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『晋書』列伝3、建国の功臣 1)王祥、王覽、鄭沖
『晋書』の臣下で、列伝の最初を飾る人たち。
簡単な人物紹介にまとめるつもりが、列伝の漢文とにらみ合っているうちに、訳し始めてしまい、長くなりました。
翻訳としては網羅性がハンパですし、優れた翻訳が載っているHPもあります。ここでは、晋を建国した功臣たちのアウトラインを、気楽に読んで頂ければと思います。
宮城谷さんの小説を参考に、漢文の引用部分を「」で括った台詞に置き換えて、日本語として読みやすくする試みをしています。改行が増えるから、文章の見た目もスッキリするという利点もありつつ。
◆列傳第三 王祥、鄭沖、何曾
王祥
あざなは休徵、琅邪臨沂の人。漢代の諫議大夫、王吉の後裔である。祖父の王仁は、青州刺史。
病気の母が「魚を食べたい」というから、氷の張った水面を裸で温め、釣り穴を開けようとした。氷が自然に解けて、2匹の鯉が飛び出した。母に食べさせることができた。
母が亡くなると、継母の硃氏に虐められ、父からの愛も途切れた。王祥は、損な意味で、シンデレラ・ボーイだ。

後漢末の混乱で、廬江に避難して30年以上、隠居した。徐州刺史の呂虔に召し出され、州の政治を助けた。

王祥は、4代魏帝の曹髦に「三老」として敬われた。王祥は南向きに座り、曹髦は北向きに座り、君臣の席順を逆転させて教授をした。曹髦が司馬昭に殺されたとき、臆面なく号泣した。司馬昭の顔色を伺っていた人たちは、恥じ入った。
司馬昭が晋王になると、荀顗は王祥に言った。
「司馬昭さまに、王を敬う拝礼をして下さい」
王祥は反発した。
「司馬昭は魏の相国だから、確かに尊い。だが私は魏の三公だ。魏臣としてランクが1つ違うだけなのに、拝礼は要らんだろ
王祥は司馬昭に、長揖(通常の礼)をした。
司馬炎が晋王になると、王祥は太保になった。269年に死んだ。
葬儀には、晋朝の臣がゾロゾロ来たりせず、身内だけで質素に弔った。族孫の王戎は、「清達と言うべきかな!」と称えた。

王覽
王祥の弟で、あざなは玄通。王祥を虐めた継母の実子だ。連れ子ではなく、再婚してから出来た子です。
「ママ、兄さんを虐めないで」
2歳や3歳の王覽は、泣いて王祥に抱きつき、庇った。成童になると母を諌めた。
母は酒に鴆毒を盛り、王祥に飲ませようとした。王覽が立ち上がって杯を取り上げたから、王祥は毒に気づいた。母は杯を奪い返し、それでも王祥に飲ませようとした。見苦しくて、芸がないことである。
のちに母は、王祥に毒入りの饌を与えた。王覽が代わりに食べると言った。母は可愛い実子が死んでは困るから、王覽から饌を取り上げた。毒入りだと暴露したに等しい。無理やりだなあ。

王覽の名声は、兄の王祥に次いだ。太中大夫になり、俸禄は九卿と同じだった。のちに光録太傅になった。 278年、73歳で死んだ。
はじめ徐州刺史の呂虔は、刀を持っていた。
「この刀は、持ち主を三公にしてくれる。だが、もし資格のない人が持てば、逆に持ち主を傷つける」
というイワクツキだった。
呂虔は、兄の王祥に押し付けた。王祥は三公になれずに、死を迎えた。王祥はこの刀を、弟の王覽に与えた。果たして、王覽-王裁-王導と代を重ねて、家系から東晋の大宰相を輩出した。
ツッコミどころは、呂虔だろう。どこから三公になれる刀を持ち出したのだ。あなたは『演義』で焼き払われるザコ敵だろう。

〔追記〕
09年4月に出版されたばかりの渡辺義浩氏の『武将34選』によると、孫堅に殺された荊州刺史の王叡は、王祥のおじだとか。
孫呉の皇族が仇敵である王氏。王導のとき、かつて孫呉の下にいた揚州の名士たちに、東晋への協力を仰ぐ。すごい運命の循環だと思い、愛知から大阪に向う電車で大騒ぎしてしまった。

鄭沖
あざなは文和で、滎陽開封の人。賈詡とあざなが同じだ。
寒微な家の出身だ。曹丕が太子になったとき、文学として侍った。曹爽政権で、251年に司空になった。曹髦に『尚書』を講義し、司徒になった。曹奐のとき太保になり、三公の上位になった。
蜀を滅ぼしたあと司馬昭は、新しい国の制度を研究させた。賈充や羊祜は、鄭沖にチェックしてもらってから、禮儀や律令を施行した。西晋に流行った、学者大臣の先駆けだ。
274年に、鄭沖は死んだ。
はじめ鄭沖は、孫邕や曹羲や荀顗や何晏とともに、『論語』への優れた訓注を編集して、『論語集解』をまとめた。唐代にも現存する。
鄭沖には子がなかったから、從子の鄭徽が継ぎ、平原内史となった。鄭徽の子の、鄭簡が継いだ。
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このコンテンツの目次
『晋書』列伝3、建国の功臣
1)王祥、王覽、鄭沖
2)何曾、何劭、何遵、何綏
3)石苞、石喬、石超
4)石崇、歐陽建、孫鑠