149年、潁川人士の祖父たち
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
149年、趙戒を免じ、袁湯を太尉とする
秋,八月,乙丑,有星孛於天市。 京師大水。 九月,己卯,地震。庚寅,地又震。 郡、國五山崩。冬,十月,太尉趙戒免;以司徒袁湯為太尉,大司農河內張歆為司 徒。
149年夏4月丁卯みそか、日食した。
149年秋8月乙丑、天市に彗星。京師が大水した。
9月己卯、地震した。9月庚寅、また地震した。郡國で五山が崩れた。
149年冬10月、太尉の趙戒を免じた。司徒の袁湯を、太尉とした。大司農する河內の張歆を、司徒とした。
149年、荀彧の祖父・荀爽が死ぬ
膺性簡亢,無所交接,唯以淑為師,以同郡陳寔為友。荀爽嘗就謁膺,因為 其御;既還,喜曰:「今日乃得御李君矣!」其見慕如此。
この149年、さきの朗陵侯相・荀淑が死んだ。荀淑は、若くして博學で高行だ。當世の名賢である、李固と李膺は、どちらも荀淑に師宗した。荀淑は朗
陵で政治して、神君と呼ばれた。
梁冀に対抗した李固は、すでに荀淑の弟子だ。
『資治通鑑』この149年は、のちに曹操が吸収した、潁川の清流の祖先がおおく登場する。梁冀の時代から、この人脈の萌芽があったことを、よく確認しておきたい。袁紹でなく曹操が、この人脈を吸収した。
荀淑の活躍の場が、汝南だったことも、注目。
【追記】goushu氏はいう。(引用はじめ)
149年を見ているんだけど「149年、荀彧の祖父・荀爽が死ぬ」のタイトル及び訳文中で、「荀淑」と「荀爽」がごっちゃになっています。(引用おわり)
ぼくは補う。というわけで、荀爽を修正したつもりです。
荀淑には、8人の子がある。儉、緄、靖、燾、汪、爽、肅、專だ。八龍と呼ばれた。荀淑の故郷は、もと西豪里という。だが、穎陰令する渤海の苑康は、むかしの高陽氏にちなみ、西豪里を高陽里と名づけた。高陽氏には、才能ある子が8人いたからだ。
李膺は、性質が簡亢だ。人と交接しない。ただ李膺は、荀淑だけを師とし、同郡の陳寔だけを友とした。かうて荀淑は李膺に会い、喜んで言った。「今日は李膺に会えたぞ」と。李膺が荀淑に慕われるのは、このとおり。
149年、太丘令・陳寔が吏民に慕われる
陳寔は郡の命令で、ぽつんと西門亭 長となった。
「陳寔出於單微,為郡西門亭長。」を「陳寔は郡の命令で、ぽつんと西門亭長となった。」と訳しているが、「單微」は頼るべき親族が無く(単)代々それなりの地位の役人を出すような立派な家柄でも無かった(微)という事じゃ無いかな。それで、(潁川)郡の西門亭長となった。(引用おわり)
同郡の錘皓は、篤が称えられ、9回も公府に辟された人だ。鍾晧は陳寔と年齢が離れているが、鍾晧は陳寔を友とした。鍾晧は郡の功曹となり、司
徒府に辟された。鍾晧は辞退した。郡の太守が問う。「鍾晧の代わりは、誰か」と。鍾晧は答えた。「西門亭長の陳寔がよい」と。陳寔はこれを聞いて言った。「何ぞ獨り我を知るを識らざる!」と。太守は、陳寔を功曹とした。
【追記】goushu氏はいう。(引用はじめ)
「皓為郡功曹,辟司徒府;臨辭」の「臨辭」を「鍾晧は辞退した。」と訳しておられるが、これは(司徒府に赴くために)潁川郡の太守のもとを辞する(去る)に際してということだと思います。
「鐘君似不察人,不知何獨識我!」 「鐘君 人を察せざるに似たり、知らず何ぞ獨り我を識るのみならん」 鐘君は人(の才能を)を察していないかのようだ、(功曹にふさわしい人材は)いったい私を知るのみとでもいうのだろうか(私以外にでもふさわしい人はいるでしょう)と。(引用おわり)
ときに中常侍する山陽の侯覽は、太守の高倫をつかい、人事に口出した。高倫は、文學掾を任命した。
