142年、梁冀の風潮にあらがう官吏
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
142年春、漢安と改元する
142年春正月癸巳、天下に赦し、改元した。
142年秋、順帝の使者・張綱が、梁冀を弾劾
142年秋8月、南匈奴の句龍・吾斯と薁鞬、台耆らが、ふたたび反した。并州を寇掠した。
8月丁卯、中央の人が、州郡をまわり、官吏の勤務を査定した。まわるのは、侍中をする河內の杜喬、光禄大夫する汝南の周舉、守光祿大夫する周栩、馮羨、魏郡の欒巴、犍為武陽の張綱、郭遵、劉班である。
なぜ、このタイミングで、この査察をしたのか。分からない。つねに行われていたが、梁冀を批判する名ゼリフが生まれたから、ピックアップされるか。もしくは、ほんとうに順帝が、今回だけ特別にやったか。だとしたら、相応の理由が必要である。
賢良や忠勤を、明らかにした。貪汚で罪があれば、刺史や太守が、駅馬で順帝に報告した。墨綬より下位ならば、その場で印綬を取りあげられた。
杜喬らは、視察を命じられた。張綱だけは、車輪を洛陽都亭にうめて、言った。「豺狼が目の前にいるのに、どうして狐狸を探す必要があるんだ」と。
張綱は、弾劾した。「大将軍の梁冀と、河南尹の梁不疑は、外戚だから、ムチャしている。先に責めるべきは、梁氏だ」と。張綱の意見が、順帝に提出された。京師は、ふるえた。
ときに順帝の梁皇后に引っぱられ、朝廷に梁氏がおおい。順帝は張綱を正しいと思ったが、もちいず。
杜喬は兗州にゆき、査定した。「泰山太守の李固が、天下で第一だ」と。李固は、將作大匠となった。
8人がまわった結果、おおく梁冀の親党を弾劾した。順帝は、もちいず。侍御史する河南の種暠は、順帝を急かした。廷
尉する吳雄、將作大匠する李固も、順帝に言った。「8人が糾弾した人を、すぐに罰しなさい」と。順帝は、やっと罰した。梁冀は張綱をうらんだ。
でもまあ、順帝を善玉にして、梁冀を悪玉にするのも、ちがうな。
142年秋9月、広陵の張嬰が、張綱に降る
ときに広陵の賊・張嬰は、揚州と徐州を、10余年も乱した。いまの太守は、張嬰を制さず。梁冀は張綱を、広陵太守にした。前任はおおく兵馬を求めたが、張綱は1台の車だけを求めて着任した。張綱は、張嬰を説得した。
「前任の広陵太守は、貪暴だった。あなた(張嬰)が憤ったのも、もっとも。さて2択だ。私(張綱)に降伏するか。荊揚兗豫4州の兵と戦い、一族を皆殺しにされるか。どっちがよいか、よく考えなさい」と。
張嬰は泣いた。「張綱さんに降ります」と。翌日に張嬰は、1万余人をひきい、妻子とともに面縛して降った。
張綱は、張嬰と酒を飲んだ。朝廷は南州がしずまったから、張嬰をほめた。順帝は張綱を封じようとしたが、梁冀がとめた。広陵に1年いて、張綱は死んだ。張嬰ら5百余人は、張嬰の喪をおこない、犍為で墓土をせおった。順帝は、張綱の子・張続を郎中にした。銭1百万をあたえた。
142年、貪汚の風潮にあらがう3人の地方官
このとき、太守で善政する人は以下の3人だ。雒陽令する渤海の任峻、冀州刺史する京兆の蘇章、膠東相する陳留の
吳祐である。
雒陽令は、王渙のあと、すぐれた人がいなかった。いま洛陽令の任峻は、人材をもちいた。任峻は、王渙よりきびしく取り締まった。だが文理や政教は、王渙のときほど、行き渡らなかった。
蘇章は、冀州刺史となった。かつての恩人が、清河太守である。清河太守は、ワイロしている。蘇章は、清河太守と酒を飲んだ。清河太守は、冀州刺史の蘇章がワイロを見のがしてくれると思い、言った。「みな人には、天が1つある。だが私には、天が2つある」と。だが蘇章は、許さない。「清河太守には私恩があるので、酒を飲みました。でも冀州刺史の役割は、公務です」と。蘇章は、清河太守の罪をただした。冀州は、粛然とした。
清河太守が言った2つめの天は、蘇章か?梁冀か? 胡三省の解釈では、蘇章が2つめの天である。「キミを天として仰ぐから、便宜をはかってね」と。だがぼくは、梁冀だと思う。「順帝にならぶ梁冀が、後ろ盾にいる。だから私のワイロを、弾劾するんじゃないぞ」と。清河太守は、蘇章にコビたのでなく、脅したのだ。
のちに蘇章は、梁冀を批判した。天下の民は、蘇章をほめたが、順帝は蘇章をもちいず。
呉祐は、膠東相となった。
呉祐の部下・嗇夫の孫性は、税金をフトコロにいれた。父に布をわたした。
孫性の父は怒って、孫性を呉祐に自首させた。呉祐は、孫性の父をほめた。「親族の不正をあばくのは、すばらしい」と。孫性の父に謝し、布をあげた。
142年冬、燒何羌のほかが降り、三輔が平穏
罕羌邑落五千餘戶詣趙沖降,唯燒何種據參絲未下。甲戌,罷張喬軍屯。 十一月,壬午,以司隸校尉下邳趙峻為太尉,大司農胡廣為司徒。
142年冬10月辛未、太尉の桓焉と、司徒の劉壽を免ず。罕羌の邑落5千余戶が、趙沖に降った。ただ燒何種だけが參県にいて、後漢に降らない。10月甲戌、張喬を軍屯からもどした。
ぼくは補う。141年11月庚子、執金吾の張喬に、車騎将軍を代行させ、三輔においた。たった1年で、張喬をおいた効果があらわれた。すごい。
142年11月壬午、司隸校尉をする下邳の趙峻を太尉とした。大司農の胡廣を司徒とした。101128