表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

148年、劉翼と劉慶とを尊ぶ

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

148年春、桓帝が元服し、梁冀を訪れる

孝質皇帝建和二年(戊子,公元一四八年)
春,正月,甲子,帝加元服。庚午,赦天下。
三月,戊辰,帝從皇太后幸大將軍冀府。
白馬羌寇廣漢屬國,殺長吏。益州刺史率板楯蠻討破之。

148年春正月甲子、桓帝は元服した。正月庚午、天下を赦した。
3月戊辰、桓帝は皇太后に従い、大將軍・梁冀の府にゆく。

桓帝は梁冀の役所に、何しに行った?『後漢書』を掘れば、何か出るか?桓帝が、梁冀の手駒であることは、明白です。王莽のときの平帝や孺子嬰とおなじだ。梁冀にとって幸福なのは、桓帝が夭折しなかったこと。
のちに桓帝は物心をつけ、梁冀を倒します。159年です。ネタバレ!

白馬羌が、廣漢屬國を寇して、長吏を殺した。益州刺史は、板楯蠻をひきい、白馬羌をやぶる。

胡三省はいう。安帝は、蜀郡の北部都尉を、廣漢屬國の都尉とした。
ぼくは思う。益州刺史の兵力は、板楯蠻。異民族をつかって、異民族を制す。後漢の国内というより、出先の植民地で、バランスをとるような治め方だなあ。


148年夏~、

夏,四月,丙子,封帝弟顧為平原王,奉孝崇皇祀;尊孝崇皇夫人馬氏為孝崇園貴 人。
五月,癸丑,北宮掖廷中德陽殿及左掖門火,車駕移幸南宮。
六月,改清河為甘陵。立安平孝王得子經侯理為甘陵王。奉孝德皇祀。
秋,七月,京師大水。

148年夏4月丙子、桓帝の弟・劉顧を、平原王とした。劉顧に、孝崇皇を祀らせた。孝崇皇夫人の馬氏を、孝崇園貴 人とした。

ぼくは補う。孝崇皇とは、劉翼だ。桓帝の父、章帝の孫。劉翼の夫人は、まだ生きていたのか。馬氏というのだなあ。
どうでもいいですが。自分で設置した、サイト内検索のグーグル小窓が、とても便利です。こういう注釈が可能になるのは、知識でなく、検索のおかげ。

5月癸丑、北宮の掖廷で、中德陽殿と左掖門が出火した。桓帝の車駕は、南宮にうつる。
6月、清河を甘陵と改めた。安平孝王・劉得の子である、經侯・劉理を、甘陵王とした。劉理に、孝德皇を祀らせた。

胡三省はいう。経県は、安平国に属す。
ぼくは補う。孝德皇とは、劉慶である。章帝の子、安帝の父。桓帝とのつながりは、封国がらみ?なんだっけ。桓帝に連なる皇族を、どんどん尊んでゆくのでしょう。質帝や劉蒜の系統が、尊ばれてない。これは、偶然ではなかろう。政敵。
ところで、質帝が「毒殺」されたという記事は、怪しい。王莽が平帝を毒殺されたのと、おなじく。そもそも以前に書いたように、質帝の臨終が、臨場感たっぷりに伝わっていることが、怪しい。
質帝や劉蒜の系統と、桓帝の系統。梁冀は前者と、史料には残らない対立があった。梁冀は後者と、史料には残らない癒着があったのでは。そう思わずには、いられない。梁冀その人に帰着させられない、前代からの因縁。鄧氏と梁氏という、代々の外戚のからみも気になる。地下で連動してないか。
ネタバレすると、あとで鄧氏の娘が、梁氏を名のって、桓帝の皇后になります。浅からぬ縁あり。この点、後日ふくらまします。

148年秋7月、京師で大水した。101130

『資治通鑑』の1年あたりの分量、バラつきがひどい。
ところで。
本文が少ないから、つづけて書きます。
後漢の皇帝の系図は、3代章帝から、横にひろがる。『後漢書』は、章帝八王の列伝を立てて、「章帝の人柄が素晴らしかったから、子孫が栄えた」なんて、無責任を言う。そうかも知れないが、そうでないかも知れない。
子孫が栄えるかどうか。この問題は、歴史家には立ち入れない、理系の世界で決まるのかもしれない。でも、歴史家が勘ぐれる範囲で、仮説を立ててもいいと思う。
章帝を境界にして、それぞれの皇統をバックアップする外戚の家が、きっかり並列&拮抗したのではないか。不自然な系図の形は、何らかの理由をつけないと、正視できない。っていうか、おなじ光武帝の子孫が、遺伝的な異常を起こすのは、いまいち納得できない。政治的な影響が、系図をゆがめたと見たい。
梁氏と鄧氏。『後漢書』を問題意識をもち、読んでみる予定。