陳寔は、新しい文學掾が、適任でないと思う。陳寔は高倫に言った。「文学掾は適任でない。だが中常侍・侯覧の命令なら、逆らえない。私を異動させて、文学掾から離してくれ」と。高倫は、陳寔の異動をゆるした。
郷論は、陳寔の変則的な異動をあやしむ。だが陳寔は、理由を言わず。のちに高倫は、尚書に遷った。郡中の士大夫が、綸氏県まで見送った。高倫は、陳寔の異動理由を話した。士大夫は、陳寔の徳に服した。のちに陳寔は、太丘長となった。百姓は安じた。
陳寔と太守高倫のところは「外従り署す」というのが具体的にどういうことなのかよくわからないが、前後の文脈から判断すると多分こんなながれ。前節で陳寔は鍾晧に代わって郡の功曹となった。功曹は胡注に選署を主るとあって、郡吏の任用に携わる職であった。
高倫は中常侍の請託で、とある人物を吏に任用しなければならなくなり、太守の命令書(教)を発して、その人物を文學掾にしようとした。多分その教は、選用を司る功曹の陳寔のもとに真っ先に届いた。陳寔は教を受理すると太守が請託を受けたということで非難を受けることを恐れ、こっそり太守のもとを訪れて直談判し、(多分だけど)功曹の陳寔が問題の人物を文学掾に(推薦?)任用するという形式にして、不適当な人材を任用したという汚名をかぶったということだと思う。 (引用おわり)
隣県の民も、陳寔が治める太丘県にきた。陳寔は訓導し、隣県にもどした。官吏は、民が訴訟することを禁じたい。陳寔は言った。「訴訟を禁じたら、理を正せなくなる。訴訟を禁じるな」と。官吏はこれを聞き、歎じた。「陳寔の言うとおりなら、冤罪は起きない」と。
沛国の相が税収をネコババして、陳寔の印綬をとりあげた。太丘県の吏民は、陳寔を追思した。
「以沛相賦斂違法,解印綬去」は、事情が詳しく記述されていないのでよくわからないけど、この書き方だと、沛国の相が陳寔を辞めさせたのではなく、陳寔が自ら官を辞職して去っていったように読めると思う。
李膺は後漢書党錮伝の序に「強禦を畏れず」とあるように、勢力ある相手にも是非を曲げない人物であったのにたいし、鍾瑾は白黒をはっきりさせない、相手の非をはっきり咎めたりしなかった。多分そういうこと。
だから鍾晧は鍾瑾に「李膺の祖父と父親は高官で、一族も盛んだ。だからそう(是非をはっきり貫き通すことが)できるのだ」と言ったんじゃないかと思う。(引用おわり)
149年、鍾晧は、一族の保全を優先する
鍾晧は、荀淑と名をならべる。つねに李膺は歎じた。「荀君は清識だから、尚びにくい。鐘君は至德だから、師としやすい」と。鍾晧の兄の子・鍾瑾の母は、李膺のおばだ。鍾瑾は李膺と同い歳で、名声がおなじ。
李膺の祖父・太尉の李修は、鍾瑾をほめた。「鍾瑾は、李氏の家性がある。国に道があれば、道をまもる。国に道がなければ、道をつくる」と。李膺は、妹を鍾瑾の妻とした。
ぼくは思う。いわゆる清流は通婚することで、「思想も血筋も、共有している」という人脈をつくったのだね。すでに梁冀の時代に。魏晋に、名声ある士大夫が通婚するのは、新しく始まったことでない。
かつて李膺は、鍾瑾に言う。「孟子はいう。人の是非の心がなければ、人でないと。弟(鍾瑾)は、なんと分別のないことか」と。
鍾瑾は鍾晧に、李膺の言葉を話した。鍾晧は言った。「李膺の祖父と父親は、官位にあるとき、同族が盛んだ。だから、分別がないと言ったのでは。むかし斉の国子は、人の過ちを招き、怨まれた。いま状況がちがう。自分も家族も、保全することが貴いのだ」と。101202
ぼくは思う。鍾晧の言うこと、うまく理解できないが。李膺の祖父や父親のときは、同族や与党の官位をあげた。梁冀のやり方と同じだ。結果、イマイチな人材まで、世間に影響力をもった。このほころびが、同族を滅ぼす原因になり得る。危険だ。
いっぽう鍾晧は、いまの後漢で一族を栄達させず、嵐が去るのを待てと言ったか。どうせ栄達しても、いずれ冤罪をかぶるのだ。鍾晧の気づかいは、魏末に鍾会くんが失敗して、破綻する。笑