。
167年
正月、先零羌が、三輔(長安を中心に、京兆・左馮翊・右扶風)を寇した。中郎将の張奐が、平定した。当煎羌が、武威郡を寇した。護羌校尉の段熲が、鸞鳥に追い討ちをかけて大いに破った。西羌をことごとく平定した。夫余王が、玄ト郡を寇した。太守の公孫域が、これを破った。
4月、先零羌が三輔を寇した。
羌が、全く平定されてないじゃないか! この執拗さが何かに似ているなあと思ったら、諸葛亮の北伐じゃないか(笑)
5月、洛陽と上党郡で地が裂けた。廬江郡に賊がたち、郡界を寇した。末日、日蝕した。公、卿、校尉に賢良方正を推挙させた。
住宅や車の販売にありそうな、紹介キャンペーンのように、やたらと人の名前を出させます。人脈と人物評が、世に出るときの糸口になるのは、桓帝がくり返し「推挙せよ」と言ったからだろう。三公と言えど、知り合いの持ち弾が尽きてくるから、卒業アルバムのごとき名簿が売られていれば飛びつく。
6月、天下に大赦した。党錮が解除され、永漢と改元した。阜陵王・劉統(光武帝5代の孫)が死んだ。
李膺らの供述の中に、宦官の子弟の名がたくさん出てきたので、宦官は懼れた。そこで、「天時だから(大赦に相応しい時候ですから)李膺らを許したらいかがですか」と桓帝に提案した。李膺らは、公職に就く権利を復活した。
8月、魏郡から、嘉禾が生えて、甘露が降ったと報告があった。巴郡から、黄龍が現れたと報告があった。 『続漢書』は記す。人が長江の支流で水浴びをしようとしたら、水が濁ったので、冗談で「龍がいたぞ、怖いなあ」と言い合った。この言葉がウワサとなって、郡の役所に伝わった。役人は「明るいニュースは、世間を励ますだろ」と思って、洛陽に報告した。それが本紀に書き残されてしまったのだ。桓帝の政治は、衰微して欠陥だらけだが、本紀に瑞兆の記事が多い。それらは、今回の巴郡の例のように、他愛もないウソだ。瑞祥があるべきでないとき、瑞祥が起きれば、順逆の反転だ。むしろ怪しげな凶兆となる。
二元論をクルクルと弄ばれては、あらゆる反論は成立しないよなあ。陰陽の思想しかりで、それが中国の文人の得意技なんだが。
6州で洪水があり、渤海郡で海が溢れた。州郡に詔があった。 「溺死した7歳以上の人に、1人あたり2000銭を支給せよ。一家全員が死んだならば、死体を余さず収容せよ。食物を失った人は、1人あたり3石を与えよ」 海が溢れる=津波か?
10月、先零羌が三輔を寇し、使匈奴中郎将・張奐が破った。
11月、西河郡で、白兎が現れたと報告があった。
12月、癭陶王・劉悝を戻して、渤海王とした。
渤海と言えば、海水で人が死にまくった直後じゃないか。桓帝は弟を許したというか、さらに仕打ちを加えたというか。どっちだろう。
丁丑、桓帝は徳陽殿で崩じた。享年36歳。戊寅、竇皇后を尊んで、皇太后とした。竇太后は臨朝(皇帝の代行で執政)した。
この年、博陵郡(桓帝の父の墓がある)と河間郡(桓帝の祖父の封地)の2郡で、租税と徭役を免除した。これは、豊郡と沛国(どちらも劉邦の故郷)にならったものである。
次はお楽しみの「論」と「賛」です。『後漢書』から桓帝への通信簿です。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
『後漢書』本紀7、桓帝とは何者か
1)少年皇帝の憂鬱
2)旱・水・蝗・日蝕・地震
3)桓帝のクーデター
4)黄老世界に逃避行
5)桓帝期=曹操の版図
6)皇子殺害の勅令?
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